進化論について考えてみた ~アリストテレス vs ダーウィン~

「進化論と言えば?」

進化論と言えば、チャールズ・ダーウィンの名前が真っ先に上がる人が多いと思います。実際、ダーウィンは自著『種の起源』のなかで『自然選択説』という学説を提唱し、従来の宗教観で言われていた「神様が人間を創造した。」というものを真っ向から否定しうる生物の進化の様式について説きました。簡単に言うと、「遺伝子は突然変異を起こし、多様化する。その中で当時の環境に対応した個体、種族のみが自然によって選択され、生き残る。これの連続で今の生物は存在している。」という感じでしょうか。完璧に原著の内容を理解しているわけではないので誤解している部分が無いとは言いませんが、大まかには合っていると思います。ここで大事なのは、「優れているから生き残った。」という訳ではないということ。たまたまその時の環境に有利だったから生き残っただけで、生き物そのものとしての優劣といったものはありません。
さて、ダーウィンの進化論はこんな感じですが、生物の進化に言及した人はもっと昔にもいました。それがアリストテレスです。

(このコラムは、僕が大学2年生の一般教養の哲学の講義の期末レポート課題で書いたものをベースに大幅な加筆修正をしたものです。まぁその程度のものですから、学術的に意義のあるものというより、「書いてみた」程度のものだと思っていただけると嬉しいです。だから面倒なので引用した文献の部分などは省いていますから急峻な帰結が多々あるかもしれません。ごめんなさい。)

目的論的世界観

「アリストテレスっていつの人だよ。というか、何した人だよ。」と思う人のために簡単に説明します。アリストテレスは紀元前3世紀頃を生きた人で、『真善美』とは何かという命題に、現実世界の物事の観察からアプローチを試みた哲学者です。現実世界の物事からという所が当時の哲学にとってのブレイクスルーで、この物の見方は現代の科学にも通じる部分があります。このコラムはそういう話です。

(ちなみに名前くらいは誰でも聞いたことがあるだろうアリストテレスですが、このコラム執筆時点でJRAに『アリストテレス』という馬が登録され現役で走っています。僕は彼のファンです。頑張ってほしい。)

もう少しアリストテレスがどう進化論に関係するのかを並べていきます。
アリストテレスはまず、物事を『自然に存在するもの』と『人によって作られたもの』の2つに分類しました。これは、自然に存在するものは自ら動いたり止まったりすることが出来るが、人によって作られたものは自分からは動くことがないという性質の違いによる分類でした。そして、この動くことが出来るという性質は、材料と目的が合わさることにより、『変化しうる可能性がある状態』から『目の前に現れる状態』へと変化する性質だと彼は説明しました。つまり、アリストテレスは自然に存在するものは運動する目的を有している、という考え方をしたのです。これが『目的論的世界観』という考え方です。具体例を言うと、植物は花を咲かせるという目的があって、そのために成長して花を咲かせる、みたいな感じでしょうか。
この『目的論的世界観』を持つアリストテレスが、現実世界の自然にいる生物の観察により、生き残ろうとする目的を持って生物が長い時間をかけ変化してきた(進化した)のではないか、と考察していたのです。

機械論的世界観

しかし今の科学ではアリストテレスのこの考え方を否定しています。その考え方が『機械論的世界観』と呼ばれるものです。
これは、今僕達が学んでいる『科学』の基本的な考え方で、運動や存在などに目的などはなく、機械的な力のみでそれらは引き起こされているという説明の仕方です。花の例で言うと、光や熱といった環境刺激を受容して放出される植物ホルモンによって茎が伸びたり葉を広げたり花を咲かせたりする、みたいな感じでしょうか。機械論的世界観は要素還元的で、引力があるという性質、静電気力があるという性質、その他様々ありますが、そうしたミクロな法則のドミノ倒しの結果として運動というのは成り立つという考え方が特徴的です。因果関係だけを捉え無機質な法則を見つけ出し、それによって推測される高次元なことを実験で確かめて更なる理論を作り出す。そういう帰納的で機械論的な営みの連続が現在の科学です。
ダーウィンの『進化論』もこの考え方に則ります。冒頭で紹介したように、生き物は当時の環境に有利だったものが生き残って今に至ります。ここには『生き残ろうと努力した』とか『環境に適応させていった』みたいな目的論的な説明は一切ありません。言うなれば運で生き残っただけということです。この進化というものは、逆に言えば生存に超大事な遺伝子は変化せず多くの生物に共通して残っているということも含みます。例えば、今遺伝子の変異で目を失ったライオンが生まれたとして、その子が1年後生き延びられるかと問われれば、大方Noと答えるでしょう。多くの陸上で生活する生き物にとっては目が見えないというのは致命的です。だから人間とライオンの目の遺伝子は違いが少ない部分があったりします。多分。

