9/30 雑感 コンポーズされたものの中からはみ出てしまう個、個が躍動するコンポーズ

コンポーズされたものの中からはみ出てしまう個、収まり切れない個、それが楽曲を豊かにすることに耳が行く。個が躍動するコンポーズ。クリシェ的な自由というか、お決まりのフリーを耳にしてもあまり何も感じない。というより、クールじゃないと僕の心が言う。制度の中で制度に従っていても尚抜きんでてしまう個を楽しんでいるんだと思う。さらに言えば、それこそが最もスリリングだとさえ思う。

今、思えば、だからこそ、僕はあの本の一冊目で、スティーブ・コールマン=M-Baseなんだって話を書いたと思うし、三冊目でラージアンサンブル特集なんてものをやったんだろうなと思う。個に乗り越えられることを想定して作り込まれた統制、同時に制度ゆえのクリエイティビティーを楽しむ個。

状況に合った新しい制度や新しい統制が生まれることを楽しんでいるってのももちろんあるけど、制度や統制に従っているただそれだけで、見えなくなってしまう個なんて、それだけのことだって思っているのはあるかもしれない。まぁ、というよりは僕の心がクールじゃないと反応するってだけなんだろうが。

それに制度を自分たちで作り上げたり、自分たちで書き換えていくことは実に刺激的だ。ただ、なかなか理解されづらいのも事実。スティーブ・コールマンが成し遂げたことが理解できるまでに20年もかかったことを考えると。「Sine Die」の発売から30年近い年月が流れている。しかも、僕が彼の功績を理解したのは、彼の門下生を成果を通じてだ。

統制された中で、これ見よがしに見せ場を用意されたりしないところから個を聞きとる、見抜くというのは聴く側に要求されるものもあるのだろう。僕は自分の仕事の意味をそこに置いているつもりではいる。

ちなみに、わかりやすく自由/変態感出すというか、アウトしたりノイズだしたりする自由/変態クリシェがここ数年、ピンと来ない。「はい、今、壊れたよ」ってされると、悪ふざけを見るような気持ちになって興ざめしてしまう。何故だからはわからない。その理由はずっと考えている。

ただ一つ言える気がするのは、そういうものは制度や統制、もしくは社会に対するオルタナティブでもカウンターでもなくなってしまったってことだろう。ハードコアでもない。ただ、そういうものとして存在しているだけ、になってしまって、その行為自体が意味を持てなくなってしまったのは確かだろう。もちろん、意味なんて何もないのさってスタンスは全然ありだけど、様式だけ残った「元オルタナティブ」「元カウンター」「元ハードコア」の寂しさみたいなものを僕は感じているのかもしれない。

もちろんモダンジャズのようにビバップが最終的に辿り着いた地点としてのブラッド・メルドー/カート・ローゼンウィンケル/マーク・ターナーみたいな様式を何らかの形で継承しながら、乗り越えていくものなら話は別だが。

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