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interview Alan Kwan:台湾ゴールデンメロディアワード受賞ギタリストが語る香港のジャズ事情

香港出身のギタリストのアラン・クワンが2018年に録音した『Petrichor』はファビアン・アルマザン、リンダ・オー、ジョナサン・ブレイク、デイナ・スティーヴンスというNY屈指のミュージシャンが参加した素晴らしい作品だった。僕はアランのことは桃井裕範さん経由で知ったのだが、香港にこんな素晴らしいギタリストがいるのかと驚いた。ギタリストとしての質の高さだけでなく、作編曲も含めた世界観やムードの作り方に個性があり、いち演奏家を超えたアーティストだなと思っていた。

2022年に彼がInvisible Architectureという名義で新作『Between Now and Never』を発表した。

これがとても面白い作品で、僕はすぐにツイッターで紹介した。

そしたら、それを見たアランから連絡が来た。彼は『Jazz The New Chapter』を知っていて、僕にライナーノーツを書いてほしいとのことだった。

じゃ、せっかくなので、香港のジャズ・シーンのこともよくわからないし、あなたのことももっと知りたいので、とりあえず話をしませんか?ということでインタビューをやることにした。

アラン & 柳樂 at 東池袋 KAKULULU

この記事の一部は『Between Now and Never』のライナーノーツに日本語と英語で掲載されている。

その後、アランは台湾のゴールデン・メロディ・アワードで4部門にノミネートされ、最優秀アルバム・プロデューサーを受賞。このアルバムは成功を収めている。

今後、香港を含め、近隣のアジアの国との繋がりができることを願いつつ、このインタビューを公開します。

取材・執筆・編集:柳樂光隆 通訳:染谷和美

◉香港ジャズの先駆者ユージーン・パオとテッド・ロー

――最初のあなたの先生だったEugene PaoTed Loは香港ジャズにおける重要人物ですよね。彼らがどんな存在なのか聞かせてもらえますか?

そもそもインターナショナルに活動をしている香港人のジャズ・ミュージシャンはその二人しかいなかった。テッドユージンは兄弟みたいな関係で、テッドが兄って感じ。テッドはバークリー音大に留学していた人だからマイク・スターンジョン・スコフィールドとクラスメイトで交流があった。彼の話を聞くのはいつも楽しいんだ。

僕がギターを始めたのは子供のころ。なかなかうまくならなくて、とにかく素晴らしい人たちの演奏をたくさん聴かなきゃってことでいろいろ聴いていたらその二人の音源に出会った。テッドにレッスンしてもらったことって実は2回くらいしかないんだ。実は彼はピアニストだけど、ギターもやるし、ドラムもやる。本人はピアノよりもドラムの方が好きらしい(笑 だから、一緒にジャムる時は僕の後ろでドラムを叩いたりすることもある。ある時にテッドが「ギターだったら僕よりもユージーン・パオに教えてもらったほうがいいんじゃないかな」って言いだしたんだ。それでユージンにお願いしに行ったんだけど、彼はそれまで生徒を取ったことがなかったこともあって、あまりいい返事がもらえなかった。そもそもその頃は僕はただの子供だったからね。ユージーンはまともに取り合わなかったんだと思う。でも、テッドが間に入ってくれたら、「じゃ、演奏した音源を送って」って言ってくれて、テープを送ったら最終的にレッスンをしてくれることになった。でも、そのテープは家のレコーダーで「Blue Bossa」をひたすら何時間も演奏したものだったんだよね。全然大した演奏じゃないんだけど、なぜかOkが出たんだ。

――香港って歴史的に繋がりが強いのはイギリスですよね。でも、テッドもユージーンもアメリカに留学している。ジャズの本場のアメリカに留学していた人は彼ら以外いなかったけど、ジャズが盛んではないイギリスに行っていた人なら過去にもいたって感じですか?

