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11歳、最後の小学校生活と私の話

11歳、小学校6年生の担任は「昭和の先生」といった感じで
これまでの先生に比べてダントツで厳しい先生だった。


体罰こそなかったものの、
怒るととても怖くて常に険しい顔をしている先生に対して
反抗出来る生徒はほとんどいなかった。

ただ、普通に生活して勉強していれば怒られることもなく、
授業の妨害をする生徒を厳しく注意してくれる良い先生だった。


その先生の授業で特に印象に残っているのは、
みんなで魚を焼いて食べたことだ。


ある日、授業で竹を渡され、

「今から竹串を作ります。
 1番上手に出来た人から順番に大きな魚を配ります」

と言われた。


釣りが好きな先生はクラスの生徒数分の魚を釣ってきてくれていた。
自分で作った竹串に魚を刺して校庭で魚を焼いて食べるという授業だった。


魚はもちろん大小さまざまで、
なんだか良くわからないけど、大きい魚が欲しい。

みんなで真面目にカッターで竹串作りに励み、
自分で作った竹串で焼いた魚はとても美味しかった記憶がある。


その時の授業は、
普段反抗ばかりしている生徒も真剣に取り組んでいた気がする。



また、先生から言われた一言で一番印象に残っているのは、
運動会の種目決めのときに言われた言葉だ。


「emiさんはずる賢そうなので騎馬戦では騎手になってください!」


通常、騎馬戦の騎手(上)に乗るひとは身長の小さい順で決めていて、
前から5番目までが騎手だとすると、私は6番、7番ほどの身長だった。

だから本来は、騎馬になる予定だったし、私も騎馬のつもりでいた。


なのに、指名されてしまったのだ。

私は身長の1番高い子たちの騎馬に乗ることとなり、
私の身長も相まってとても強そうな騎馬になってしまった。


当然、活躍が期待されている。
そのことを両親に話したら、爆笑された。


運動会当日、騎馬戦では先生の予想通り大活躍はしたけれど、
先生から言われた「ずる賢い」というのは褒め言葉に思えず、
何だか納得いかないなあと未だに根に持っている。



私の小学校では4年生からクラブ活動が始まり、
学年ごとに自分の好きなクラブを希望し、入ることが出来る。


私は4年生では漫画クラブ、5年生では手芸クラブに入っていたが、
6年生になってようやく第一希望の和太鼓クラブに入ることが出来た。

和太鼓クラブは1番人気があり、6年生から優先して選ばれるので
私は6年生になるまで和太鼓クラブに入ることをとても楽しみにしていた。


ピアノを習い続けていた経験から音楽の先生とも仲が良く、
島にいた頃にも太鼓をやっていたことから
和太鼓に対しても経験者のような心持だった。


ピアノは個人でしか演奏していなかった私にとって
みんなで同じ曲を練習してみんなで合わせるという経験は
とても新鮮で、楽しく活動することが出来た。


地元の商店街のお祭りに呼ばれて演奏しに行ったりと発表の場もあり、
とてもやりがいを感じる良い経験となった。


小学校6年生にあがると、
ことあるごとに中学校の話題があがるようになる。


私の小学校でも中学校受験をする友達が数人いたが、
私は小学校の友達と離れるのが嫌だったので受験はしなかった。


この時、受験していればどうなっていたんだろう。
どうして私はこの時に限って挑戦しなかったのかと、いまだに疑問に思う。



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