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『Jazz The New Chapter』:発売から10年に寄せて + 2014年版「はじめに」(7,400字)


◉『Jazz The New Chapter』発売から10年に寄せて

『Jazz The New Chapter』という本を出したのは2014年2月14日だった。

今でも覚えているのはちょうど発売する前日にタワーレコード渋谷店の一階を使って黒田卓也『Rising Son』の無料リリースイベントが行われていて、ホセ・ジェイムズがゲストで歌っていた。たぶんドラムはネイト・スミス、ベースはソロモン・ドーシー、鍵盤はクリス・バワーズだったのではなかろうか。そこで黒田さんの新作と共に発売日前日の『Jazz The New Chapter』を売ってもらった。

目の前で「なんだ、これ。すげー面白そうじゃん」みたいな感じで手に取ってくれた人たちが次々とレジに持って行ってくれた光景は今でも記憶に残っている。ホセも黒田さんも喜んでくれた。

Takuya Kuroda × Jazz The New Chapter

これはまだ僕以外の誰もあの本が売れると思っていない時の話。なぜなら『Jazz The New Chapter』はいきなり売れたわけではなかった。タワーレコードやHMV、ディスクユニオンなどのレコードショップがものすごく力を入れて売ってくれたことで、徐々にセールスを伸ばして、最終的にヒットした。新しいジャズをもっと売りたいと思っていたバイヤーさんたちの熱意とサポートがあった。

Tower records

僕がこの本でやった功績みたいな話をいろんな人がしてくれている。ジャズのことが広まったり、関心を持ってくれる人が増えたり、国内盤でのリリースや来日を促したり、みたいなことはあったのかもしれないけど、間接的なものなので実感はあまり無い。ジャズ以外のアーティストで読んでくれた人もいたんだろうけど、そこに影響があったかどうかなんて僕には見当はつかない。

実感があるとすれば、音楽評論/音楽メディアには少なからず影響を与えたこと、だ。

そもそも僕がやったことは「評論/メディア内でのライターによる椅子取りゲーム=すでに並べてある椅子を使ってやるもの」ではないと思っている。既存のゲームのすぐ隣にも椅子を並べて、もうひとつの輪を作って、別のゲームを立ち上げたことにあったはず。『Jazz The New Chapter』は誰かの席を奪いに行ったものではなくて、新しい席を作るものだったと思う。

そもそも『Jazz The New Chapter』では当初、原稿を書いてくれる人を探すだけで大変だった。2010年代初頭に「アメリカのジャズの新譜をチェックしていて」「他のジャンルの動向も多少追っていて」そのうえで「文章も書ける」人を探すのはかなり困難なことだったからだ。はっきり言って既存のライターの中にはいなかったし、そもそも「アメリカのジャズについて書きたい人」は全然見つからなかった。あの頃は雑誌の年間ベストを見ていても、アメリカのジャズの新譜を入れている人はほとんどいなかった。でも、2014年以降はジャズを見つけてきて推すライターやメディアが出てきているし、そういったジャズについて書きたいライターも出てきている。

共に『Jazz The New Chapter』を作った編集者の小熊俊哉はロックを専門にしていたので当初はジャズのことは何も知らなかった。でも、一緒にジャズの本を作りながら、その後はmikiki、今はRolling Stone Japanでジャズの記事を作っていくうちに、彼はジャズを最もうまく扱える編集者になった。というか、僕の近年の記事の多くは小熊との共同作業だ。『Jazz The New Chapter』を作っていなかったら、小熊のような編集者もいなかった。小熊がいなかったら、間違いなくその後の日本のジャズ評論は今のような状況にはなっていないだろう。

『Jazz The New Chapter』は既存のジャズメディアによる「ジャズについてのテキストの書き方」「ジャズの文脈への当てはめ方」とは異なっていた。ジャズに関するテキストの書き方のひな形みたいなものを示したことで、ジャズについて書くことへのハードルを一気に引き下げて、音楽メディアに貢献したのはかなりある自覚がある。他ジャンルとジャズとの関わりにしっかり目を向けながらも、20世紀のジャズ史を無視するわけでも軽視するわけでもない姿勢は珍しかったと思う。それは確実にメディア側のジャズへの認識も変えていったと思っている。

少なくとも2014年以前以後で音楽誌におけるジャズの扱い方・語り方は変わったはずだ。ロッキングオンやローリングストーンが年間ベスト号にジャズの総括を載せていても、誰も驚かない。