テッドが留学していたのはずっと前で、彼はその後もずっとNYに住んでいた。ロン・カーターのバンドのピアニストだったし、アイアートタニア・マリアなどのトップ・プレイヤーと共演してきた。でも、家族は香港にいたので、彼は香港に戻ってきた。

ユージン・パオはずっと香港にいた人で、実はジャズを学んでいない。ずっとビジネスを学んでいて、ジャズはこっそりやっていた。彼はスペシャルなファミリーの人だからね。それでどんどんうまくなって徐々に注目を集めるようになった。香港は海外からミュージシャンがたくさん来る場所。そこで海外のアーティストが地元のミュージシャンと演奏しようってなったときにまずユージーンに声がかかるようになって、彼が香港のファースト・コールになった。彼はマーティン・テイラーパット・メセニートニーニョ・オルタ渡辺香津美、そういった人たちと演奏を重ねたんだ。日本の渡辺香津美と韓国のジャック・リー、そして、香港のユージーン・パオが共演したアルバムもあったはずだよ。

彼らはUKでは活動していたことはないと思う。きっとUKはUKのミュージシャンだけで成り立っているんだと思う。香港は他から来る人を受けいれるような環境があって、そういう状況の中で彼ら活動していたんだと思う。

◉香港ジャズの歴史と現状

――アランさんは2009年にアメリカに留学する以前には香港の学校で音楽を学んだりしていたんですか?

日本にはジャズの歴史があって、ずっと昔からシーンが充実していたと思う。それに比べたら香港のジャズはまだまだ発展途上。国際的なビジネスの都市で、お金もあるし、キャッシュフロウも大きい。でも、アートって話になると出遅れていて、日本とは比較にならないと思う。特に僕が子供のころだと、音楽を演奏する場所がなかった事情もある。そもそも地価が高いから家賃も高いし、物価も高いから、音楽専門のスペースを作ることがすごく難しくて、ほとんど不可能なんだ。場所がないからプレイヤーも増えていかない。だから、誰がいるかっていうとユージーンやテッドくらいって感じになる。彼らの世代の後、かなり間が空いていて、その後にも優れた人はいたかもしれないけど、あまり知られていない。今、ようやく新しい世代が出てき始めている。それ以前、僕が留学する前は音楽をやるにしても地元の友達くらいしかいないし、巨匠の録音を聴くってことしかできなかった。そういう状況下で、テッドはすごくいろんな話を聞かせてくれるし、どんどん教えてくれたのですごく助けになった。

――けっこう間が空いたのに、最近になって新しい世代が出始めている理由はありますか?

その質問は重要だね。歴史的に香港でジャズと言えばフィリピン人が演奏する音楽だったんだ。この件に関して、僕は映像作家と一緒にドキュメンタリー映画を作ったんだ。これが香港における初めてのジャズ・ドキュメンタリー映画ってことになると思う。遡ると中国では上海を中心にジャズが盛んだったんだけど、実は演奏していたのはフィリピン人で、彼らはものすごく腕が良かった。でも、50年代末、60年代初頭、政治的な理由で上海のフィリピン人ミュージシャンたちが香港へと拠点を移すことを余儀なくされた。そして、彼らが香港で活動したことで香港のジャズがようやく始まった。だから、香港のジャズは歴史が浅くて、日本とは全く状況が違うんだ。フィリピン人のミュージシャンが入ってきて、通りにいくつものジャズが聴ける店が並ぶようになったんだけど、そこで演奏していたのは全員がフィリピン人で、ほんのわずかの中国人がいたくらいだった。ただし、やっている音楽はジャズって言うよりはダンスミュージック。彼らは生活のためにダンスバンドをやっていたんだよね。60年代って言ったらアメリカを見れば、マイルス・デイヴィスがセカンド・クインテットになったりする時代なんだけど、香港ではそういったアメリカの状況とはかけ離れたジャズが演奏されていた。

そんな状況が長年続いていた中で、テッド・ローユージーン・パオが現れた。それによって香港人たちが「自分たちにもジャズが演奏できるんだ!」って意識が変わっていったんだよね。当時の香港では演奏している人がいないだけじゃなくて、ジャズって音楽をまともに認識していた人もほとんどいないような状況だったんだけど、そこにジャズを演奏できる人が現れて、しかも、バークリー音大に留学できるような人が出てきた。それは若い世代に注目されたし、勇気づけもした。ただ、香港でジャズをやって稼げるようになるかっていうとそれはまた別の話。そんな中でも多少は稼げるくらいになったミュージシャンは日本に行ったりもして、日本のジャズ・シーンを見て、やっぱりジャズはすごいな、かっこいいなって思ったりしていた。僕もその一人だよね。かっこいいし、もっとやりたいってなって、まずやりたいって思うのはフュージョン。僕もフュージョンから初めて本格的なジャズにどんどん入っていった。僕みたいにジャズに行きたいって思ったらどんどん行けるような環境が生まれたのは香港人にとってはすごく大きな変化。僕とか、僕より下の世代くらいから少しづつジャズの環境が充実してきて。ついには香港でジャズ・フェスも開催されるようになった。とはいえ、まだまだ規模は小さいんだけどね。

――アランの世代って何歳くらい?

