2022年7月14日

僕は人が書いた詩を読むのが好きだ。だけど、正直言って全く意味がわからない。
最果タヒさんの詩集をよく買って読む。言葉遣いが優しくて同時に怖いなと思う。彼女の言葉はどうも僕の頭の中では繋がらず、バラバラとしていて、たまに物凄い勢いで琴線に触りに飛んでくる。だから好きだということになっている。
ただ8割、9割くらいは意味がよくわかっていない。抽象的とか飛躍してるとか色々言い方はあるけど、複合的に「何が書かれているか分からない」に尽きる。

詩に限らず、短歌とかでも同じことを思う。短歌は、限られた音の数の中で事象・心象を書き表す。
前に「だから歌人は凄いんだ」とか言って僕の拙すぎる短歌(リンク先、一番下までスクロール!)を引き合いに出したが、僕のあれは超ストレートに31音に情報を過不足なく載せている。まぁ情報量が無いということではあるが、読めば誰でも意味が分かる。
しかし歌人の読む短歌というのは音の数以上に意味を載せている。それがノンバーバルに伝わることもないわけではないが、基本「何言ってるんだろう」という気持ちになる。

だから僕は「わからないのが面白い」みたいな楽しみ方をしている。それは理解しようとする努力と、結局理解できなかったという諦めと、その過程でほっぽり出された理解しかけのままの状態をガバッと抱きしめる感傷だ。悪い言い方をすれば詩を読んでいる自分に酔っていると言ってもいい。
しかし、世の中すごい人がいるもので、詩の解釈とか和歌の解釈をする人がいる。つまり読解の答えを明示してくる人がいる。「おいおい、それって俺がバカだってことじゃねぇか。」と思う。詩は馬鹿には読めない。

色んな人のnote記事を読む。エッセイとかポエムとか、そのジャンルは多岐に渡るが、読めないものが多い。「書きたいことを書けばいい」っていうプラットフォームだからおそらくそんなに読み手のことを意識していない文章も山のようにあるだろうが、それにしたって僕の読解力では手の届かない文章が多い。中高の現代文をそんなに真面目にやってこなかったし、日頃の読書量も大したことないので、読む能力が低いのは自覚している。ただ、ノンフィクションは隙間なく一歩一歩丁寧に歩ませてくれるものが多いので読めてしまう。だからエッセイもポエムもいけるだろうと思ってしまうが、そう甘くはないようだ。

世の中の人はどうやってnote上にある、あるいは他のSNSにある文章を読んでいるのか。そんなに僕は頭が悪いのか。深夜にひとり勝手に哀しくなる。


7月14日、天気は雨。

僕は雨が好きだ。と言うと、「雨が好きな自分が好きなだけだろ。」と言われる。そんな哀しいことを言うお前に何か言ってやれることがあるとしたら、「それでいいだろ別に。」ぐらいだ。指摘の通り、そんな自分に酔っている側面はあるだろう。ただそれの何がいけないのか、僕には分からない。いいだろう別に。

基本的に自己評価低くマイナスの感情が強くはたらいてしまう性分なので、雨の音は僕にとって大事な癒しだ。雑念も雨にかき消されて、僕は真っ直ぐに僕と向き合える。だから雨の日は基本的にコンディションが良い。パフォーマンスが向上する。結局、雨が降っているという状態よりはそれによってもたらされる自分への影響が好ましい。そして雨に良い影響を受けた自分を肯定する。これを「雨が好きな自分が好き」と言われたら、それはそうだと思う。
そのうえで、それの何が悪いのかが分からない。雨に良い影響を受けることが悪いのか?そんなのは人の勝手だろう、放っておいてくれ。コンディションが良い自分を肯定するのが悪いのか?常に他人を気にして不満を垂らしているお前よりはよっぽど良いだろう。考えるに、後者の部分において『ナルシズム』を感じ、それを毛嫌いしているのではないだろうか。ナルシストは嫌われる。僕も嫌いなのでその心理には大いに共感できる。社会の真ん中、人通りの多い場所で自分のことばかり考えて良い気分になっている奴がいたらとても邪魔だ。鬱陶しい。だが「雨が好きだ。」程度の人に対してそんなことを感じるのは行き過ぎではないだろうか。僕は別に、雨降る歩道で傘をさしたまま立ち止まって空を見上げ物思いに耽るなんてことはしない。ただちょっと、今日は調子がいいなと気分を良くするだけのことだ。こんな僕さえもナルシストなのか。

お前お前と言ってきたが、別に誰かにこんなことを言われたというわけではないし、今日の僕は全くやさぐれでもない。
ただ少し、今日は雨が強すぎる。傘をさせば問題なく外を歩ける小雨に留めてもらいたい。


僕は現時点で一つ、国家資格を所持している。『普通自動車第一種運転免許(AT限定)』だ。去年の春に山形の合宿免許に行き、僕はAT限定ではあるが運転免許を取得した。

しかし、それからほとんど車に乗ることなく一年以上が経過した。大学のために下宿しているためにそもそも車に乗る機会が無いのと、単純に下手で運転など出来たものではないからだ。よく「運転苦手ならなおのこと練習しないと。」と言われるが、必要性もないのに自分や他人を命の危険に巻き込みうるようなことをする気には全くなれない。だいたい30万円くらいしたから、「資格があるのに乗らないのは勿体ない、それなら取らなければ良かったじゃないか。」という言い分は納得出来る。ただ、実際に運転免許を取ってみて世界の見え方が変わったと言うだけで、30万円とまではいかないにしろ10万円、20万円払う価値はあるんじゃないかと僕は思っている。
言うまでもなく、運転免許は知識、技能が充分に備わっていることを試験突破で証明したことを保証する証明書だ。だから、理屈通りで言えば運転免許を持っている人は皆運転ルールを理解し安全に運転が出来る人のはずだ。
しかし実際はどうだろう。危険な運転、羽目を外した運転をする人がいくらでもいる。こんなにも皆適当なのかと教習所で運転を学んで初めて分かる。「速度制限は、守るとむしろ道路が混雑するから迷惑になるんだよね。+10 km/hで走るくらいがちょうどいい。」だと。ふざけるなと言いたい。本当にそうなら路上教習でそうさせるべきだしそれを知識として入れさせるべきだ。そしてこんなものがなあなあで広まっているのはどうにも納得がいかない。他にも、今日は雨だったので後ろから走ってきた大型車に前を歩いていた友人が思い切り水をかけられていた。横に歩行者がいる時はスピードを落として水をかけないよう配慮するなんてことは免許を取得していれば誰でも知っているはずだ。100:0で車側が悪い。

こんな感じで、当たり前のように交通ルールを守らない人が世の中には多すぎる。運転する資格がないのに運転免許を持って運転している人は山ほどいる。そのことを免許を取得して学んだ。免許取得後、僕は車のことを基本信用しなくなったし、万が一の対策を講じられるようになったから、今日友人の後ろを歩いていたにも関わらず僕は後ろから来るタイヤの音を聞いて「これはマズイ。」と思い身を引いて水をかけられずに済んだ。

僕は必要に迫られない限り車を運転しない。この判断は正しいと思っている。免許を持っているから運転しても構わないと言い平然と危ない運転をする輩より、ずっと正しいと思っている。今日は、それがさらに強まった。

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