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哲學とは何か?—哲學の現代的意義 (1)

※ 2024-04-07 暫定的追󠄁記:岩波の『哲学・思想事典』の「定義」(中畑正志執筆)の項目に lexical definition (辭書的定義), stipulative definition (約定的定義) の違󠄂いが載っていました。日頃から事典讀んどくべきですね。


1 「哲學とは何か」とは何か?

哲學とは何か?

しかし、「哲學とは何か」とは何でしょうか? 

「Xとは何か?」という問いは多くの仕方で語られます (πολλαχῶς λέγεται)。たとえば、「學生とは何か?」という修辞的疑問文は「學生たるものそのようであってはならない」という叱責でありえ、「大義とは何か?」という問いは、「そのような大義は正當性を持たない」という否定的主張でありえ、「美とは何か?」という問いは「これよりほかに美しきはなし」という感嘆でありえます。言葉はしばしば多義的に語られるのです。

とはいえ、ここからは、「哲學の定義」という面に絞って、「哲學とは何か?」について考えることにしましょう。というのも、「Xとは何か」という文のもっともありふれた用法は、Xの定義を尋ねるものでしょうからです。Ludwig Wittgenstein の『靑色本』の冒󠄁頭にもあるように、定義は、おおざっぱに、直示的定義と言語的定義に分かれます。直示的定義とは、文字通り、直接對象を指し示すことで意味を示すことです。言語的定義とは、辭書に載った意味のように、言語によって言語の意味を語ることです。

「哲學とは何か」という問いを受けた場合、「ほら、あそこにあるのが哲學だよ」というような、直接指で指し示すことのできる對象は無いのですから、假に定義の仕方が前󠄁段落で述󠄁べた2通りのみであるとするなら、哲學への定義の仕方は言語的定義のみとなりましょう。

そこで、以下では、言語的定義のみを念頭に置いて「定義」という言葉を使うことと致します。

2 定義は二つの語義を持つ:調󠄁査結果と宣言

ここからは私の發見ですが、「Xの(言語的)定義」という語は、少なくとも二つの意味で語られます。そのうちの片方は「調󠄁査結果としての定義」、もう片方は「宣言としての定義」です。調󠄁査結果としての定義とは、世の中で、人々が、或る語を、實際、どのように用いているのかを調󠄁査して、その結果を定義とすることです。記述󠄁的言語學の方法と呼ぶこともできるでしょう。宣言としての定義とは、論文や文章の中で、「今ここから私はこの意味でこの語を使いますよ」と斷って、新たに概念を規定することです。たとえば、「線分 AB を x 軸方向に 2、 y 方向に -3 平行移動した線分を CD と定義する」とか、「 “Hello, world!” を表示する函數を hoge と定義する」とか、「眞夏やお風呂上がりに飲む冷たい飲み物の美味しさを僕は『冷えやか』と呼びたい」などが擧げられるでしょう。

調󠄁査結果としての定義は、言語學者や社會學者に任せればよいのですから、以下では、宣言としての哲學の定義を扱うことにしましょう。

3 哲學者の數だけ哲學の定義がある件について

宣言としての定義とは個々人が勝󠄁手に決めていいものですから、特段、客觀的なデータに基づく主張をする必要は無いことになります。しばしば、「哲學の定義は哲學者と同じだけある」と言いますが、「宣言としての定義」という槪念を手に入れれば、哲學者ごとに哲學の定義が違うからといって矛盾などはないことになります。

とはいえ、「宣言としての定義とは個々人が勝󠄁手に決めてよい」のが事實だとしても、「私の論文では白色を〈黑〉と定義し黑色を〈白〉と定義しています」と「宣言」されては、讀みづらくって困ってしまうでしょう。ですから、學術󠄁論文などでは、特別な理由の無い限り、その業界での慣習󠄁的定義に從うものです。そして、その「慣習󠄁」とは、まさに敎科書や先行硏究の參照という調󠄁査結果として明らかになるものです。また、たとえば日本語の文においても、特別な理由の無い限り、日本語の傳統に從うのが禮儀というものです。そして、まさに言語學的な、共時的・通時的調󠄁査の結果としての定義に從うことこそ、「正しい日本語」を使うことに他なりません。

それでは、「哲學とは何か」という問いも、哲學者のこれまで使ってきた用法を調󠄁査して、その結果に從えばいいのでしょうか? そうではないと思います。なぜなら、本節第1段落でも述󠄁べたように、「哲學の定義は哲學者と同じだけある」からです。もちろん、「槪念史」として、哲學槪念の變遷󠄁を調べることも興味深い硏究でしょう。しかし、そのような硏究だけでは、「哲學とは何か」と問いたくなってしまう 動機 が解決できないように、私は思うのです。それはたとえば、「科學哲學」が一生懸命「科學」という語の用法を調󠄁べて並べてくれたとしても、「科學が 本來 保障すべき 眞理 はどこにあるのか」という魂の叫びが滿たされないのと類比的だと思います。他の人はどうだか知りませんが、私はそう思い、私はそのような魂の叫びを、苦痛を、事實として、日々感じているのです。そして、私は私のために文章を書いているのです。

4 「哲學とは何か」となぜ問うのか?

なぜ人々は「哲學とは何か」と問うのでしょうか? それは間違いなく、「哲學とは何か」を知らないからです。

なぜ「哲學とは何か」がわかりづらいのでしょうか? それは、哲學史の中で、「哲學」の定義が非常に多義的に使われてきたからです。科學史・科學哲學においては非常に有名な話ですが、OED によれば、scientist という英語を philosopher から分離して使うようになった用例の初出は、1834年です。つまり、それまでは、科學も哲學と呼ばれていたのです。Isaac Newton は自然哲學者と呼ばれていたのです。

このことを踏まえれば、一面において、現代人による「哲學とは何か」という問いは「科學と異なる哲學とは何か」という問いである、と言えます。もちろん、「Yとは異なる哲學とは何か」という問い方は他にも色々とあるでしょうが、ここではこの問いに限定しましょう。また、そもそも「科學とは何か」という問いもあり、科學哲學において膨大な硏究の蓄積がありますが、この問題も、當然ながら、本稿では扱えません。加えて、「科學と異なる哲學とは何か」と問う人は、おそらく、「科學とは何か」を或る程󠄁度ご存知のはずですから、「科學とは何か」という問いはここでは不要不急だと思います。

そこで、次に「科學と異なる哲學とは何か」という問いを考察していきましょう。

5 科學と異なる哲學とは何か?(次回)

次回へ續く


2023-12-12
Image by Đức Tình Ngô from Pixabay
今日の一曲: Super Car / BAD HOP, Tiji Jojo, Yellow Pato


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