僕が33歳(2022年時点)で、今出てきているのは30歳以下。15年前くらいに僕が18歳とかの頃にはジャズをやっている若いプレイヤーはほとんどいなかった。僕は本気でやりたいからクラブとかに行ってギグをやりたかったんだけど、一緒に演奏してくれる人がいなかった。たぶんいたとしても香港全体でも10人くらい。それがこの15年で100人規模になった。日本のシーンに比べたらまただまだ小さいんだけど、香港にとってはすごい規模なんだ。もちろんその中でどのくらいの人がシリアスにジャズを追求するのかはまだ分からないんだけどね。そんな状態だったから、身近に教えてくれる人もいないし、一緒に演奏する人さえいなかったんだ。

――レベルの高いプレイヤーがいたら名前を教えてください。

活動している人はすごく少ない。そこで名前をあげるならWilson LamTeriver Cheung。ウィルソンはユージーンと僕の間に唯一いた人ってことになると思う。

ウィルソン・ラムはバークリーに留学していた経験もある人で、若かった僕にいろんなことを教えてくれた。でも、ジャズだけじゃ稼げないので、どちらかというとポップスの仕事が中心だね。

テリヴァーはノーステキサス大学に留学した初めての香港人なんだ。彼が最初で僕が2人目。三人目はまだいないね(笑)やっぱりみんなバークリー音大ってなるから、僕が留学先を選ぶ際もノーステキサス音大って名前には「なんで?」って感じだったんだけど、話を聞いてみるとバークリーみたいに優れた大学だけど、州立だから学費ははるかに安かった。調べてみたら素晴らしいことがわかったし、テッド・ローも勧めてくれた。あと、奨学金が充実していたのも決めた理由で、州立の大学だけあって、色んな奨学金があったんだ。

――香港でのセッションってどんなところでやるんですか?

日本だと新宿ピットイン高田馬場イントロみたいな場所があるでしょ?僕は何度も行ったことがある。あれってアメリカの正統派の伝統で、アメリカの環境がそのまま日本にもある感じだよね。香港にも昔はそういう場所があったらしいんだけど、今は存在しない。若手のミュージシャンが増えてるって話をしたんだけど、ちゃんとした場所でセッションを企画すると30人くらいが来てしまうから大掛かりになってしまって、そのための場所を逐一用意しなきゃいけなくなる。だから、東京のイントロやNYのスモールズみたいにわざわざ人を集めるんじゃなくて、そこに行けばいつでもセッションをやっていて、演奏に加われるような環境があるのはうらやましいなって思うよ。

◉ノーステキサス大学への留学

――では、次はノーステキサス大学に行った時の話を聞かせてもらえますか?

人生が変わる体験だった。香港人でよかったのは英語が話せて、語学が要らなかったこと。でも、日本みたいに若いころから音楽を学んで、ジャズに親しんでいたような学生たちを見て、うらやましくも思ったよ。ノーステキサスだと試験が5回あって理論や実技があるんだけど僕は全てを一発でパスしたんだ。それは上位5%くらいらしい。それができたのはアジア人的要素だったかもって思う。香港にいたから実践はできなかったけど、テキストブックをしっかり読んで、かなり練習していたから準備はできていたんだ。ただ、パフォーマンスってことになると、それとはまた別の問題。アメリカ人にはロジックはわからなくても、数学ができなくても、演奏はすごくできちゃう人がいるから。だから理論と実践のコンビネーションを問われたなって思う。ブルース・リーじゃないけど、理論があって、実践があって、その次に応用があるってことかな。それを自分のものにするのが大学の時間だったのかなって思う。

