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デンマークに移住した理由

わたしは若いころとても受け身な人間で、やるべきことをやりながら、楽しいことをたまにやって、特に情熱もないまま淡々と過ごしていました。

大学三年生のときに、金属の結晶構造と物性の関係に関する講義を受け、鉄の磁性が結晶構造によって変化するというシンプルな現象になぜだかとても感化され、図書館にこもって書き上げたレポートは最上の評価を受けるに至り、4年生に進級する直前のときに何の迷いもなく、その講義を担当した助教授の先生の講座に入ることを決めたのでした。そして、3年生の終盤で就職活動を始めたものの、研究室に配属されてすぐに研究に嵌ってしまい、母親の猛反対にもかかわらず大学院進学を決めたのでした。その結果、母親には一年間口をきいてくれなくなり、学費稼ぎのために一度辞めたアルバイトを復活させ、夕方から夜にかけて働いてから研究室に戻り、徹夜して実験をするという生活を始めました。奨学金を獲得するため、7月8月の二か月間、受験勉強のために一日15時間勉強し、見事入試で上位に食い込み奨学金をもらえることになりました。そのお金は学費のみならず、海外での学会発表に伴う3週間のヨーロッパ旅行費、マッキントッシュ代にも消え、卒業時に200万円という借金にかわりましたが、我ながらいい投資をしたと自負しています。

指導教官の幅広いネットワークのおかげでいろんなひととの出会いがあり、そのひとりがデンマーク人の博士の学生でした。彼は、アメリカでの学会で先生に話しかけられ、分析のお手伝いをするなど交流がはじまり、たまたま奥様が日本人ということもあり、二か月間わたしたちの研究室に研修生として通ってき、その間実験を手伝う関係で親しくなりました。4か月後のヨーロッパ旅行で、学生3人でデンマークにも訪れ、デンマーク工科大学の実験室もみせてもらいました。実は彼はいまでもわたしの同僚です。

そんな充実した大学院生活でしたが、就職先は分野が異なる業界だったので、デンマークとの縁も切れ、修士二年のときに研究室で出会ったひとと結婚することになり、26年間住み慣れた八王子からも離れることになりました。大学まで八王子で、就職先も日野市と八王子市の市境にある会社だったので、一生八王子にいると思っていたのに、です。

さらに当時の夫の大学赴任に伴い、島根県松江市に移住することになり、生後4か月の娘の子育てを知人も親戚もいないところでしなければならないなど生活が一変し、まだ27歳と若かったこともありその新生活を受け入れるのはハードでした。何よりつらかったのは、夫が研究者としてキャリアを始めようとしているのに、自分にはそのチャンスがない。(博士号も考えましたが、なんと当時島根大には博士課程もなかった。)親に無視されても、一日中机にかじりついても、つらいとまったく思えないほど大好きだった研究活動ができないことがつらく、また夫に対する妬みが負の感情を倍増させてました。せめて実験っぽいことはしたいと、なんとか検査機関の嘱託技術職を得て、ビーカーと分析装置をさわる機会は維持しました。

そんなくすぶっていたわたしを指導教官が翻訳という仕事でわたしを母校に招いてくれました。夏の暑い日だったと記憶しています。そのときに、また出会いがありました。博士の学生だったデンマーク人女性でした。後に彼女はわたしの上司にもなるのですが、最初から彼女は強烈でした。まず、妊娠7か月でした。それなのに、毎日いろんな実験をし、東京のいろんなところに出掛けるというアクティブさでした。そして、研究に戻りたがっているわたしに、デンマーク工科大学での博士プログラムをすすめたのです。結婚していることと、2歳の子供がいることで躊躇したのですが、彼女はまったく問題なしと話をすすめ、デンマークに戻って本当にアプライしてしまったのでした。

もちろんそのあと夫と衝突しますが、グラントが下りたときにデンマーク移住を決めたのは、研究をやりたいというきもちだけでなく、彼女をみて、デンマーク社会ってどんなものなんだろうという好奇心が起きたことも大きかったです。妊娠したからといって、子供がいるからといって、女性だからといって、人生を縛ることがない。子供を得たことで、人生の大転換を受け入れざるを得なかったわたしとなんという違いなんだろうと、その驚きと羨望でデンマークに目を向けることになったのでした。

もちろん、当時のわたしは、デンマークがただの好奇心の的であって、何もかもが甘い考えでしかなかったことを知る由もなかったわけですが。しかし、もし、当初の予定どおり、3年間でデンマークをあとにしたとしたら、何もかも美談で終わっていたかもしれません。

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