(1992年以来、一度もジャズ特集をやらなかった)Brutusみたいな雑誌がジャズ特集を二年連続で作っても、文學界が二度のジャズ特集を作っても、特に驚かなくなった。その程度にはメディアの中ではジャズは存在感を示せているということだろう。

10年経つと時代は大きく変わるんだなと実感している。

今ではロバート・グラスパーはグラミー賞の常連で、巨匠の域にある。そして、彼がやっていたことはもはや基本技術のようになってしまった。2014年に取り上げていたようなものはすべてが特殊なものではなく前提になっていて、そのうえでその後の世代が新たな表現を模索している。彼の音楽を起点に考えると見えてくることも多いが、もはや基本中の基本過ぎるがゆえに彼の存在が見えなくなっているようなところもある。僕はロバート・グラスパーがやっていること、クリス・デイヴがやっていること、デリック・ホッジがやっていること、ケイシー・ベンジャミンがやっていることは歴史的なことだと思っていた。とはいえ、たった10年でここまで浸透するとは思わなかった。

例えば、今でこそ管楽器にエフェクトをかけるのはジャズの世界でも当たり前だが、2014年の時点では広く使われる手法ではなかった。作品での多重録音はあってもライブの場でエフェクターを駆使していて、それが成功しているケースはかなり少なかったと思う。その意味では『Double Booked』や『Black Radio』で(リヴィング・カラーのギタリストのヴァーノン・リードの影響で)ギター用の機材を駆使して、サックスにエフェクトをかけることを定着させたケイシー・ベンジャミンの功績は今こそ語られるべきかもしれないと思う。ケイシーはジャズ・サックス史においての特異点のひとつと言っていいだろう。

グラミー受賞後、とんでもなく大きな存在になっているジョン・バティステがハイブリッドなベクトルに変わり始めて、ステイヒューマン名義でR&Bにも接近したアルバム『Social Music』をリリースした時にも明らかにロバート・グラスパー以降の感覚があったのももはや遠い昔のように思えてくる。新たな手法が徐々に広まり、世界中で定着していく光景をこの目で見ることができた僕らは幸運だったなとも思う。

また、2010年代末ごろからハイブリッドさを際立たせたようなものではなく、「どこからどう見てもジャズ」みたいなサウンドが面白く聴こえるようになってきた。そして、そういうものが確実にシーンでも評価されるようになってきた。サマラ・ジョイはその代表格だし、イマニュエル・ウィルキンスやジョエル・ロスもその枠組みで考えることができるだろう。それに2014年ごろの僕はフリージャズ的な表現にそんなに魅力を感じていなかった。でも、今はフリージャズ的な表現が取り入れられた作品をすごく楽しんで聴いている。それはいきなり出てきたものではなく、シーンが変わっていくなかで徐々に目立ってきた傾向だ。だから、この10年、僕が書いてきたもの、取材してきたものも徐々にそんな流れに寄り添うように変わってきている。実際に『Jazz The New Chapter』の最初のころのヴィジョンとは異なるような原稿を書くようになってきている。

おそらくここからの10年でジャズは更に変化するはずだし、そうなれば僕の文章もインタビューもどんどん変わっていくはず。その10年後の最初の成果をそのうち見せられるといいと思っています。

2023年から音大での講師業も始めたので、これからジャズミュージシャンになる人たちに関わるようにもなった。自分がこの10年で積み上げてきたものは教育の場で次の世代の人たちに還元されていけばいいかなとも思っています。

読者の皆様のこの10年のサポートには心から感謝しています。ジャズのような音楽の評論を突き詰めることができたのは、僕の記事を読んで、サポートしてくださる読者のみなさんのおかげです。

ここからの10年も引き続き、サポートよろしくお願いします。

柳樂光隆(Jazz The New Chapter)

with Robert Glasper

◉『Jazz The New Chapter』の書評

◉『Jazz The New Chapter』(2014/02/14)
 《INTRODUCTION はじめに》

以下、2014年に発売した『Jazz The New Chapter』の1冊目の前書きをシェアします。10年前はこんなことを考えて文章を書いていました。今となっては隔世の感がありますね。

