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わたしが中国茶を学び始めた理由

いつもは中国茶や日本の茶道に関連したコラムを書いていましたが、今回は『わたしが中国茶を学び始めた理由』について書きたいと思います。


中国茶や台湾茶に限らず、お茶の世界を学ぶ方は年々増えているかと思います。その理由やきっかけは様々でしょうが、私の場合はほんの少しだけ特殊かもしれません。

わたしが中国茶をはじめたきっかけを簡単にまとめてしまえば、
〈 母親の遺した物が中国茶(台湾茶)の茶壺だった〉ことです。

大雑把ではありますが、自分とお茶の出会いの物語を記したいと思います。自分自身の話でたいへん恐縮ですが、お付き合いいただけますと幸いです。


わたしの実家はある年の12月に残念ながら火事になってしまい、日本家屋の自宅は木造だったことから火の手はすぐに勢いを増し自宅はお庭を含めて全焼に近い状態で、母は火事によって亡くなりました。わたしはすでに親元から離れて生活をしていたので、連絡を受けて実家に戻ったときは野次馬の人だかりで、その人だかりの噂話によって母の死を悟りました。新聞にも載ってしまい、わたしには本当に衝撃的な出来事で、その突然の事件でどうしようもない無念を抱え、きちんと立ち直るのに約10年の年月がかかりました。

火事の起こった命日は寒い冬の12月で、毎年の12月は気持ちが沈み、ストーブや灯油の匂いを嗅いだり街で赤い消防車を見かけるととても暗い気持ちになっていました。当時、警察の検死結果で正確な死因結果が得られず保険がおりなかったため、経済的にもとても大変な時期が続きました。
わたしの父は幼少期に母と離婚してその後すでに病気で亡くなっていて、火事になった時は母の再婚相手であった父がいました。苦しい経験をその父とともに経験したものの、その父も今は新しい家族を持ち、わたしは自分の考えがあって親の戸籍から抜けたこともあり疎遠になっています。
けれども母のお墓がこの父方(再婚)の実家の天草にあり、お墓参りや大事な報告だけは続けているので、親戚の方とは時折やりとりをさせていただいています。血は繋がっていませんが、特にたくさんのことを教えてくれる祖母を心から尊敬しています。それに美しい天草の地にわたし自身大きな影響を受けています。「子は鎹」と言うけれど、わたしの場合は「墓は鎹」と言う教訓をいただきました。

苦しい時期があったもののその時に様々な人たちの支えや励ましがあったおかげさまで、時間がかかりながらもありがたいことに自分のやりたいことを見つけ、それがセラピストの仕事でした。やりたいことが見つかるまでのそれ以前の20代のわたしは自分の心に蓋をしたままの影の部分に向き合うのがしんどくて、遊びや友人との付き合い、飲酒、洋服の買い物などで恐れや不安感を発散していました。もちろんその期間に得た良いものや出会いもありますが、いつも心に虚無感があったので、その当時なりにやりたいことを見つけられたことは良い方向転換になり、セラピーでいろんなお客様をカウンセリングをしたり施術したりすることが実は自分自身を癒すことになっていたのです。結局は自分のための仕事でした。けれどそれはとても自然なことだったし、お仕事もとても楽しかったです。

セラピーの仕事を少しづつ始めて、程なくして311の震災があり、生かされていること、命の重みをまた重々に感じ、自分のルーツのことを強く意識するようになりました。母を通じて台湾に縁があったけれども、この縁がなくなってしまったらなんて寂しいことだろう、そう思いこの頃から母方の実家がある台湾の親戚に自分から連絡するようになり、やがて頻繁に台湾に行くようになったのです。
また、解決したい家族の問題がありました。当時台湾の親戚は相談もなく母が火葬になったことなどを良くは思っておらず(台湾は土葬)、ここでは割愛しますがそれ以外にも理由があり父と台湾の親戚の不調和の解決が必要でした。それに、通訳も必要でしたが当時はまだ言葉が不十分で、この頃は台湾語(閩南語)の基礎会話ぐらいの程度の能力しかなかったので意見の板挟みになっていた時は精神的にも苦しく早く状況を良くしたい気持ちが強まり、台湾の親戚と改めて絆を深めたい意志の高まりもあって自分から足繁く台湾の彼らの元に行き、交流を深めたり積極的に法事に参加していました。

