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古書堂の殺人 (2)


 出入り口の扉を開けると黄ばんだ背表紙の本の列に圧倒され、遅れて下腹あたりを刺激する心地よい香りに包まれる。
 縦長の通路を進むほど香りの濃度は増し、両側の本の壁が押し迫ってくる錯覚に襲われる。
 通路の突きあたりに年季の入ったカウンターと、比較的新しい座り心地のよさそうなパーソナルチェア。椅子のうえには、仏頂面した串間警部補が、火のついていないタバコを口にくわえて腰を下ろしている。背面に木目が確認できないほど黒ずんだ引き戸があり、引き戸の奥では二名の私服警官が息を潜めて待機している。
「モニターに変化はないのか」
 引き戸へ向けて串間が問いかけると、私服警官のひとりが「特には」と素っ気ない口調で答えた。
 十分ほど前までは、私服警官らと一緒に百瀬奏多も扉の奥で待機していたが、「少し身体を動かしてきます」といって席を立ち、店舗正面の出入り口から外へでて、通りを右へと歩いていった。
 宙に浮かんだ埃(ほこり)すら静止している閉め切った店内で、串間の右膝だけが落ち着きなく動いている。目にとまった本の背表紙がなぜか腹立たしく感じ、姿の見えない時計が発する秒針の音すら神経に触りはじめた串間は、苛立たしげに嘆息して、耳にはめたイヤホンを指で押さえた。
「百瀬はどこだ? 近くにいるのか?」
 襟(えり)に仕こんだ小型マイクへ向けて小声で問いかけた。同様の通信装置は、古本屋に面した通りで張りこみを行い、通行人に目を光らせている複数の警察官も身につけている。
『すぐそばにいます』答えたのは、通りを右へ進むと行きあたる公園付近で張りこむ、右田という名前の警察官だった。『民家の庭先にある、金柑(きんかん)の木を眺めています』
「金柑だと? ったく、なにやってんだあいつは」
 ぼやいた声に覆いかぶせるようにして、通りの逆側で見張っている左内という警察官の報告が割りこむ。『——下校する小学生の集団が近づいてきます。もしかすると、古書堂の前を通るかもしれません』
 串間は腰を浮かせて、首を伸ばし、高く積みあがった本の陰に隠れている壁掛けの時計を見た。午後三時を数分過ぎている。これまでに発生した事件の中で、もっとも早い時間に行われたのは、二番目の標的となった天海トシノリのときの午後三時三十分だった。
「妙だな。職質したほうがいいんじゃないか?」と、引き戸の奥から声。
「どうした」声を張って串間が問うと、たてつけの悪い扉がわずかに開いた。
「自転車店の脇に設置した監視カメラ映像に、気になる車両が映ってるんだよ」
「どこだ」
「自転車店から十メートルほど離れた路上に停車して、動く気配はなく、ドライバーがでてくる様子もない。濃い色のステーションワゴンだ」
「左内が見張っている場所から、さほど離れてないな」
 串間は前かがみになって座高をさげ、胸元の小型マイクへ向けて呼びかける。
「左内巡査、聞こえるか。カメラを設置した自転車店のそばに不審車両がとまっている。行って、車両ナンバーとドライバーの様子を確認してくれ」
 ややあって『向かいます』との返答。直後に、串間の背後でほんの少し開いていた引き戸が耳障りな音をたてて勢いよく閉まった。串間は知らぬ間に唇から離して、机上に載せていたタバコを口にくわえると、目の前にあった文庫本の上で指を組んだ。首を伸ばして壁掛けの時計を見る。時計の針は先と同じ時刻を指していた。
「ったく……ワゴンのドライバーが犯人だったら、どうするんだ、百瀬?」
 百瀬が歩いていったのは、通りの右方向である。今日一日行動をともにしてきた百瀬が肝心な場面で急に退席し、それも不審車両が見つかった場所とは逆の方向へ進んだことがどうにも気になりはじめて、串間は右田へと呼びかけた。
「右田巡査、百瀬はまだそこにいるのか?」
 少々長い沈黙ののちに、耳障りなノイズがイヤホンから発され、続けて、望んでいた声が聞えてくる。
『いえ——公園の中に。いまは公園の中で、犬を連れて散歩していた老人と親しげに喋っています』
「老人と、だと?」
 意図せず嘆息をもらし、串間は灰皿の隅へとタバコを投げ置いて、背もたれに体重をあずけた。
