見出し画像

「ていねいな暮らし」をしない女への長い道のり 2020年5月19日


これまで、ていねいな暮らしの真似ごとに挑んでは、少しずつ傷を負ってきた。

かつてワンルームに飾った花瓶は充電器を濡らし、玄関のアクセサリー棚には判子とボールペンとレシートが堆積した。白いプランターに植えたバジルとミントはよく育ったものの、ミントの根っこがすさまじい繁殖力ですべての土を制圧し、プランターごと地面に叩きつけても引っこ抜けなくなったため、まるごとゴミ袋にインされる運命を辿った。


こんなの、全然ていねいな暮らしなんかじゃない。あのとき、ベランダに飛び散ったプランターの欠片を見て思った。私はいったい何を間違えたんだろう。

そうだ、ていねいな暮らしのプロたちは、みんな「自分の身体の声を聞いて」とか「自分自身が本当に喜ぶものを」とか言っている。私も、誰かの真似ではなく、自分が心から欲しているものに忠実になろう。身体の声に耳を澄まそうじゃないか。

その結果、現在の我が家では、辛ラーメンとチゲの素と冷凍餃子が余裕をもってストックされている。もちろん後悔はしていない。



しかし、このご時世に、身近なママたちがていねいな暮らしで輝いていると、どうしても自分も発光したいという欲求を刺激される。息子が登園できず、仕事で活躍しきれないことも、家庭内での発光への衝動を加速させる。今こそ、ていねいな暮らし、再チャレンジしてもいいんじゃない。息子も2歳になったんだし、ほら、野菜のひとつくらい、育てる経験をさせてあげようよ。

「息子のため」という悪魔のワードに取りつかれ、私は数日のうちに、ミニトマトの苗と鉢、培養土、その他もろもろのグッズをアマゾンと楽天で購入してしまった。花や野菜の栽培は、ていねいな暮らしを代表する行為のひとつだ。そして昔から、素人が育てる野菜はミニトマトだと相場が決まっている。それから一週間、数々の物流トラブルを乗り越え、賃貸アパートの狭い庭に、大きな鉢と大量の土が勢ぞろいしたのである。



晴れた日の午前中、息子と二人、普段めったに出ない小さな庭に下り立った。ネットで調べた手順の通り、野菜用の植木鉢に専用の石を敷き詰めていく。息子にも一緒にやろうと誘ってみるものの、彼はぞうさんじょうろでそこら中に水を撒くほうが楽しいらしく、こちらの作業には目をくれない。
私はひとり、穏やかな日差しを浴びながら、20リットルの袋に入った培養土をスコップですくう。そのたびに土の匂いがふわっと広がり、ふかふかの土の感触が、腕全体にやさしく伝わった。うん、悪くないんじゃないの。ていねいな暮らしの進行は順調だ。ニヤニヤしながら、さあ苗を植えようと振り向くと、背後で息子が「おみずじゃー!」と言いながら、ぞうさんじょうろをぐりぐりと苗に押し付けて、横倒しになった苗を踏みつけているところだった。

「ちょっと!!何してんの!!!」と血相を変えて、苗を救出する。「トマトさん痛いって言ってるよ!!」といつものワンパータン擬人化である。焦って確かめると、トマトさんの葉や茎は何本か犠牲になったものの、致命的な損害にはなっていないようだった。

しかし、息子は、何が悪いのかさっぱりわかっていない。笑いながら、またぞうさんを持って突進してくるので、ちょっとそっちで遊んでて!!と怒って、急いで苗を植えた。相次ぐ息子からの攻撃をかわしながら、支柱を立て、苗を這わせて結ぶ。
「よし、じゃあ、たっぷりお水あげて!」と声をかけると、息子はついに僕の出番とばかりに、嬉しそうに寄ってくる。そして、何もないところで躓いて、目の前の植木鉢をドーンと倒したのである。叫ぶ私。転んだ拍子に苗をつかむ息子。再び叫ぶ私。急いで息子を植木鉢から引き離し、苗を再救出する。息子は土のついた手を差し出して「きれいきれい、して!」と言ってくるのだが、もちろんガン無視である。ああもう、と言いながら、ボロボロになりながらも生き延びてくれた苗を再び支柱に這わせ、こぼれた土を必死にすくう。