並行してその頃セラピーの仕事も本格的に学びたいことが次から次に出てきて、5年間ぐらいの間はセラピストの仕事をしながらもいろんな資格を取ったり独学で勉強したりと自分なりの学習に精を出し、結果30歳の夏至の頃、喧騒から離れもっと自然の豊かな環境の中で自己の学びに集中するためにとあるお山の麓に引越しをしました。何より学びを生活の中心軸にしたかったので、当時友人からの誘いはほぼ断っていて、わたし自ら離れてしまったために関係が切れてしまった友人も多かったですが、理解を示してくれた友人は今でも時折の交流をしてくれていて応援してくれているのがとてもありがたく救いの一つになっています。硬い決意をそのまま実直に行動に移してしまい、まだ精神的に余裕がないわたしは自分に厳しくすることで状況をコントロールするつもりが、他者にも厳しくなってしまっていたように思います。その件を反省した時期もありましたが、それでも人生は進んでいくもので、あのころきちんと生活を維持するにはその意志がなければ到底無理でした。
生みの親がいなくなり遺産も貯金もなく、「この先もずっと一人で生きていかなきゃ」「自分一人で生活して行けるようにならなきゃ」そんなふうに自分の未来を案じていたからです。
経済的に苦しいことと、心から安らげる実家や拠り所がないことは、人間にとって本当に辛いことです。これは断言できます。それに、本当に苦しみ悩んでいる時ほどなかなか人に相談しづらいものです。

いっときは暗い影を落としたこの母のことですが、おかげさまで気づきや学びもたくさんいただきました。不謹慎ながらあえて楽観的に考えると、少し極端な意見になってしまいますが、親はいつかは亡くなってしまうものでわたしは少し先取りをして究極の学びを経験したに過ぎず、今後は自分の人生の開拓に専念できるのかもしれません。だからこそわたしは自分のやりたいことができる幸せと、本当にするべき我慢とそうではない我慢の違いに気づけたのかもしれません。
また、家族やルーツの大切さを自ら体験を持って学び、それがわたしの人生のテーマの一つになっているのだと思います。このことは台湾に移住することを決めたきっかにもなっています。

やがてセラピストの仕事もサロンお勤めからフリーランスになり自宅サロンを持って仕事をするようになりました。その頃から自分に厳しくすることを「自分のペースを大切にすること」「養生し、律すること」に変え、規則正しい生活を実践し、ゆとりを体に与える養生を取り入れたことも今ゆっくりと自分らしい人生を歩み始めている要因になっていると感じています。セラピーに関わる植物学や療法に必要な専門書以外に、禅の書をたくさん読みお寺にも頻繁に通う中で静かで穏やかな生活が安定していました。当時住んでいた奈良は禅の学びにも打ってつけの場所だと思います。穏やかな暮らし、精神的な安定はとても良い影響を授けてくれました。奈良に住んでいた時代のこの学びは人間が心身ともに健やかであることがいかに幸福であることを知るきっかけになっていて、心や精神を整える大切さをわたしの土台に深く根付かせてくれました。

そんなおり、相変わらず通っていた台湾の地が自分にとってかけがえのないもう一つのホームであることや心のよりどころに感じていたわたしは、ふとある物の存在を思い出したのです。それは中国茶の茶壺でした。

話が遡って遺品のことになりますが、実は、この茶壺は火事で燃えずに残ったものの一つでした。他に残ったものは、母が腕にしていたカルティエの腕時計、母の免許更新のために撮られた証明写真(これは遺影になりました)、真珠のネックレス、半分焼けた母の車にあった母のメガネと母が台湾での法事で使っていた金剛経(般若心経)の経典でした。そのうち確か腕時計とメガネと茶壷を父から遺品として貰い受けましたが、見るだけであまりにも重い気分になってしまうので、誰にも内緒で処分したのでした。が、茶壺だけは残しました。茶壺にはあたたかい面影があったからです。