――なるほど。

ノーステキサスにはすごく素敵な先生がいた。その中でもギタリストのフレッド・ハミルトンと、ピアニストのステファン・カールソンが印象に残ってる。

ステファン・カールソンは20代の頃にエディ・ゴメスのトリオのメンバーだったことでも知られているピアニスト。即興のクラスがあって、1から4まであるんだけど、1は飛ばして2から入ったらAじゃなくてBだった。それは宿題をやっていかなかったから。でも、ステファンのクラスに行ったら宿題をやっていなくてもAで、彼は実際に弾ければいいんだよって考え方の先生。だから、さぼる生徒が多いクラスではあったんだけどね(笑)とはいえ、僕は宿題はやるし、課題もこなすし、真面目な生徒で、授業を受ければ新しいことは学べるし、言われたことをやっていれば腕も上がると感じていた。でも、ある時に来ていない人の腕も上がっていることに気づいたんだ。これは指導に従うのか、自分の心に従うのか、その分かれ道だなって思った。ノーステキサスの先生の半分は真面目にやれって感じで、残りの半分の先生は好きにやれって感じだった。半分は理屈じゃなくて、パフォーマンスできるかどうかだからって先生だってこと。僕はどっちをやるべきかなと考えた時に、僕はアメリカに来る前にそれなりに努力もしたし、時間もお金も費やしてきたわけで、ここでさらに成長させるためにはAを取ることじゃないなって思ったんだよね。それでクラスの悪いやつら(笑)に話を聞いたら、自分で学ぶ方法もあるよって教えてくれた。だから、自分にとって必要かどうかを見極める必要があるなって思って、必要性を感じない授業に関しては先生に直接出たくない旨を伝えてみたんだ。理解してくれる先生がかなり多くて、中には「出なくていいから結果だけは見せろ」って言ってくれた。そういう自由さがある学校だったのは良かったよ。

フレッド・ハミルトンはギターのプロフェッサーなんだけど、好きにやりなさい側。好きにやってもいいけど、学んでるコースは完了させなさいよってね。そもそもひとりひとりが違うわけで、ビバップ派もコンテンポラリー派もいるわけで、それぞれが自分のために何が役に立つかということを見極めていくことと、とにかく演奏するってことが重んじられた学校だったのは僕には合っていたと思う。

――どう学ぶかも自分で考えて選び取らなきゃいけないと。

今、振り返って人生を変えるような出会いって言うとギタリストのリチャード・マクルーア。僕らは大学の一年目は指導してくれる先生は4人いて、その中の2人は大学院生。その中にフレッド・ハミルトンの名前もあって、僕は幸運にも一年目からフレッドに教えてもらうことができた。フレッドで満足してたんだけど、香港のテッド・ローが「リチャードに教われ」って何度も何度も勧めてくれたんだ。だから、個人レッスンをお願いしたんだ。彼のレッスンを2年間続けさせてもらったら、すごく成長することができた。彼の教えはルールに縛られずにどんどん破ってもいいってこと。自分なりの個性やアティテュードを持たないとダメだって、だからテキストを見るんじゃなくて、一緒に演奏している僕の方を見ながら演奏しろってよく言われてて、それで自分の考え方は変わったと思う。

◉クイーンズ・カレッジ大学院とNYでの活動

――その後はクイーンズ・カレッジの大学院に行ったんですよね。そこではどんなことを?

全然違う体験。テキサスでは先生はプロフェッサー。ノーステキサスには学生が沢山いて、みんなジャズを学んでいて、わいわい楽しくやっていた。NYではジョナサン・クライスバーグが僕の次に出てきて演奏する、別の日はマイク・モレーノが僕の次に演奏するみたいな状況だったので、これはマジだなって感じ。しかも、そこで生計も立てていけないけなないわけで、自分が腕を上げるだけじゃなくて、どういう人たちと一緒にやるのが最善なのかも含めて、考える必要があった。

学校に関して言えば、ここで学ぶだけじゃなくて、どんどん外に出ていってセッションをしてきなさいって感じだった。先生も現役のプレイヤーだから、自分のギグやツアーと授業が重ならないようにって感じで、一日で一気にまとめて授業をやったり、そんな組まれ方をされたこともあったよ(笑) だから、プレイヤーであり先生でり友人でありみたいな感じだよね。ポール・ボーレンバックはNY中で活躍している忙しいギタリストで、教わるっていうよりは、彼のギグにどんどん引っ張り出された。時には代役で演奏させられたこともあって、「電車が遅れてるから、最初のセットの半分くらいは任せた」って(笑) そんな形で生の現場に放り出された。そこで色んなミュージシャンとも知り合うことができた。そうやって自分が出ていける場所が増えていった。

