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善き羊飼いの教会 #3-9 水曜日

〈筒鳥署〉


     * * *

 不規則に点滅する街頭に照らされた駐車場を駆け、筒鳥署出入り口で足をとめたスルガは、交通窓口前にいる集団の中に知った顔を見つけた。柊アカリのストーカー事件の際に警護を担当していた、生活安全課の長栖である。
「長栖さん」扉を開けて署内に足を踏み入れ、スルガは長栖に声をかけた。
 長栖が顔を向ける。数秒の間が空く。
「ひょっとして、スルガさん?」長栖は両目を大きく見開いて笑みを浮かべ、集団から抜けだして駆け寄った。「どうしたんですか、その髪。クレイジーすぎて誰なのかすぐにわかりませんでしたよ」
「クレイジー?」髪のあちらこちらがはねてボサボサになっていると自覚してはいたが、改めて指摘されると気になってしまい、右手で髪を押さえる。同時に鈍く痛んだ胃のあたりを服の上から左手で摩った。
「大丈夫ですか。あまり寝てないんじゃありません?」
「あ、いえ、この髪は」
「髪もそうですけど、顔色が悪いですよ」
「は、はあ。朝からちゃんとした食事を摂らずに動き回っていましたので、そのせいでしょう」
「北杏仁総合病院での捜査に協力されていたんですよね。僅差ですれ違いになったようですが、今日の夕方ごろ、研究所にお邪魔したんですよ」
「長栖さんが? 柊と一緒に文倉家を訪ねた警察官って、長栖さんだったんですか」
「えぇ。まさかこんな一日になるとは――」ふう、と短く息を吐きだし、長栖は眉尻を下げて苦笑を浮かべる。「思いもしませんでした」
「大変だったようですね。藤崎里香を発見したと聞いたのですが……柊は? 筒鳥署で聴取を受けていたと聞いたのですが」
「まだ署内に残ってます。二階の応接室にいますよ。ご家族が迎えにくる予定なんですけど……」左手につけた腕時計に目を落とし、長栖は再び短く息を吐いた。
「迎えにくるのは母親ですか? だったら、妹さんの仕事が長引いているんでしょう。柊の母親はストーカー事件以降、できるだけ妹さんの現場につき添うようにしているそうですから、仕事が終わるまでは……よければ、柊を、ぼくが家まで送り届けましょうか」
「え。いいんですか?」
「構いませんよ。うちの大事な所員ですから」
「よかった。一時間以上待たされているので、柊さん、喜びますよ。是非お願いします。となると、柊さんのご家族に電話で伝えておかなきゃ」
「電話でしたら、ぼくが」
「いえ。わたしがかけます。取り計らいを怠ると、森村からなにをいわれるかわかりませんので」
「森村? 森村さんって強面の?」
「えぇ。あの森村です」長栖はいたずらっぽく笑って、声のトーンをわずかに落とした。「しつこくいうんですよ、森村が。いやになるくらいうるさく。ですのでわたしから電話をかけておきます」
「森村さんが、うるさく?」
「そうですよ。最近とみに言動が読めなくなっているというか、柊さんが相手だと口が悪く威圧的になるので、迷惑してるんです。今日も大変だったんですよ、廃屋の中でも大声で失言を――」
「待ってください。森村さんも一緒に文倉家を訪ねたんですか? おふたりとも生活安全課じゃないですか。それなのにどうして藤崎里香の捜査に?」
「違います、別件です。別件の捜査で文倉家を訪れて、偶然、藤崎里香と鉢合わせたんです」
「別件?」
「えぇ」
 長栖は藤崎里香の発見に至るまでの経緯をかいつまんで話した。文倉家を訪れた目的は筒鳥大学生の東条の捜索であったこと。東条は〈イロドリ〉というサークルに所属していたこと。サークのルメンバーが絡んだ集団薬物中毒死のことを、スルガはこの場ではじめて知った。
「でしたら、藤崎里香を見つけたのは偶然……や、偶然ではありませんね。元恋人が最後に訪れた場所ですから再訪の可能性を考えて当然だったのに、ぼくや金子さんは微塵も考えず……いや。そうではなくて……あぁあ、こんなことをいうと、あとだしじゃんけんのようで卑劣に聞こえるかもしれませんが、文倉家のことが頭をよぎらなかったわけではないんです。ただし、潜伏先のひとつかもしれないということには……あ、すみません、いらぬ話を」スルガは顔をしかめて、はねた髪のあたりを掻きむしった。「失礼しました。当然、藤崎里香を取り押さえたとき、柊もその場にいたんですよね?」
「取り押さえたというのは、少し違うかもしれません。藤崎里香は逃走するタイミングを見計らっていたようですが、森村が『東条は死んでいる』なんてことを連呼したものですから、動揺して自ら姿を現したようなものだったんです。取り乱して暴れるどころか、ぐったりしていて、抱き起こすのも一苦労でしたよ」
「抱き起こすのも……ですか?」
「元恋人の死を断言されたんですからね。しかも、殺人を犯した直後に」
「そんな現場に柊も同席していて、あの、大丈夫だったんですか、柊は?」
「柊さん? えぇ」長栖は視線をそらして、わずかに頬を緩めた。「現場では率先して動いてくれて、森村よりも警官らしく被疑者の対応にあたってくれました。なんていったら森村に怒られそうですけど、柊さんがいてくれたおかげで、かなり助かりました」
「柊が、対応を?」
「もちろん、スルガさんが心配されるのもわかります。柊さんにとって今日は本当に大変な一日で、時折不安そうな表情をみせていたから気がかりではあったのですが、呼びかければ笑顔をみせてくれましたし、受け答えもしっかりしていました」
「や、それは、しっかりしてたというよりも、考える間もないほど次から次へといろいろなことが起こったから気持ちを保てたというか、応対できたというか、落ち着いてゆっくり思考できる時間がもてたときが最も危険ですよ」
「危険だなんて。いいえ。それはちょっと心配しすぎですよ、スルガさん。柊さんほど勇気があって、行動力もある人はそういません。妹さんの事件のときだって――あ、すみません、スルガさん、待ってください。はい……え? はい! わかりました、すぐに準備します」ふたりの間に割って入ってきた警察官の指示を受け、長栖は会話を中断して警察官としての仕事に戻らざるを得なくなる。「すみません、スルガさん。動きがあったようなので、失礼します。柊さんのこと、お願いしますね」
「え。あ、はい。わかりました」中座を不服に思いつつも首を縦に振り、スルガは腕を組むようにして胸を強く押さえて礼をいった。「お忙しいのに、ありがとうございました」
「柊さんをお願いします。多分、二階の応接室にいるはずです」再度、念をおし、去り行く長栖のうしろ姿は、見る間に小さくなった。


