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觀想生活日記 2024-03-25/31—ポストモダン化󠄁する動物

これまで「ポストモダンが動物化󠄁してるなあ」と思う場面は少なくなかったけれど、最近󠄁は「動物がポストモダン化󠄁してるなあ」と思うようになってきた。

私はガリ勉だったから靑春時代モテなかったのだろうか? いや、モテないからガリ勉だったのだ。

鈴木社会学と創価学会」という論文が、日本社󠄁會と日本社󠄁會學の歷史の一コマを鮮やかに描いていて、面白かった。

世界各地の死と來世の表象を學びたい。

岩田靖夫って『神の痕跡 ハイデガーとレヴィナス』なんて名前の本書いてたの!!?? 『哲學以前󠄁』で「何かとは何か」と問うたり、共產黨から追󠄁放されたり、都󠄀知事選󠄁に出たりした出隆󠄁もそうだけど、こういう今では「飜譯家」「解說者󠄁」扱󠄁いの人たちも意外と大膽なことやってるんだよな。

時間から静止、静止から運󠄁動を演繹?

2という數は無限通󠄁りの仕方で語られる。「1.1 + 0.9」「0.01 + 0.99」「0.001 + 0.999」というように。類比的に、あらゆる槪󠄁念は分析可能なのではないか? しかし、甲という表現が乙という表現の分析であってその逆󠄁ではないということはどうやって分かるのか?

目の前󠄁の現象を信賴できなくては倫理的行爲など行えない。一切が私の觀念だとしたら、善行も私の知覺する觀念に過󠄁ぎなくなるから。

なぜ我々は觀念論を唱えたくなるのか? どうしてヨーロッパ哲學史にこうも執拗に繰り返󠄁し觀念論という怪物が現れるのか?

愛はいかにして可能か? 現前󠄁する現象が人格又は現象を受け取る主󠄁體であるという前󠄁提によって。

著作權の歷史を調󠄁べたい。

少なからぬ日本人が、たとえば「宗敎みたい」という表現において、「宗敎」という語で「カルト」「邪󠄂敎」「狂信」「迷󠄁信」などを指していることに私はかねがね違󠄂和感を持っていて、というのもそれなら日本人の大多數の皆さんが行ってる寺社佛閣參拜や冠婚葬祭や除夜の鐘や初詣や七五三やお守りやおみくじが「宗敎」でないなら何なんですかねと常々疑問を抱󠄁いていたからなのだが、しかし最近󠄁(安倍晉三と統一敎會がどうのこうのというニュースが出て以降)、典型的日本人の皆さんは文字通󠄁り「宗敎」を持っていないのではないかと思うようになった。信仰とか信心とか敬虔とかの感情󠄁を持ったことが無いのではないか? この國には神󠄀がいないのではないか? たとえば、佛敎徒の皆さんは墓參りや法事で(燒香で!)、どこまで釋迦や宗派開祖󠄁の說く敎義を理解し、是認󠄁し、實踐しているのだろう? たとえば神󠄀社󠄁へ行く人は、本當におみくじに書いてあることが眞理であり、お守りの効果が絕對であると固く信じているのだろうか? 佛像を拜むとき、君は本氣でその偶像が君を救うと考えているのか? あるいは、日常生活において、佛敎と神󠄀道󠄁の世界觀をどう整合させているのか? もし日常生活で佛敎と神󠄀道󠄁の世界觀の調󠄁停が問題になていないなら、それは佛敎も神󠄀道󠄁も日常生活の全󠄁てを捧げるべき 宗敎 として信仰しているわけではないことの證據だ。宗敎を信じている人に取っては、神󠄀が生活の全󠄁てなのだから。

高校古文で知った、係累が邪󠄂魔󠄁だという思想に惡影響󠄂を受けた。

「ああ、そんなに激しくボクの琴線をひっかかないで」。

構󠄁造󠄁主義(あるいはその通󠄁俗的理解)においては、人間の認󠄁識は言語による世界分節󠄂が規定するという。ならば、なぜ人は多義性の吟味や、詭辯の反駁ができるのか?