もうひとつはアレンジの先生だったマイケル・モスマン。彼にはノーステキサスでも教わったこともあった。エスタブリッシュされた生徒もいたけど、アレンジに関してはきちんと学んでいない人も少なくなくて、「ディミニッシュって何?」みたいな人もいる環境で授業が進んでいたので、僕としてはこれは7年くらい前にやったことだなって思って、先生に自分が書いたビッグバンドの譜面を持って行って「僕はここで3時間とかの授業を受けてもあまり意味がないかも」って伝えたんだ。そしたら、君はノーステキサスから来た人か、だったらそうだよねって理解してくれて、宿題はやらなきゃいけないけど、授業には出なくてもOKって感じで、フレキシブルな対応をしてもらうことができた。

デイブ・バークマンも素晴らしい先生で、ロジカルに説明をしてくれてなんでも詳しい人。専門分野に関してはとにかく詳しくて、生徒にもそれを要求していて、なんでも詳しくある必要はないけど、自分の専門に関しては詳しくなるべきだってこと。その考えにはすごく触発されたよね。

――学外での演奏はどういう場所でやってたの?

毎月やっていたのはBar Next Door。ブルーノートの並びにあった。
他にはSphyrnaとかShrineとか。その辺はNYに行って間もなくのころによく演奏していた場所。夕方の6時から夜中の2時までずっとライブやってるから、出る機会が多かった。ちなみにジャズはあまり人が来ないから最初にやらされるんだ(笑) その後、ファンクやR&Bに移っていくって感じ。リンダ・オーともそこで会ったよ。あとは、Pianoって箱。あとは、Jazz Galleryとも親しくさせてもらった。良くいったのはそこのコミュニティの人たちがやってるようなところかな。

◉アラン・クワンの影響源

――これまでどんなギタリストを特に研究してきましたか?

若い頃はマイク・モレーノラーゲ・ルンドカート・ローゼンウィンケルはオールタイム。もちろんパット・メセニーも。ジョー・パスウェス・モンゴメリータル・ファーロウバーニー・ケッセルもよく聴いた。バーニー・ケッセルは僕にとって特別だね。その辺をずっと聴いてきて、学ぶって意味ではトラディショナルなところが好きで、研究もしてきた。だから、名作から学んできているんだけど、それをモダンな形でプレゼンテーションしているつもり。ランゲージやルーツは過去のものから学んで、それを自分なりのやり方で現代的にやってるつもり。

――作曲家だとどういう人を研究してきたんですか?

ウェイン・ショーターハービー・ハンコック。彼らはイノヴェイティブだった。

そして、カート・ローゼンウィンケル。彼らは素晴らしい演奏家だけど、コンポーザーとしても素晴らしい。カートだったら「Brooklyn Sometime」。僕が最初に買ったカートのアルバム『Deep Song』に入っていた曲だね。ブラッド・メルドーがイントロのところでコードを付けていくんだけど、あれを聴いたときに「こういうのは聴いたことがない、これが現代のジャズなのかな」って思った。そこにアリ・ジャクソンのドラムが入ってくるのもかっこいいんだけど、その上での演奏もビバップをそのままやるんじゃなくて、様々なアイデアが入り込んでいて、しかも、その上で歌うように演奏していた。今までの典型的なビバップの感じではないサウンドを聴いて、僕のマインドは一気に変わってしまった。決して複雑なことをやってない部分でさえも「これは何をやってるんだ?なんでこんなにいいと感じるんだろう?」って思っていたんだけど、きっとそれこそがコンポースってことなんだろうなとわかった。構成や構造。ソロを繋いでいくのではなくて、これで成り立つ曲っていうのが現代のジャズなんだなってことに気づかせてくれたのがカートの曲だったんだ。

