「何かをどうしようもなく愛する気持ち」が胸に刺さるー「推し、燃ゆ」
今年の芥川賞受賞作である本作は、一人のアイドルを熱烈に「推している」女子高生が主人公。
僕は、いわゆるアイドル的なものを好きになったことはないのですが、ライオンズという球団をファンとして愛しています。そして、ライオンズファンになったきっかけを挙げろと言われれば、いくつか語ることはできるけれど、そのどれもが芯をくってはおらず、後付けのように感じてしまう部分があります。
そういう「何かをどうしようもなく愛する気持ち」みたいなものが、本作では多彩な文章によって生々しく表現されているのです。
愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主にくけりゃ今朝まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、来ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。
メンタルコントロールについて書かれたビジネス本を読むと、「自分でコントロールできないものに神経を費やすべきではない」といった類の言説をよく目にします。
菊池雄星もメンタルトレーニングの過程で、自身がunchangeable(変えられないもの)、uncontrollable(制御できないもの)については気にしないように意識していたそうです。
自らの「推し」の言動なんてものは、unchangeableかつuncontrollableなものの象徴でしょう。にもかかわらず、「推している側」はその一挙手一投足に大きく心を動かされてしまうのです。
そして、時に本来自分の人生にとって、何の関係のないものであるはずの「推し」が人生の中心になってしまうことすら起こりうる。そんな興味がない人たちから見たら、理解不能な感情が「推す」ということであり、僕らは時に、そうした感情にどうしようもなく支配されてしまう。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくてその皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど、推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
周囲には悲しいほどに理解されないけれど、心の底からどうしようもなく「何かを愛する気持ち」というのは、その多寡はあれど、誰もが心に持っているものだと思います。
そういう自分の感情の深いところを刺激されるような作品でした。「自分は●●のファンだ」と胸を張って言えるものがある人たちは、ぜひ読んでみてほしいと思います。
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