名前をつけてやる
朝、バスの到着時間に急かされてエレベーターに駆け込む。エレベーターの右手にある液晶ディスプレイに今日の天気予報が流れる。今日の天気は晴れのち雷を伴う雨だという。右手には燃えるゴミ袋、傘なんか持って来ていない。女心と秋の空というけれど、最近の天気は変化が激しくて困る。夏なのに不安定、ほんと、女心みたいだ。
まだ夜が空けてない時間に、家族と喧嘩してしまった。たまにやるんだけど、いつも私がヒステリーになるから悪い。普段温厚な私が突然嵐のように泣き叫ぶと、以前は戸惑っていた夫もまたかよという顔をする。そして毎回私が悪い感じになる。私はその度にはっとして、感情的な私を反省する。私は私を全力で閉じ込める。
突然泣き叫ぶ私に名前をつけてやる。ヒステリーっ子だからヒス子にしよう。ヒス子のベースはいつも頑張り屋な女の子だ。社会に出てからはなお、ルールやその場の振る舞いというのを学び、空気を読み、身につけた。自分は怒られたくないので誰かが怒られる姿や貶される姿を見て、あるべき姿を覚えていった。割と賢い子なのである。普段は影を潜めているが、上半期に一度ほどのペースで満を持して登場する、それがヒス子である。まさにヒス子爆誕である。その姿はわりと見ていられない。みんな突然の登場に驚き、簡単に言うと、引くのだ。
ヒス子の父もそれに近かった。いつもは真面目で物静かだが、酒を飲むと時々荒れた。暴力を振るうとかそんなやさぐれダメ男ではまったくないが、アルコールの力により理性は破壊され、音をたてて爆発した。ヒス男爆誕の姿もまた、見ていられなかった。
私はいつもヒス子を疎ましく思っていた。すぐ出てくるこいつが嫌だった。出てくるなよと思っても自分の意思に反してやってくる。そして結構主張する。今朝の喧嘩もヒス子のせいだ。またヒス子でこんなことになった。ヒス子が嫌いだという旦那を前に、いつもヒス子がごめん、と私は謝った。
だけど、今日はそのあと、今までにない気持ちが芽生えた。ヒス子をそんなに言わなくてもいいじゃない、と。ヒス子にも色々事情があんのよ。ヒス子の気持ち考えたことあんのかよ???昨日見た夢のせいか、カラーの講座か、はたまたいつも読んでる本のせいか、わからんけど私の心には変化が起きている。私はヒス子の彼氏のような、親のような気持ちでいた。私は認めたいと思った。ヒス子も私の大切な一部なんだって。
私は旦那にそのまま伝えた。ヒステリックな私は別人格ではないということ。それも私の側面だから、否定しないでほしい、ということ。
初めてそんなことを言ったもんだからなんと言われるかと思ったけれど、少しの沈黙の後、旦那はわかったと言った。好きにはなれないけど、と付け加えた。私はすごく、嬉しかった。夫の言葉もそうだけど、何よりも私がヒス子を暗闇に閉じ込めなかったこと。ヒス子の存在を認めてあげられたことを。あなたがヒス子を好きでなくてもいいんだ。私もべつに好きではないから。
そんなことを考えていたら、バスは会社に到着した。まだ空はさっぱり晴れている。こんなに晴れてるのにほんとに雨が降るのか信じられない。降ってもいいか、その時は傘を買おう、と思った。
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