はあ、とため息をつく。ああ疲れた。さっきまで、穏やかな日差しと土の匂いに酔いしれていたのに。息子のためにミニトマトを植えるぞ、とはりきっていたのに。なんなんだよ、このイライラは。そう思いながらも、このこみあげてくる苛立ちの正体には、心当たりがあった。



私には、植物を育てようとするとき、必ず思い出す過去がある。小学校低学年のころ、あさがおを栽培した半年間の記憶である。ひとりずつに小さなプランターが与えられ、校庭の隅で自分のあさがおの観察日記を書くという、あれ。あの地味な恒例イベントで、学年で唯一、芽すら出なかったのが、私のプランターだった。

みなさん、半年もの間、プラスティックのケースに敷きつめられた土を観察しつづけたことはあるだろうか。その変化を、絵日記に書き連ねたことはある?

私は未だに、あのプラスティックの薄い緑色や、そこに大きく書かれた自分の氏名、まるで地平線のように平らな土の形状を鮮明に思い出すことが出来る。 



初めは、きっと芽が出るのが遅いだけだろうと思っていた。しかし毎週、仲間が減っていき、あと二人、あと一人となるころには、もう気がついていた。きっと、私の芽だけ、最後まで出ない。

こういう予感は大体当たる。結局、私のあさがおの種は、土から顔を出すことなく一生を終えた。


しかし私は、プライドの高い子供だったので、芽が出ていないので絵日記書けません、とは言えなかった。 毎週のように、周りのあさがおをチラ見しながら、まるで順調に育っているかのように日記を書いた。夏休みの間は、空想によって書ききった。

こうして半年間、私は理科の観察のたびに、あさがおの種さえ正しく植えられない、自らの栽培センスの無さを呪いつづけた。絵日記に嘘を重ねていく罪悪感を味わい、いつクラスの男子に「お前のあさがお出てないじゃん」と言われるんだろうという恐怖にさいなまれながら、もしかしたらいつか芽が出るかもしれないという恥ずかしい期待を打ち砕かれつづけたのである。



だから、大人になってからは、間違っても植物の栽培に関わってしまうことのないよう、細心の注意を払ってきた。
前述のバジルとミントは、購入時点で収穫できるほど生い茂った苗を選び、プランターに植えた当日に収穫することで、自分は栽培に成功したのだと強く言い聞かせた。たとえ、どんな末路を辿ったとしても。


しかし、今回のミニトマトの苗には、まだ小さな実すら実っていない。失敗の可能性は十分にある。だからこそ、丈夫そうな農家直送の苗と培養土を購入し、ネットにて調べた内容を忠実に守り、母にLINEでもらった「適当でいいのよ」という助言をスルーした。

そう、このミニトマト栽培は、かわいい息子のためなんかじゃない。あの、あさがお栽培による忌まわしき記憶を少しでも上書きする、自分のための試みなのだ。息子よ、ダシにしてごめん。しかも怒ったりしてごめん。でも、大人にだって、乗り越えなければいけないものがある。ミニトマトの栽培くらい、君のことを利用させてくれよ。



こうしてミニトマト苗を植え、辺り一面を片付けて、風に揺られる葉っぱを見ながら心に誓った。このミニトマトが育って、自信を取り戻したら、もう私は絶対に、野菜も花も育ててやらない。ていねいな暮らしを遂行する能力があることを証明し、自らの意思でそれを遂行しない女になってやるのだ。ふん、実ったミニトマトだって、すべて息子にくれてやる。


そんな固い意思を胸に秘めながら、私のていねいな暮らしに欠かせない、木村・工藤家のインスタチェックを遂行する。ミニトマトを植えた私は、ていねいな暮らしのプロである彼らに、うっすらとした親しみすら感じていた。次女のアイコンを軽やかにタッチすると、そこには「おうち時間」というワードとともに、庭で色づきはじめた苺の画像が映し出された。

おお。苺か。苺を育てているんですか。ご自宅の庭で。ミニトマトじゃなく。ふーん。苺ねえ。難しいって聞くけどね。なんだか能力が試されそうだね。なるほど。やっぱり苺くらい育てないとダメかね。ていねいな暮らしとは言えないのかな。うーん。そうなんですかね。うむ、苺かあ。


こうしていま、私のお買い物カートには、次シーズン向けの苺の苗がいくつも収められている。

この記事が参加している募集

おうち時間を工夫で楽しく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?