◉デビューアルバム『Petrichor』

――あなたの最初のアルバム『Petrichor』について聞かせてください。

このアルバムは僕の30歳の誕生日に行ったセッション。スタジオを抑えるのにもお金がかかるから6時間しか取れなくて、その中で何曲できるかなって感じだった。その時に、「あと1曲くらいいけるかな」って気持ちで書いたのがタイトル曲の「Petrichor」。その頃、NYはずっと雨で、1週間くらい振り続いていた。香港に帰る直前で、もう仕事はあまり入れずに友達との時間を過ごそうって思っていたから時間だけはあった。とりあえず前半部だけ書いたのをメンバーに見せたら「短いね」って言われて。それで書き足したんだ。それを友人に聴かせたら「すごくいいね」って言ってくれて、曲名も提案してくれた。それがペトリコール。長く雨が降らなかった後、久々に雨が降った時に土から立ち上る香りのことだって教えてくれた。それはこの曲にぴったりだなって思った。長くアメリカにいた自分が今、環境を変えようとしている状況に合うなって。

このアルバムはすべてオリジナル曲。ファーストアルバムだから、そこに至るまでの一年くらいの間に自分がやってきたことをすべて出そうと思った。日記というか、レポートというかね。曲を全部仕上げてから、その後に全部見直しながら、一冊の本を仕上げていくような感じ。本の章ごとに曲を当てはめていくようなアルバムにしたつもり。「Montauk」って曲は最初はもっとテンポが早かったんだけど、アルバムのコンセプトに合わせて、ゆっくりにした。1曲目「Voyage」はノーステキサスにいたころに書いた曲で、ハミルトン先生に人の曲ばっかりやってないで自分の曲を書きなさいって言われたのをきっかけに書いた思い出の曲。今から30年後くらいに聞いたら「これがあの頃の僕なんだな」って振り返れるアルバムだと思う。

――軽やかで透明感があって、ギタリストなのにあまり弾いてなくて、ムードやスペースみたいなものをすごく大事にしたアルバムなのかなと思いました。

ギタリストはオーバープレイしがちなんだよね。音数が多すぎたりね。アルバムもギターが中心になりがち。でも、僕はそうしたくなかった。その辺、カートはバランスの見極めに優れていて、ギターもすごいんだけど、その上で音楽性の高い作品を作ることができる。僕がやりたかったのもそこ。ギタリストに感心してもらえる、ギターにフォーカスして聴くアルバムじゃなくて、アルバム全体を楽しんでもらえるようにしたかったから。

◉Invisible Archtecture『Between Now and Never』のこと

――では、次はInvisible Archtecture『Between Now and Never』。Invisible Archtectureはバンドってことですか?

そうだね、バンド名。僕らはノーステキサスのクラスメイト。ドラムのMatt Youngは学生自体から大学で一番うまいドラマーって感じで、僕とはアーロン・パークス『Invisible Cinema』を演奏するプロジェクトを一緒にやっていたこともある。実は僕はアーロンを香港に呼んだこともあるんだよ。実はInvisible Archtectureの前には林正樹とのデュオ・アルバムも企画していたんだけど、パンデミックで一旦止まってしまっていた。それもあって、順番を入れ替えて、先にInvisible Archtectureを進めることにした。とはいえ、こっちも一緒にスタジオに入ることはできないから、エレクトロニクスを使ったり、アンビエント的な要素を入れたりすることにしたんだ。マットもそれに関心をも持ってくれたから、そこにシンセが得意なJordan Gheenを誘った。ベースはクラスメイトだったMike Luzeckyにお願いした。最後にサックスが欲しいなってことになって、Dayna Stephensを呼んだ。レコーディングからミキシング、マスタリングまで、2週間で一気にやったんだよね。

――アルバムの感じからするとアンビエントとか、エレクトロニカとか、好きなのかなと思いましたが。

エレクトロニック・ミュージックで特に好きなのは坂本龍一。彼の映画音楽はたくさん聴いてきた。「in The red」(2009年の『out of noise』収録)はテキサスでドライブしているときに繰り返し、繰り返し聴いていた。でも、坂本龍一に関しては最近の作品がクールだなって思う。クラシックスの「戦場のメリークリスマス」はメロディアスで、すごく好きなんだけど、今、彼はどんどん新しいことにチャレンジしている。彼の知名度があるから広く耳を傾けてもらえるような実験的なアンビエントを作ったり、マーケットにこだわらずに好きなことをやっている。僕は彼のそこが好きなんだ。あんなに商業的に成功しているのに、アーティストであり続ける姿勢は全く変わらない。その両方を成し遂げるのはどんなジャンルにおいてもすごく難しいことだと思うから。

