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正しさで人を殺しちゃわないために。

すこし真面目な話をする。


在宅勤務も2週間を超えた。慣れなかった前週に比べ、今週は集中モードに入り、ひたすら家で原稿と向き合っていた。

緊急事態宣言、目まぐるしく変わる東京都の対応。NHKを一日中つけっぱなしにして、新たな情報が入るたびに届いた原稿の中身を変える作業が続く。加筆修正で済むのもあったり、政府にちゃぶ台返しをくらってボツになったり。報道ステーションまで見たら気づけば23時を回っている。そんな日々が1週間続いた。

ニューヨークと上海からも現地をリポートする原稿が上がってきた。特にニューヨークの現状は凄まじく、端的にいって地獄の様相だった。一行の文、たった一つの単語から、これを書いたジャーナリストの切迫した、激しく強い思いがにじみ出ていて胸が苦しくなる。目を覆いたくなる。こんな感情は災害取材をした以来のことだ。

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この1週間の間に、「正義中毒」というワードがトレンド入りしていた。感染した人を叩き、休業しないお店を叩く、少しはずれた行動をする人を叩く……たしかに正論を主張すれば、相手を黙らせられるだろう。まっとうな市井の人として"勝った"気にもなれるかもしれない。

だけれど、その鋭利で隙のない言葉は、いずれは回り回って自分自身にも突き刺さるものだ。相手から発言を奪い、思考を奪い、歩み寄りを奪っているとき、自分の心の中でもまったく同じことが行われ、大切な感情を自分の手で殺してしまっていることにはなかなか気づけない。

いまのTwitterは、東日本大震災のときから何も変わっていない。いやむしろ、あの9年前を礎にして日本のタイムラインはできあがってしまったのかもしれない。

何もできなくてもどかしいとか、いまは我慢のときだからがんばろうとか。正しい気持ちは強ければ強いほど、とげとげしい鈍器となり、少しでもはみ出ている人をぶん殴る。正しさは、人を殺してしまうから。それは自分がかつて「報道機関」という大義名分をかざして取材していたころと重なるし、一線から離れた今は自戒を込めてこれを書いている。

いまわたしは、冒頭の仕事とは別に今回の騒動とは全く関係のない原稿も書いている。自分のキャリアの中では今のところ最大に思い入れのある大切な原稿だ。なぜなら自分の故郷を全国にアピールできるチャンスだから。取材、執筆、編集をたった1人で行うという、うちではめずらしい仕事をやっている。

この古賀さんのnote。業界下っ端のわたしなんぞが同じ気持ちになるのもおこがましいけれど、でもやはり共感してしまった。いまこの時に、“不要不急"の記事を出す意味とは。いまこれを世に出す意味ってあるんだろうか?書きながらそう思ったりする。

どんな人にも優しくしようとかはいわない。ただ、正しさだけを追い求めるのは疲れてしまうから。人を正しさで殺しちゃわないようにする役割は、かつて音楽やアートのような自由な表現文化が担っていた。それに触れられないいま、文章を書く人間としては、せめて言葉だけは自由でいたい。せめて言葉にだけは、優しい気持ちとユーモアを乗せていたいと思う。

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人によってはこれも外れた行動に受け取られるのかもしれないけれど、営業していないお店がやっているテイクアウト。家から近いのと、1000平米以下の小規模なお店にとっては、デリバリーやそれに必要な個別包装のコストも多大なものになる。

好きな店には潰れてほしくないじゃん。なにより拙い自炊生活に飽きてたまには豪華なもの食べたいじゃん!ということで西荻窪にあるとら屋食堂さんのビリヤニをお持ち帰りした。無機質なタッパーの中でもほくほくしていてすっごくおいしそう。

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ああ、お店で食べないというのは、そこで使われている食器やグラスを眺めることもないし、これを作っている人の表情も見えないんだな。やっぱり悲しいけれど、人が丹精込めて作った料理は、やっぱりめちゃくちゃおいしかった。


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