 階段を登り、顎をあげて〈応接室〉のプレートを確認したスルガは、扉の前に立つなりポケットの中からピルケースを取りだして錠剤を舌の上に載せ、水なしで飲みこんだ。
 数秒の間をあけたのちに顎を下げ、ゆっくりと口から息を吐きだす。

 ――なにを話せばいい? どう声をかければいい?

 扉を開けて、柊に会って、まず、はじめになんといおう。
 胸に手をあてて、手のひらで強く圧する。

 ――当然ながら、もう柊は知っているはずだ。

 藤崎里香が、佐倉めぐみを殺害した犯人であることを。
 藤崎里香が、柊の名を騙って佐倉めぐみに会いに行ったことを。

 ――当然ながら、柊は気がついているはずだ。

 藤崎里香に、佐倉めぐみの存在を知らせたのが誰であったかを。
 藤崎里香に、殺意を芽生えさせる切っ掛けを作ったのが誰であったかを。

 ――なにを話せばいい? どう声をかければいい?

 扉を開けて、柊に会って、はじめになんと声をかければいい?
 口の奥と、喉のあたりに残る違和感を唾と一緒に飲みこんで鼻から息を抜く。

 スルガは目を閉じ、しばし息をとめて、目を開けると同時にドアノブをつかんだ。
 取り繕いの笑みを顔に貼りつける。
 扉を開く。
 明るくて暖かい応接室の真ん中にテーブルが置かれていて、両側には大きなソファが。
「……え。え?」
 柊は左のソファに腰掛けていて、キャリングケースを胸に抱え、頭を背もたれに載せて上を向き、口を開けて眠っていた。
「……はは」
 小さく声にだして笑い、それでいて顔に貼りつけていた笑みを引っこめる。
 スルガはうなじを掻きながら、外耳道をくすぐる微かな寝息を聞いた。

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