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世界の終わり #2-5 ギフト


          *

 西から移動してきた雲が空を覆い、雨が降りだした。陽が沈んで周囲が完全な闇に包まれると、樹木が音を立てて揺れだし、雨脚が強くなった。掛橋は明日の羽鳥の到着に備えて、いつもより早く床についた。以前は動物園の総合案内所として使われていた正門横の建物が、掛橋に割りあてられている宿舎スペースである。通称、〈ボックスA〉。〈ボックスA〉で寝泊まりしているのは、男性のみの計四人。ほかのメンバーは離れた場所に建つ科学館や、医療センターの跡地などを利用している。
 雨音を聞きながら枕に頭を埋めて目を閉じ、次にまぶたを開いたときには、掛橋の頬を太陽の光が暖めていた。
 日付は変わり、羽鳥訪問当日となっていた。
 瞼(まぶた)を擦りながらベッドを離れて、光射す窓辺へ移動する。昨夜の雨が記憶違いではないかと思うほど、外は晴れ渡っていた。時計を見ると時刻は午前六時。少々早い時間ではあったが、作業着に着替えて靴を履き、小鳥の囀りが騒がしい外へ通じる扉を開けた。軒下の壁にかけている安全ベストのほうへ手を伸ばしたと同時に、気持ちのいい風が頬を撫でたが、朝の清々しさを覚えたのはそこまでだった。昨夜の雨で湿っている正門広場へと続くアスファルトの上に存在している異物――
 路上に、血に塗れた男性の遺体が横たわっていた。
「……!」
 金色の髪をした小柄な体型。うつ伏せて横たわる身体を詳しく調べるまでもなく、男性は正門前で見張りを行っていた〈九州復興フロンティア〉の西条であるとわかった。掛橋は逃げだしたい衝動を抑えて、震える足と腰に鞭を打ち、視界に捉えた扉という扉をノックして〈ボックスA〉内にいたメンバーを起こして回った。どうした。何事です。なにがあったんです? 苛立ち混じりの声をあげて、寝癖のついた髪の男たちが個室から顔をだす。目をしばたたきながら不機嫌な顔をしていた彼らも、西条の遺体を目にするなり表情を強張らせた。最後に扉を開けて姿を現したのは山岡だった。山岡は遺体を目にするなり顔を歪めて硬直した。
「山岡くん」掛橋が呼びかけるも、「きみは昨日の夕方、この男と会って、羽鳥さんの話を伝えたんだよな?」山岡は硬直したまま問いに答えようとしなかった。「山岡くん。おい、聞いてるのか!」
 山岡が顔をあげる。
 見開いたその目には、恐怖の色が浮かんでいた。
「や、山岡くん――」三〇代半ばで寝癖のついた髪の男が、山岡へと歩み寄り、肩に触れようと手を伸ばす。
「さ、触るなッ! なんでここに。だ、誰だ、誰がこいつを?」男の手を払いのけ、山岡は忙しなく目を泳がせて数歩後退した。顔は青ざめ、唇は震えていた。いつ卒倒してもおかしくないほど山岡は動揺を露にしていた。「お、おれは、おれは――」
「きみは昨日の夕方、この男と会ったんだよな?」
「う、うるせぇ! なんだ、これ。なんなんだよ!」
 半開きの状態だった扉を蹴飛ばし、寝癖のついた髪の男を押し退けると、山岡は科学館方面へと向けて駆けだした。
「待て! 待て山岡ッ!」山岡と歳の近い小野という男性が背中を追って走りだしたが、サンダル履きだった小野と山岡との距離はみるみる開いていく。
「掛橋さん?」寝癖のついた髪の男が不安げに呼びかけ、
 掛橋は唇を噛んで首を振った。「小野くんに任せましょう。わたしたちまで追うことはない。それよりも――」
 一刻も早く確認すべきことがある。九州で暮らしている者にとって、死体を見つけたときに、まず確認しなければならないのは、感染の有無である。発見時は冷静さを失っていた掛橋だったが、パニックに陥った山岡を目にしたことによって、ある程度の落ち着きを取り戻せていた。
「利塚さん、どう思いますか」
「……?」利塚と呼ばれた寝癖のついた髪の男は、数度瞬きを繰り返したのちに頬へ手を添えて返答した。「この男のことでしたら、そ、そりゃぁもう、誰がどう見てもグールにやられたんですよ。喉を噛み切られていますし、ひ、皮膚の状態を見ても、かなりグール化が進んでいます」
「彼自身が這ってここまできたとは考えられませんか」
「這って? 死んでいるこの男がですか? ど、どうでしょうか。襲われた直後であれば可能だったかもしれませんが、これほどの傷を負っていますから、難しかったように思いますけれども……すみません、わたしには判断つきません。判断つきませんが、〝死後に自ら移動した〟というのはないように思います。〝まだ身体は動かせない〟ようですので、その線は考え難いです」
「いまのところ安全というわけですね」
「えぇ、まぁ。いきなり起きあがって襲いかかってはこないでしょう。ですが、感染から半日近く経過しているように思えますので、油断は禁物であるかと」
「わかりました。急いで拘束用のシートで、包んでしまいましょう。シートの準備をしますから、その間に科学館と医療センターへ連絡してください。ケースXであると」
「ケース、え、X?」利塚は表情を強張らせた。
 ケースXとは、施設内のグールが檻から逃げだしたことを意味する隠語である。壁で覆われた施設内でグールに襲われたとなれば、考えられる事態はひとつしかない。
 施設内にいたグールが西条を殺害したのだ。
 ただし、掛橋が寝泊まりしている宿舎の、それも部屋の扉の前で、成人男性が抵抗空しく殺害されたというのは信じがたいものがあった。ほかの市民団体メンバーである西条が施設内に入っていること自体、考え難いことでもある。
 拘束用のシートを取りに倉庫へと走った掛橋は、唇を尖らせて首を傾げた。

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