世界の終わり #7-2 グロウ アップ
*
「こちらです」
といわれて、クリーム色の扉を通った。
この場所まで案内してくれた、優しいお母さんって感じの看護師さんは、ペチペチと床を鳴らしながら病室の奥へ移動して、閉ざされていたカーテンを静かに開いた。
晴天。
窓の外には見慣れない景色が広がり、気持ちよさそうに滑空している鳥のシルエットが右から左へ横切る。
だけど気分は晴れない。肩と頭の上に透明で巨大なゼリーが載っているような感じで、非常に不快。室内には鼻腔を刺激する薬品っぽい臭いが充満していて気持ちを落ち着かなくさせるし、なによりも医療施設という場所に慣れていないから、無駄にキョロキョロと見回してしまう。
ホントは目の前にいる、ベッドで横になっている人物をまっすぐ見て、声をかけて、ほら、いま、看護師さんが用意してくれた椅子に腰掛ければいいんだろうけど、入り口近くの場所に突っ立って、うしろ手で指を絡めて、下唇を噛んで、アホみたいに笑顔を振りまいている。
「荒木さーん、白石さんというかたがお見えになっていますよ」
シーツの皺を直しながら、看護師さんはベッドに横たわる人物へ声をかけた。
だけど反応はない。荒木さんは仰向けの姿勢で目を閉じたまま、表情ひとつ変えずに沈黙し続けている。
「どうぞ、椅子にかけてください」と看護師さん。
謝罪するように頭をさげて、ぼくは椅子に腰掛ける。
手ぶらでお見舞いなんて非常識極まりないことだろうけど、目を覚ますことなく眠り続けている荒木さんになにをもっていったらいいのか決めきれなかったし、いまもまだ答えをだせていない。
椅子に座ってみると、気まずいくらいベッドとの距離が近かったので、腰を浮かせて椅子を離した。
どうにも落ち着かない。
視線をどこに固定させるべきか散々迷った挙げ句、忙しなく動いている看護師さんの動きを目で追う。
右へ。
左へ。
いや、なにをやってるんだ、ぼくは。
「あ、あの。どんな感じなんでしょうか」
居辛さから、無意識に言葉が口をついてでた。
「どんな感じ?」
容態はどうなんでしょうって尋ねたつもりだったんだけど、上手く伝わらなかったようだ。
そりゃそうだよな。伝わるわけないか。
「荒木さんの、その、容態といいますか——」
「変わりないわね」
短く返して視線をそらし、看護師さんはクリップボードに挟んだ紙へ記入をはじめた。
カリカリと心地よい音で、病室が満たされる。
小さい音なのに、かたちが見えるほどペンの走る音がハッキリと耳に届く。
ありとあらゆる家具や室内の壁に音を倍増して反射させる特殊加工が施されているんじゃないかってくらいの反響っぷりだ。
「カケルくんの、おともだち?」
「え?」
「カ、ケ、ルくん」
「あ、あぁ……」荒木のことをいっているのか。荒木、カケルって名前だったんだ。そういえば一度も下の名前を尋ねなかったし、知ろうともしていなかった。「そうです。カケルくんに頼まれまして」
「お仕事、忙しいの?」
いまは無職です——って答えかけたけど、ぼくではなく、荒木のことを訊いたんだろう。
「えぇ、まぁ」
「大変なのねぇ」
「そうみたい、ですね」
「ひと月近く顔を見せないから、みんな心配していたのよ?」
「はぁ」みんなって誰だろう。尋ねたい気持ちをぐっと我慢して、「カケルくんに伝えておきます」とりあえず話をあわせてみるが、いつボロがでてもおかしくないので気が気じゃない。
早いところ病室からでていってくれないかな。
ぼくと荒木さんのふたりだけにして欲しい。
ベッドに横たわる荒木さんへ目を向けてみる。
「…………」
——綺麗な人だ。
頬が痩けて窶(やつ)れてはいるものの、とても五〇代には見えないくらい若々しくて、美人で、あの荒木の母親であるとは信じ難い。
そのくらいまったく似ていなくて、見惚れてしまうほど整った顔をしている。
毎週末、荒木が、母親の入院している臨機特別法人医療施設へ顔をだして、朝から晩までずっと目を覚ますことのない母親へ向けて言葉をかけていたという話も、本人を目の前にすると納得できた。
それは思いっきりぼくの主観によるところの意見であって、朝から晩まで語りかけていたって話も、人づてに聞いた噂話だから本当かどうか定かではないが、看護師さんと交わした会話の内容からして、疑う必要はないようだ。
そんな孝行者が、藤枝店長から『クズ野郎』なんて酷いいわれようだったのは、若かりしころの荒木がかなり荒れていたせいらしいのだが、その後、どうして母想いの心優しい孝行者になったかというと、これまた、人づてに——職場の元同僚から聞いた、〝荒木が酒に酔うと必ず口にしていた話〟ってヤツを思い返すだけで済む。
荒木、曰く。
——おれのせいで母親はあんな状態になっちまったんだ。