構󠄁造󠄁主義(あるいはその通󠄁俗的理解)においては、人間の認󠄁識は言語による世界分節󠄂が規定するという。たとえば日本語では水と湯を區別するが、英語ではどちらも water と呼ぶように。しかし、英語でも單に hot water, cold water と呼び分ければ濟むので、同じ對象を一語で指すのか二語で指すのかということがそれほど重要なのだろうか? それに、なぜ「認󠄁識」が分節󠄂の仕方によって異なるとわかるのだろう? 口からは言葉しか出てこないのだから、分節󠄂の仕方は單に(「心の中」ではなく體から出る)言語表現を規定しているだけかもしれないし、せいぜい行動の集合を規定するまでしか論理的に不可能なのではないか? 哲學的ゾンビも言葉を持つのだから。

例えば腦に電極をブッ刺されたらどんなに意志の強い人でもアヘ顔ダブルピースして踊り出すかもしれないのに、果たして自由意志など存在するのか? 否! 自由は存在しない。我々は Spinoza の投げた石ころに過󠄁ぎない。むしろ世界の意志を甘受し、認󠄁識することによってのみ救濟される(『論考』的倫理)。

自由意志を說く輩は、ナントカの一つ覺えのように「自由意志が無いと歸責ができなくなっちゃう〜!」と慌てふためく。だが、私は言おう、「なぜ責任など必要なのか」と。たとえば人を罰するのに責任という槪󠄁念は必要だろうか? 否! 罰する理由は、「ムカついたからぶん毆る」で十分だし(Nietzsche 的道󠄁德)、「そこに太陽があるから」ですら十分だから。

女とガチムチの中庸としての卓越性が twink ということなんですか?

「DMMブックス」 、一時期特賣していたから結構󠄁 (BL) 漫畫買ったんだけど、「本棚󠄁」のページがものすごく使いづらいからもう新しくDMMで本買うのやめようかな。具󠄁體的には、購󠄂入濟みの本を非表示にしたり、並べ替えたりしたい。もちろん「お氣に入り」ページはあるわけだけれど、そこもドラッグで並び替えとかできないし、イマイチ使いづらい。

今までエロ同人系はDLSite、商業BL漫畫系はDMMと使い分けてきたけれど、DLSiteに一本化󠄁しようかな。でもたまに意外とDLSite未販賣の漫畫もあるのが惱ましい。

“Renta!” は、一時期、viewer がものすごく重くて、そこで漫畫を買うのはやめたけれど、BL漫畫辛口批評サイトとしては他に追随を許さないので、今でも他のサイトで買って讀んだ後で他の人の評󠄁價を知りたいとき使っている。

やっぱりBL漫畫の中でも細い線と宝塚の男役みたいな女顔は苦手だな。一番刺さるのは「多分ゲイの男性が描いたんだな」と分かる感じの繪で、なおかつガチムチ系ではない少年漫畫風の美少年の漫畫。

俺バイだけど、やっぱりGMPDが好きなゲイの人とは遺󠄁傳子レベルで何か違󠄂うのかな?

俺バイであってゲイではない(と思う)んだけど、(特に二次󠄁元の)巨󠄁乳󠄁が生理的に受け付けないので、戀愛かエロチックの漫畫を讀もうとなるとほぼBLしか選󠄁擇肢が無くなるんだよね。

こないだ Renta! のレビュー欄を讀んでいたら、「BLってエッチの場面が無いとだめなんでしょうか……。特に主人公が高校生くらいならキス止まりくらいがピュアで良いのでは」と疑問を呈󠄁するお姉樣がいた。確かに私もセックスが絕對に必要不可欠だとは言わないが、一方で、それが無いと、なんかこう、全󠄁體の「締まり」や「切れ味」が無くなるような作品もあると思う。つまり、セックスの場面が無いがゆえに、お子樣向けの物足りないお話や、盛り上がらず單調󠄁で眠くなるカマトトものになってしまっている作品もある。他方で、直接的に插入の場面を描いていないものでも、作品全󠄁體の節󠄂々に「締まり」、「切れ味」のある作品なら飽󠄁きずに樂しく讀めるので、そのようなことを踏まえると、要するに、「セックス描寫そのものは不可欠ではないが、作品に締まりを與える手段の一つとしては有効」という結論になる。あとは樣式美というのもあるよね。「やっぱ交響曲ならソナタ形式だよね」みたいな感じで、「BLならヤリ場面あるよね」という。そもそも「攻め」・「受け」という槪󠄁念からして樣式美で、それは御能でいう「シテ」と「ワキ」みたいな形でもう一種の傳統になっているので。もちろん傳統が神󠄀聖󠄁不可侵󠄁だと言いたいわけではないですよ? ただ、「なんでそうなっているんですか?」と尋ねられたら「傳統だからです」というのが答えの一つになるし、そういう傳統が確立している以上、それを崩󠄁すにはそれ相應の力量が要るとは思います。めっちゃ早口で言ってしまいましたが、以上です。

