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自分の隣にあるやりたいこと

最近、引っ越した。

寂れた田舎から都会に、と言い表せそうだけれど言い表わせなさそうな引っ越しだ。これでめでたく初の一人暮らし、自由の身だ。

とはいえ、実際には自由ではない。
隣人にも階下の人にも気を遣う。身体的な制約もお金の制約も社会的な制約もある。

別に大金を使いたいとか、仕事をしたくないとかそういう大層な話ではなくて、ちょっとした不自由さを感じる。
もしバルコニーから飛び降りても全く問題がないのなら、ブワッとジャンプして散歩に出かける。けれど現実には上着を羽織り、戸締りをしっかりして、エレベーターで同じマンションの住人と二人きりになりたくはないなと思いながら、外へと歩き出さなければいけない。

自由ではない自分という人間を生きることが本当に嫌になる。
ほんの小さな不自由さに対しても「めんどくさ」と思ってしまい、活力を失う俺がぶち当たる壁は心底楽しそうに日々を生きている人たちだ。

就活をしている頃にひょんなことからインスタだけ交換した同い年の女性がいる。
彼女はそんな人だ。つまり心底楽しそうに日々を生きていそうな人だ。
彼女とは一度話してから、ただインスタの投稿を見る程度なので、彼女の人生を知るには情報が足りなさすぎるが、たとえ悩みがあってもそれをちゃんと人生の糧として、時には周りに助けれらながら上手く生きているのだろうなと想像してしまえるほどには、全くスカしていない人だ。
俺がコロナを言い訳にして行かなかった留学にも行き、現地でたくさんの友達を作り、卒業旅行でその友だちと再会するほどにはスカしていない人だ。

彼女がずっと観念というか概念として頭の中にずっと存在し続けるのだ。彼女と俺の違いとは一体何なんだろうか。彼女はいったいなぜそんなに楽しそうなのだろうかといった問答を始めてしまうくらいには存在がしつこい。

インスタを交換した直後くらいに嫉妬に狂いすぎて、なんとかしなければと書いた日記には彼女を「自分の意志をコンパスにして思い切り人生を楽しんでいる人」と表していた。そしてそんな人に対して「ゾンビのように襲いかかろうとするのはやめよう。」とも書いてあった。

そんなふうに分析した後に出てくる問いは「じゃあ自分の意志ってなんなの?」だった。そして「なぜ彼女は自分の意志が分かって、俺には分からないのか」「どうしたら自分の意志が分かるのか」という問いだった。

それらの問いに対する直接的な答えはまだ出ていない。
そもそも自分の意志なんて西洋的な思想で本当はないのかもしれないと思ったりもするし、意志を感じた瞬間に資本主義に刺激させられている気もするし、もはや何がしたいのかに関しては迷宮に入ってしまう。
けれど、ヒントのようなものは見つけた。
それは自分の不自由さを引き受ける、自分という人間の固有性を大事にすることだ。つまり個人的感覚の話だ。

大きな夢を見つけることは無理でも、自分の隣に、小さなやりたいことはある。机の上を片付けたり、掃除機をかけたり、エアコン掃除をしてみたり。(俺は基本的に掃除が好きなんです)
そういうことをしている時、自分の心や観念より肉体が喜ぶ。
つまり肉体的な感覚に根ざした好きなことがある。肉体的な感覚に根ざした好きなことが心をぐわっと燃え上がらせる。

オードリーのオールナイトニッポンin東京ドームで、それを痛感した。

あの場所に、あの時間、肉体を伴って居ることはオンライン配信を見ることと全く違う感覚だと思い知った。これまで他のアーティストのライブのオンライン配信やあちこちオードリーのオンラインライブに満足していたので、その感覚はかなりカルチャーショックだった。

自分という人間だからこそこの喜びを感じられるのだ、と思い知ったし、その感覚はかなり自分という人間を生きることを肯定してくれた。
なぜなら自分という人間を変革しようとしたり、超えようとしていては、自分という人間が感じられる喜びを失ってしまうことを、その感覚が意味していたからだった。つまり自分でいいのだ。というか自分でなければならないのだ。

現代では喜びを感じようと思うと、じゃあこんなサービスがありますよ!と言われる。そしてずっとその言葉を信じていたから、インターネットによって不自由を超えて、自分という人間の煩わしさを超えて、色々な欲求をサービスを通して叶えられると思っていた。それがさっき書いたようなオンラインライブへの過剰な信頼だった。
だから俺はチケットに落選して信じられないほどオードリーやスタッフ陣を批判している人たちを理解できなかったのだけれど、今なら理解できる。

つまり自分を変革したり、超えなければ届かない「やりたいこと」ではダメなのだ。自分だからこそ生じるやりたいこと、つまり自分が持つ不自由さがあるからこそやりたいこそを大事にするしか俺は自分の意志をコンパスにすることはできない。

もしバルコニーから飛び降りても平気な体だったら、飛び降りて散歩に出かけるだろうか。
実際は散歩に出かけないのではないかと思う。バルコニーから飛び降りれないからこそ、散歩に出かけたいと思うのではないか。不自由だからこそ、やりたいと思うのではないか。

VR観光で世界中を旅できたとして、満足できるか。(現時点では)できないと思う。VR技術を使った旅行が飛行機を使った旅行程度に当たり前にならない限り、満足はできない。

俺が嫉妬していた思い切り人生を楽しんでいる人たちは、実は隣にある小さなやりたいことをやってきて、積み上げてきた人だった。人生などという大きなものを思い切り振りかざしている人たちではなく、小さく身近なことを思い切りやってきた人たちだった、のではないかと思う。

だから、できることをやる。
このシンプルなことで丁度よいのではないかと思う。

買いたい本を買うために使います!!