母の生前、両親の貿易のお仕事の関係もあり、わたしたち家族は国内旅行をあまりする機会がなく、東南アジア旅行や何より母の台湾帰省についていくのがわたしたち家族の長期休暇の過ごし方でした。台湾の旅の中では家族とお茶を楽しんだり、茶葉や茶器を買い求めることも多く、その中で父は茶壺を蒐集していたのです。日本の自宅で父は蒐集した台湾茶の茶道具をきちんと使いこなして、様々な台湾の烏龍茶をわたしや父の友人に振る舞うことが頻繁にありました。
残念ながら、棚を埋めるほどの茶壺も火事でひとつしか残りませんでしたが、このたった一つの茶壺がわたしにとっては台湾で過ごした「家族の団欒」「幸せな思い出」として記憶とともに潜在意識に強くあったので、それがわたしの心に中にある重い影を取り払ってくれました。しかし、母が亡くなって13回忌ぐらいまでは、やっぱりこの箱は蓋をしたままで棚の中にずっとしまったままでした。

確か2014年の秋のことです。母の影がやっと良い意味でぼんやりとしたのはちょうどその頃です。台北に滞在中、ミュージシャンの日本人の友達が台北のとある場所でLiveを行うと知り、そこに行ったことでいろいろと出会いがあり、その出会いによって転機が訪れました。そのことをきっかけに台湾でもセラピストの仕事をするようになり、台湾人の友達もでき、また、お茶館に通う楽しさを発見し、趣味として台湾茶を飲むようになりました。この頃1年に2~4回ほど台湾に滞在し、毎年春分のあたりから1ヶ月の間は養生のために台湾で生活をすると言うルーティーンを4年ほど続けていました。もちろん、お茶の楽しさを知ったわたしは棚の奥にしまいっぱなしのあの茶壺を使うようになり、日本に帰国する度に色々とお茶を淹れてみたのでした。

その度にこの茶壺はわたしに陽気を与えてくれました。どんなことも物事は転換することがあること、偶然という奇跡を信じること、産んでくれた両親や先祖に感謝すること、そして両親が台湾茶を好きでいてくれたことへの嬉しさ、いつもいつもそんなメッセージをお茶と向き合う時間から感じ取っていました。
ありがたくて、愛おしくて、たまりませんでした。
そして本格的に台湾のお茶を学び始めたのは2016年のことです。

あの日から、のらりくらりといろんなことがありますが、いまだにお茶が大好き。だから、何者かになろうとか、社会で成功してやろうとかよりも、精神的に穏やかでいることと、健やかな体であることの方がわたしにはとても重要で、それが自分らしく心地良いものなのです。お茶と関わる時間や学び、お茶が清めてくれることに感謝し、ただ大切にしたい、ただそう願うだけです。

これがわたしが中国茶を学び始めた理由です。


そして、その後香港で知り合った香港人の茶芸師の友人が日本のわたしの自宅に遊びにきた時、その茶壺に書いてあった漢文を読み解いてくれました。茶壺に書かれた漢詩は気にはなっていたものの、達筆すぎてずっと分からずにいたのですが、漢文が好きな彼は見事に意味を解明してくれたのです。

台湾のおうちに置いてきています。元気かな?


残念ながら彼が残してくれたメモは台湾のおうちに置いてきたので、正確な詩を思い出せませんが、内容は中国の古い習慣にも見られる結婚式や婚姻の祝いになどに贈られるものだそうで、「梅」と「竹」が使われていて、家族の子孫繁栄を祝うような内容のものでした。
ちなみに中国では、「梅」「蘭」「竹」「菊」の 4 種の草木は「四君子」と呼ばれていて、古来より人々に愛されているそうです。わたしはこの話を聞いた時、すごく感動して、ますます中国茶の世界を選択したことに希望を感じました。(茶壺残しておいてよかった!)

今年は多分21回忌を迎えるのかな、もうだんだんと曖昧になってきてしまいます。去年の母の命日はフランスにいて、当日まで実は忘れていて、でも前日に住まいの近くのサンジェルマン・デ・プレ教会を訪れてひとり静かな時間を過ごしていました。潜在意識では覚えているのでしょうね。

サン・ジェルマン・デ・プレ教会(léglise Saint-Germain-des-Prés) パリで最も古い教会です。


忘れると言うことは、違う見方をすると執着がなくなってきたことのあらわれなのかもしれません。

そんな母も、台湾が大好きで中国茶が大好きなわたしの今の姿に癒されてくれていれば嬉しいです。

最後までお読みくださりありがとうございます…!


月 花 美 茶

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