『かぐや姫の物語』、發表當時からずっといつか觀てみたいと思っていたのだが、オンデマンド配信が多分無くてまだ觀ていない。でもYouTubeで豫吿篇を視󠄁聽したら、なんか兩親想いで優しそうな「かぐや姫」がにこやかに舞っていて、あれこれ「かぐや姫」の解釋違󠄂いかもしれないという懸念が生じた。私の理解した『竹取物語』の「かぐや姫」って意地惡なfemme fataleなので。いつか觀てみたいですけどね。

BL漫畫、電子版をネットで買って一人で讀んでるから、紙みたいに直接誰かに貸せないのがちょっと寂しいね。まあ、そもそもそんな仲良い友達󠄁いないし、假にいたとしてもそんなことしたら絕交されるだろうけどね。

マゾヒズムには無理矢理系とお仕置き系があると思う。單純化󠄁すれば前󠄁者󠄁はBDSMのうちbondageにあたり、後者󠄁はdisciplineに当たる。後者󠄁は心理學的・社會學的なマゾヒズムであって、その焦點は苦痛という感覺よりも、支配・服󠄁從や命令・賞罰という關係にある。具󠄁體例としては、CFNMがある。ここに身體的苦痛は無いが、差異と視󠄁線が性的興奮を生む。私は以上のことを主󠄁に人生から學んだ。

最近󠄁氣付いたのだが、私は「ストーリー(物語・筋書き)」というものがあまり好きではないのかもしれない。そうなると、大抵のフィクションの作品が苦手であるということになってしまうが。けれど、だからこそ、ヤマもオチも意味も無い作品が好きなのだ。

「ヤリ捨てポイ」ならぬ「イチャ捨てポイ」。

少女漫畫の讀者層󠄁の方々が「御曹司」という存在を全󠄁くもって肯定的に捉えられるのは皮肉ではなく素直に感心する。私はどうしても心の中で「チッ、ブルジョワがよお……」とつぶやいてしまう。

戀する二人の距離が少しずつ近󠄁付いていくのは κί̄νησις (運󠄁動) だけれど、二人が結ばれてからは ἐνέργεια (活動) が始まるんだ。

あ〜心中したいな。でも、心中する相手すらいないということが私に對するこの世界の意志なのだろう。

なんで俺「バース verse」系(オメガバースとか)苦手なんだろう? 苦手というより食わず嫌󠄁いだけど。なんか愛が生理學的に條件付けられている感じが嫌󠄁なのかな。意外にも愛において私は自由意志を信じているのか? しかし戀とは落ちるものであって、元來意志するものではないだろうに。それとも、私は戀愛對象の固有性を求めているのか? つまり、何らかの性別(男女とか α/β/ω とか)に戀するのではなく、まさに取り替えの効かない君自身に戀するということにロマンを感じているのか?

やっぱり好きなBL漫畫は、獨自の思想・價値觀を打ち出していているものかな。

BLには「あはれ系」と「をかし系」があることは周知の通󠄁りですが、私は體質的に「をかし系」が合っているので、「あはれ系」のを攝取するとやや體に負擔が掛かります。

「中島敦における哲學と男色について」。

なぜ私が戀愛をしたくないのかというと(單純にモテないのでしたくてもできないというのはさておき)、まずこの世って諸󠄀行無常じゃないですか。ということは戀愛も無常じゃないですか。それに愛、特に性愛・戀愛って執着・愛著・煩惱だし、愛別離苦のもとですよね。愛する人がいるからその人が係累となって、そのせいで苦が生じてしまう。なら最初から戀愛感情󠄁なんか持たなければいいだけのことです(假に戀愛感情󠄁を持ったとしても單純にモテないので意味ないですが)。まあコロナ禍󠄀でなぜか戀愛感情󠄁が無くなって、こういう考え方になりました。

2024-07-05

今日の一曲:Pitbull, Jennifer Lopez, Claudia Leitte『We Are One (Ole Ola)』


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