 キリリリと椅子が軋む音に被せるようにして、手のひらを打ちあわせたような大きくて不快な音が、背後から鳴る。
「おいおい、串間。懇願して連れてきた名探偵さまは、超人的な能力で犯人をみつけだすんじゃなかったのか?」引き戸の向こう側から嘲笑しているとわかる声で問いかけられ、串間は唇の端を歪めた。「だとしたら、その老人が凶悪殺人犯ってことかぁ。ははは。さすがだな。名探偵さまは。や、ひょっとすると連れている犬のほうが実行犯だったりするのかもな」
「馬鹿でかい、ひとりごとだな」
「ははは。ああぁ、そうだよ。ひとりごとだよ。あの名探偵さまは対峙しただけで、相手の正体をいい当てるんだったよな。だったら、いま仲良くお喋りしている老人と犬のどっちが殺人犯なのか、早く教えてくれねぇかなぁ」
 嘲笑が引き戸の奥から聞えてくる。しかし串間は椅子に腰をおろしたまま言葉を返さず、表情も変えずに、じっと一点を見つめて静止し続けた。
 その脳内でめまぐるしいシナプス伝達が行われる——引き戸の奥で待機している警察官は小馬鹿にした口調で喋っているが、公園の老人が憎き殺人犯である可能性はゼロではない。老人であれば、普段見かけない人物であってもさほど不審に思われないのではないか。犬を連れて散歩していると目撃者の記憶には残り辛く、犯人候補から外れ易いのではないか——そう串間は思案する。そして、
 ——なぜこのタイミングで、百瀬は屋外にでた?
 ——なぜ公園で犬を散歩させている老人に声をかけた?
 ——殺人犯がいつ訪ねてくるかわからないこの状況で、悠長にお喋りをはじめた心理が微塵も理解できない。
「いや。ひょっとすると、あいつは……」ぼそりと呟いた声を喉の奥へと戻すべく、イヤホンから興奮気味な声で呼びかけられ、
『串間警部補! 瀧川です。瀧川ソウヘイです!』
「あ? なんだって?」串間も負けず劣らずの大きな声で、左内と思しき声の呼びかけに応じた。
『瀧川ソウヘイです、三番目に殺害された、瀧川カイトくんの父親ですよ!』
「だから、なんだ、その瀧川ソウヘイって男がなんだって?」
『不審車両に乗っていた男性が、瀧川ソウヘイだったんです! 瀧川はサバイバルナイフを所持していたので取りあげました。瀧川もまた、息子のカイトくんを殺した犯人が古本屋へやってくるに違いないと考えたらしく、出会したら相手を襲うつもりでいたようです』
「くそッ!」勢いよく椅子から立ちあがり、店の出入り口へと向けて大股で通路を進んで串間は声を荒げる。「早急に署まで連行して……いや、人が減るのは拙いな。とりあえず瀧川を店へ連れてこい! くれぐれも騒がせずに静かに、客を装って店内に入るんだ、いいな? わかったか」
 応答を待たずにイヤホンを耳から外し、出入り口の扉を乱暴に開く。
 空は曇っていたが、薄暗い店内に長時間こもっていたせいか、屋外に満ちている光が痛みを伴うほど両の目をさした。右手をかざして、目を細め、串間は言葉として成立していない暴言を二、三こと小声で吐いて拳を握りしめる。
『……ッ! ……!』

 ——?

 どこからかノイズ混じりの音が聞こえた。
 それがイヤホンから聞こえている音声であると気づいた串間は、慌てて店内へと引き返し、眉根を寄せつつイヤホンを装着した。
『——ダメです! わたしたちがわずかに目を離した隙に——』
「あ? なんだって?」
『やられました! 殺されたんです!』
「あぁあッ? なんだって? なにがあった、左内巡査ッ?」
『い、いえ、わたしは左内ではなく——』わずかな間があく。その間に串間はうしろ手に出入り口の扉を閉め、天井で煌々と灯っている蛍光灯を眺めた。『右田です! 目を離したわずかな隙に、公園内で殺されたんです、百瀬さんが! 百瀬さんが頭を屠殺銃で撃たれましたッ』
「……?」
 振り返って扉に手を添える。
 屋外に目を向ける。
「おい、串間! どうなってる? どうしてあの探偵が——」店内奥の引き戸が開き、待機していた二名の警察官が震えた声で問いかけてくる。
 串間は屋外へ目を向けたまま片手でふたりを制すると、もう片方の手で出入り口の扉を勢いよく開いた。


〈つづく〉

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