そしてぼくは今日、荒木の代わりに母親の病室を訪れている。
別に荒木から頼まれたわけではないし、荒木の代わりに入院費用を支払いにきたってわけではないし、大事な届けものをもってきたってわけでもない。
理由を明かすとなんだそりゃっていわれそうだけど——会ってみたかったんだ。荒木の母親に。
それに話したいことがあった。意識のない母親へ話しかけたところで、言葉や気持ちが伝わるのかどうか疑問は残るけど、ぼくが知る荒木について、そのすべてを言葉で伝えておく必要があると思った。
荒木へ述べることができなかった感謝の言葉と、謝罪も。
だから調べて、病室を訪問したんだ。
看護師さんには『荒木に頼まれて』と答えたけど、それは取り繕いの嘘。
ぼくはいま、拝借している荒木の上着を羽織っている。
もしかしたら、気づいてもらえるんじゃないか。眠り続けている荒木の母親が目を覚まして、あら、その服は? って話しかけてくれるんじゃないかって奇跡みたいなことを期待していたけど、そんなことは起こるわけもなく。
病室に入ったときと同じ状態、同じ光景が、かわらず目の前にある。
荒木には命を救われた。考えてみれば、板野にも荒木にも助けられてばっかりだった。
それに、荒木からはとてもよくしてもらっていた。
口が悪い割に、妙に親切だったので、疑問に思って一度尋ねたことがあるが、荒木は不機嫌そうな顔をみせて、『お前らになにかあったら、この仕事がポシャっちまうかもしれないからだ』って答えを返した。なるほど——と納得してみせたけど、いまではそれだけじゃないってことをちゃんと知っている。
荒木は峰岸氏の屋敷で襲われた際に、板野から救われたかたちになったことをかなり気にしていた様子で、以後ずっと率先して先頭を歩いていたし、路上で車が故障して柏樹さんたちに声をかけられたときも、ぼくらを守るべく、すぐさま峰岸邸からもってきたスタンガンで攻撃してくれたのだ。まぁ、柏樹さんたちは悪い人ではなかったので不要な暴力ではあったのだけど、荒木の行為は決して〝仕事を続けるためだけの親切〟だけではなかったのだ。
「冷蔵庫があるでしょう?」
「え?」
「ほら、そこに。その冷蔵庫。カケルくんが飲みものを入れているから、一本貰って、飲むといいわ」
看護師さんが指差すほうへ顔を向けると、部屋の隅に小さな冷蔵庫が置かれていた。
立ちあがって冷蔵庫へ近づき、扉を開く。
中には同じメーカーの紅茶が沢山入っていた。
「紅茶ばっかりですね」
「好きだったらしいのよ。その紅茶が」
振り返ると、看護師さんはベッドに横たわる荒木さんを見つめていた。
荒木の母親が、このメーカーの紅茶が好きだったということだろうか。
だから荒木は沢山買いこんで、冷蔵庫に入れているのか——いつか母親が目を覚ましたときに、大好きだった紅茶がすぐに飲めるように?
「飲んでいいわよ、ってわたしがいうことじゃないけど、増える一方なのよね。カケルくんだけじゃなくって、興梠さんも買ってきて冷蔵庫に入れているみたいだから、溢れそうになっているでしょ?」
——!
「コオロギさんって……興梠(こうろぎ)玲子さん、ですか」
「あら。知りあいだったの? 興梠のおばぁちゃんと」
「いえ、あの——」
知りあいではないけれど、名前は知っていた。
特徴的な名字だったから、記憶に残っていたんだ。
「なんだ。知りあいなら、早くいってくれればよかったのに。談話室にみんなで集まってお喋りしていたから……ちょっと待って。呼んできてあげるわね」
「え? え。あ、はい。すみません」
——驚いた。
というよりも、まさかこんなところで興梠玲子という人物と会えるとは思っていなかったので変な感じだ。
思いがけなさすぎて気持ちがついてきていない。
いや、先に行ってしまっているのかも。
鼓動が早くなっている。
喉も渇いてきた。
ペチペチと床を鳴らしながら病室をでて行く看護師さんのうしろ姿を見送り、冷蔵庫の中から紅茶を一本取りだした。
喉を潤して、ひと息ついてから、上着のポケットの中へ手を突っこむ。
荒木の上着である。
拝借したときからポケットに詰めこまれていたものは、そのままにしてある。
ガサリと音が鳴って、中から姿をあらわすのは、複数の封筒と色あせた写真。
ぼくはその中から、厚みのある白い封筒を引き抜いて、表に書かれた宛先の箇所を見た。
——興梠玲子様。
先ほど口にしたばかりの名前が記されている。
紅茶を再び手に取って喉を潤し、しばし手の中の手紙を見つめた。
ようやくわかった。
ようやく辿り着けた。
ぼくは〝荒木からの頼まれごと〟を達成できそうだ。
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