『バズる文章術』と僕。

今日僕は、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』という本を読んだ。昨今の売れ筋は『バズる文の書き方』だそうで、SNSで受けの良い文を書くにはどうしたら良いかを綴った本が面陳されているので手に取ってみた次第だ。
もう7, 8年ほどSNSをやってきた人生だが、バズることには無縁の人生だった。おもにやってきたSNSと言えばTwitterだが、趣味用アカウントを作ったにした『#はじめてのツイート』みたいなタグをつけた投稿に200件ほどいいねが付いたくらいしか経験がなく、こんなものはバズでも何でもない。ただ挨拶に反応してくれただけのことだ。
そんな僕がこの本を読んでバズる文章術を手に入れて文を書いてみたら、果たしてバズるのか_____とかやってみたら面白いのかもしれないが、生憎そんな気力は無いし、バズること自体にそこまで関心がある訳ではない。だいたい、この時点でもう既に僕が勉強した『書き方』からは大きく逸脱している。ここからなかなか修正は効かないし、する気もない。

この本に限らず、文章術の本を読むと感想は「知ってるなぁ。」以外に無い。大したことない読書量の僕でも、ほぼほぼ全てのテクニックは読み手として経験してきているし、書き手として挑戦してきている。『訳の分からないフレーズを書いて、後から丁寧に説明して回収する』『読点でリズムを作る』などの何の新鮮味もない情報を、有名な作家の文章を引用して説明する。文章術の本はおしなべてそんなものだ。
たしかに文章術は文を書くうえで大事だ。文章術を無視した文は読めたものじゃない。ただ文章術をひとつずつ踏まえて書いたからと言って、『バズる』文章になるとは限らない。僕の文章ですら褒めてくれる人が居てくれるし、無名の文章が上手い人なんてこの世にごまんといる。文が上手いと言うだけでバズれたら、この世はきっとライターだらけになる
つまり『バズる文章術』というのは、『バズった文章に共通する技』だ。文章術を押さえればバズるのではなく、バズった文章は文章術を押えているという関係だ。『文章術』は必要条件であって、十分条件ではない。ようやく論旨に辿り着いた。

文章術を綴った本に限らず、実用書やビジネス書はだいたい必要条件を十分条件のようにして推し出している。『最短で金を稼ぐ方法』『会社で必要とされる人材になるには』『営業が上手くいくコツ』『頭のいい人の思考術』『バズる文章術』『人心掌握会話術』、どれも同じだ。不可逆的な成功体験を、遡るように評価する。だから十分と必要の関係がひっくり返る。それを読んで『術』を手に入れた気になる。上手くいくのは出版業界と著者だけで、読者が上手くいくことはほとんどない。これが実用書の実態だ。何が実用だ。馬鹿馬鹿しくなってくる。
だからこそ僕は、成功した人、売れた物にいっそう美しさを感じる。この成功は不可逆的なものだ。『メソッド』で生み出せるものではない。そう考えると尊くなる。僕が今から東野圭吾ばりの小説を書き上げられるか?僕が今からTwitterで万バズを量産できるようになるか?僕がこのnoteで凄まじいアクセスログを叩き出せるか?答えは否だろう。最果タヒが書いた詩は、どうやったって僕には書けないし、彼女にだって再現するのは不可能だろう。
圧倒的なセンスと偶然、そこに少しの技術があって、名著名作は生まれ出る。その過程は不可逆的で、書き表せるものではない。そんなことを僕は『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』をパラパラっと読んで感じた。

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