自論

ただ、目的論的世界観が間違っているからと言ってアリストテレスが完全に過去の人、というわけでもなさそうです。
というのも、未だに数多くの学者がアリストテレスの言及を引き合いに出してその先見の明を褒めているのを目にします。異なる世界観とはいえ、2500年前の人が今の科学に迫る発見・考察をほぼ1人でやってきたというのは恐ろしい話です。
「巨人の肩に乗れ」という有名なフレーズがあります。ニュートンが最初に言った話だそうで、これは今が先人の積み重ねの上に成り立つのだから、それを踏まえてさらに高いところから世界を見下ろそう、みたいなニュアンスの言葉です。学校教育がまさにこれで、義務教育を受けていなければ僕は一生1+1=2を考えつかなかったかもしれません。しかし学校に通ったから色んなことを学び、そして新しいことを発見するチャンスが生まれているかもしれないのです。しかし急速に身長を伸ばしている『近現代科学』という巨人ですが、アリストテレスはまだその巨人と肩を並べているのではないかというくらい背が高いのです。
僕は目的論的世界観に立ち返ることでアリストテレスの肩の上に乗ろう、などということは考えていません。しかし、目的論的世界観と機械論的世界観は、同じ物を見た時にどう見えたかの違いでしかないから、目的論的世界観で見たものを蔑ろにしていいとも思えません。争いごとは、どちらかが悪というわけではなく正義感の違いによって生じる場合の方が多い、というのはよく言われることです。だから、アリストテレスが目的論的世界観で見てきたことの中には、まだ現在の科学では到達していない景色が含まれているんじゃないか、と僕は考えています。アリストテレスの発言、著書はもう限られているし読み尽くされているかもしれませんが、まだまだ彼を研究するということには大きな意味があると感じます。
僕は「科学を学ぶというのは、直観的な目的論的世界観から論理的な機械論的世界観へと世界の見方を変える営みではないか?」と最近感じています。直感で物を捉えてみると、大体は目的論的世界観というフィルターで物を見てしまいます。僕たちには意思がありそれに基づいて行動しているので、宇宙だって大きくなることで何かしらメリットがあるから大きくなり続けているんじゃないかという気がしてしまいます。ただ機械論的世界観ではビッグバンのエネルギー放出によりエントロピーが何やかんや関係して大きくなっているだけだという説明をします。どちらが感覚的に分かりやすいかと言えばどう考えても前者です。自然な発想です。しかし、見つけ出した法則に当てはめると後者の説明になります。非直感的だし難しい後者を正しいとしています。これを受け入れること、理解することが科学を学ぶ目的だと僕は考えています。そうすることで、直感的にわかりやすい、理解しやすいけど科学的には間違っている謬説や陰謀論に騙されない頭を作ることが出来ます。
「機械論的世界観で見てるんだ。」という自覚を持って目的論的世界観で見てきたアリストテレスの追体験をしてみてはどうでしょうか、というのが僕の提案です。
あともうひとつ言うと、今僕がやっているこの作業そのものが、新しい哲学へ繋がる扉になると思っています。目的論的世界観と機械論的世界観を知ること、それはメタ的に自分の思考の様子を捉えることが出来るということです。「今ちょっと非科学的な考え方していたな…」と思って修正することが出来るし、「科学じゃない話は目的論的に展開した方が勢いづいて良いだろう。」と考え方をスイッチすることが出来ます。今回の世界観の二項対比に限らず、哲学を学んで先人の考え方のエッセンスを取り入れるというのは『ズルい人になる』ということだと思います。フレキシブルに考え方をスイッチするというのは行き過ぎると自分を失うことになりえますが、頭を柔らかくする、新しい何かに気付くためには重要なことです。多数の思考回路を脳内に敷き、直面する課題に取り組み続けることで、僕は僕だけの哲学を作り出すことになるでしょう。それを共有することで誰かに何かしら影響を与えれば、それだけで僕は生きるに値する存在になれたと自分のことを褒められる気がします。
さて、このコラムのタイトルはアリストテレス vs ダーウィンでしたが、アリストテレスとダーウィンはもうどっか行っちゃいました。勝ったのは僕です。お疲れ様でした。

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