薬味が好きである。

薬味が好きである。

蕎麦は、薬味のネギを食べるために存在すると思っている。

厚揚げよりも冷や奴がいい。しゃぶしゃぶは豚肉よりも牛肉がいい。ステーキはミディアムレアがちょうどいい……ありとあらゆるわがままを振りかざして人は食を選択している。しかし薬味はどこの食事でも同じように存在し、シャキシャキとした歯ごたえと、スッキリした香りだけを残して去っていく。まるでお口の中の正義の味方、スーパーマンの所業である。

自己主張は一切せず、この強烈な存在感。きっと薬味はただ者ではないのだ。能ある鷹は爪を隠すように、薬味は自分が優れていることをひけらかさない。味オンチの私に言わせれば、冷や奴なんて薬味が無ければ無味である。それでも食後の記憶に残るのは薬味ではなく豆腐。「あぁっ、薬味が美味しかったなぁ!」なんて感想は一度も述べたことがない。

薬味はすごい。メイン食材よりも高いポテンシャルを持っていることは間違いない。

ここまで薬味を賞賛しているにも関わらず、私は薬味がメイン食材になることは天地がひっくり返るくらいありえないとも思っている。

たとえばネギなど、どうだろう。焼いたり煮たりすれば甘くて美味しいが、薬味に使われるように千切りにして生で食べ続けるのはたまったものじゃないだろう。辛味で涙が出るだろうし、刺激で胃を壊す自信がある。みょうがをバリバリ満腹になるまで食べるのは、新しいイジメの手法にしか思えないし、ゆずを皮ごとまるまる食べたら、酸っぱさと渋さで悶えそうだ。

薬味に使われる食材は、必ずひと癖ある。辛い、すっぱい、渋い、苦い……大量には食べ難い、かなり致命的な短所である。しかし、それが薬味になるとどうだろう。その短所が薬味としては欠かせないものになる。短所がそのまま長所になるのだ。

薬味が好きである。

薬味は、まるで私たち人間そのもののようだからである。

私たち一人一人にも、必ずひと癖がある。短所がある。でもその短所は、きっとどこかでは欠かせない長所なのである。あなたの短所は誰かにとっては長所かもしれない。あなたの難儀な癖が、なにかの仕事では欠かすことのできない能力になるかもしれない。

薬味を食べていると、私の短所もいつか長所として受け入れてもらえる場所があるかもしれない、と思えてくる。シャキシャキという歯ごたえの音は、希望の足音なのかもしれない、と思う。

一皿の料理を舞台だと考えると、薬味は脇役である。まるで通行人、エキストラである。己の立場をわきまえて、ひたすら主役を引き立てている。そして、脇役だからこそ輝ける役者が起用されている。

私は恥ずかしくなる。もしも自分が舞台に立つことがあるのならば、きっと私は自分の能力ではなく願望で役を選ぶのだろう。目立ちたいなら主役に、可愛い服を着たいならお姫様に、セリフを覚えるのが面倒くさいなら木の役になりたいと思う。でも本当に大切なことは適材適所、ということ。自分の長所と短所をよく知り、ありのままでいられる役になる。そのときにはじめて、人は輝くのではないだろうか。主役でも、脇役でも、たとえ木の役であっても。ありのままでいられる人が、きっと一番輝いている。短所をありのままにさらけ出している薬味が、輝いているように。

薬味が好きである。

薬味は、名脇役なのである。目立つことはない。もしかしたら、いてもいなくてもストーリーには支障がないかもしれない。主役のように名前を覚えてもらえることもないだろう。でも、きっと誰もが言うのだ。「この人なしでは……」。

薬味なしでは全部食べきることはできない。こってりとしたお肉も。味のない豆腐も。臭みがある納豆も。最初は美味しく食べていても、きっと中盤から苦しくなる。名脇役がいない映画のように。

心の中に薬味を取り入れて生きていきたい。自分が適している場所で、私らしく、短所も必要な物だと受け入れていきたい。

いつかどこかの場所で、「あなたなしでは……」と言われたい。そのためには、私らしさを手放してはいけないのだと、千切りのネギは教えてくれる。

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