あと、僕は坂本龍一に限らず映画音楽からはかなり影響を受けていると思う。映画音楽ってかなりミニマムな要素がある。台詞があるわけだから、それと共存するような音楽になっているのもその理由だよね。(トレント・レズナー&アティカス・ロスが手掛けた)『Gone Girl』のサントラが素晴らしくて、よく聴いたよ。

制作のインスピレーションってことだと林正樹のソロピアノ『Lull』はニューエイジやアンビエントっぽい部分があって、そこが気に入っている。メロディックで、そこにエレクトロニクスも入ってくる感じがいいよね。

他にはKneebodyはエレクトロニックではないけど、コンセプト的には近いと思う。あとは、The Bad Plusのメンバーがやっていることとか、UKのThree Trapped Tigers、Jordan GheenがやっているSkywindowとか、その辺りは僕がやりたかったことに通じるものだと思う。でも、みんなギターを入れていないんだよね。ギターはエフェクターとかを使えば色んなことができるはずなんだけど、エレクトロニックなことをやる人はギターを雇わない。だったら自分でやろうかなっていうのもあったね。

でも、『Between Now and Never』の「Gateway」「Threshold」ではギターは使っていない。ギターを入れるとどうしても違和感があって、ギターが入ると全体の音が変わってしまうからアンビエントにギターを入れるのはすごく難しかったんだ。ジョーダンが、香港のストリートで録音した街の音にリバーブをかけたりして、それをミックスして、エディットして、ループさせて、そこにシンセを重ねたりして作ってる。こういうサウンドでのギターに関してはこれからいろいろチャレンジしていかなきゃいけないと思ってるよ。

――けっこうギターを弾いている曲だと「Pulse」ですかね。

最初はドラムのマットが考えてくれたシンプルなドラムパターンをループさせるところから始まった。そこにミニマルなギターサウンドを重ねようと思っていた。ドラムがミニマルなループで、前半に入れた僕のギターもほとんどよく聴こえないようなすごく控えめなものだった。でも、もう少し何かやりたくなって、ドラムをコピーして重ねたりしたものをマットに聴かせたら、「これはライブでは無理だよね」って言われちゃったんだけど、そのままループは残すことにして、それをキーボードのジョーダンに聴かせたら、「ここにもっとクレイジーなメロディーを重ねちゃう?」みたいに言いだして、最終的に出来たものは最初に考えていたものとは全く別のものになっていった。だったらギターも入れようかなって思って、同じフレーズを繰り返すのは大変なんだけど、頑張ってダブルで重ねて、そこにシンセをミックスした。クールなものができたと思ってる。ああいうクールで、ロング・メロディーで、ギターとシンセの両方をやっているようなものはこれからも作っていけたらと思ってる。特に前半はソロがほとんどなくて、ソロがあるのは2,3曲。僕らはアルバムの中で技術をアピールする必要はないと思っていて、それだったらライブに来てくれたら思いっきり弾くからって思うから。このレコードではグルーヴが気持ち良くて、美しいものを作りたかったんだ。

――「Lilac」のアコースティックの質感やサウンドの配置もすごく面白いですよね。

これはマットの手柄。マットのデモが核になっている。最初にマットが送ってきたものはギターもサックスも入ってなくて、ドラムもなかった。それをどうすればいいのかマット自身もわかってなかった。ただ、メロディーのパートが必要だってことはみんながわかっていた。それでメロディを書いたんだけど、そのメロディーがはっきり聴こえる状態に仕上げたかったから、メロディとかち合ってしまうような周波数は避けて、その上か下でギターを鳴らしたりしている。バスクラリネットに低音の深い部分を吹いてもらったら、ベーシストが弾かなくてよくなったりして、最終的にはアコースティックなサウンドに仕上がって、チルな感じのバラードが生まれた。「田舎の小さな町に小川が流れてる穏やかな風景」みたいなヴァイブスだね。もともとそんなイメージでマットが送ってきたので、ギターを入れるんだったら、アコースティックかなってはっきり見えたから、カントリーの雰囲気をだしたんだよね。

◉アラン・クワン 2023 来日公演

http://el-choclo.com/contents/?p=10834
https://reserva.be/boncourage/reserve?mode=service_staff&search_evt_no=3eeJwzNjY3MTMCAARNATo

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