僕がジャズを聴き始めた90年代、ジャズはヒップホップのサブ・ジャンルだった。

ア・トライブ・コールド・クエストがサンプリングして、ロン・カーターやナズがいて、そこから辿ってハービー・ハンコックに出会った。同時にクラブ・ミュージックのサブ・ジャンルでもあった。ジャズで踊るムーヴメントやレア・グルーヴの延長上にある"踊るための音楽"としてジャズがあって。ファラオ・サンダースやサヒブ・シハブこそが当時の僕にとって身近なジャズだった。音響系の祖としてのテオ・マセロもいて、スクエアプッシャーに影響を与えたジャコ・パストリアスもいた。テクノもドラムンベースも全てもともとジャズにある。僕の世代にとって、ジャズとはそんな音楽だったのだ。

それから僕は、あちこちに寄り道をしながら、同時代の音楽のルーツとして古いジャズを掘りつつ、現在進行形の新しいジャズも聴いてみたくなった。ありとあらゆる雑誌を読み漁り、ディスク・ガイドにもいろいろと手を出してみた。そこで気づくのが、ジャズについての本の多くは、スウィング・ジャズやチャーリー・パーカーのようなビバップから始まり、時代が今に近づくほど書き手の熱量が薄れていくことだ。80年代以降については、歴史を"一応"押さえておくために書かれたものばかりで、同時代のジャズを知るための手掛かりとしては、さほど役に立たなかった。特にウイントン・マルサリスの登場以後の歴史は、どこか諦めのようなものさえ漂う力ない口調と、白旗をあげたような沈黙が続いていたように思う。つまりこの20年、ジャズの歴史は記されてこなかったのにほとんど等しくて、それは極端な話、ウイントン以後にジャズの歴史はなかったということにもなるのかもしれない。

マイゼル・ブラザーズが再評価されようが、デヴィッド・アクセルロッドの重要性が改めて語られようが、ジャズの歴史として追加されることもない。これは90年代の話だが、実は今日の話でもある。ジャズ評論家の言葉の大半は、新たに出てきたジャズを聴く耳にではなく、ただ自分自身と狭い身内にのみ向けられている。それが僕の見てきた現状だ。その中でも例外はあった。スタジオ・ボイスやGROOVEといった雑誌は、ジャズを扱う規模こそ小さなレビューや年に一度の特集程度だったが(もちろんジャズの専門誌ではないからだ)、そこには僕が心の底から求める情報が載っていた。ジャズがテクノやヒップホップ、ポスト・ロックや音響系と交じり合う様、当時リアルに起こっていたことが非ジャズ評論家の手によって記されているのを、僕は貪るように読んだ。そこで特に好きだったのが原雅明さんの文章だ。ヒップホップやエレクトロニカ、ポスト・ロックなどを中心に執筆していた原さんが、2005年にスタジオ・ボイスで書いた『JAZZ NOT JAZZ』という記事には深く頷いたし、そのときの感動は今でも鮮明に覚えている。後に原さんは、同記事も収録した著書『音楽から解き放たれるために21世紀のサウンド・リサイクル』を発表する。タイトルからしてジャズの本ではないが、僕がこれまでに最もリアリティを感じながら読んだジャズの本だ。この本の存在は、僕がジャズ評論家として文章を書くうえでも大きな原動力になっている。

2012年、ロバート・グラスパーが「Black Radio」を発表した。大きく話題になっただけあり、音楽的なクオリティは申し分ない。歴史的な一枚だと思う。でも、それは何かの決定版や完成形というよりも、彼の世代のジャズ・ミュージシャンによる一つの宣言みたいなものに感じられた。彼らの周りのミュージシャンに取材をしたり、インタビューでの発言を読むたびに、「BlackRadio」が新しい時代が始まる契機なのだという考えは深まっていく。そこでロバート・グラスパーを中心に据えてみると、今まで見えてこなかったジャズの、そしてアメリカの音楽シーン全体の見取り図が見えてきたのだ。

そんな時、ロックを専門に扱う音楽雑誌のクロスビート(2013年秋に休刊)から、「ジャズ・リスナー以外にも、いま起こっていることを伝えてみませんか?」と声をかけられ、グラスパーを中心としたジャズ・シーンの現況をまとめた原稿を書いた。それが好評だったようで、しばらくして、あの原稿から一冊の本を作ろうと誘われたときに、真っ先に頭に浮かんだのは原さんだった。現在進行形のジャズを紹介し、「今」の音楽を求めるリスナーに向け
た本を作りたい。原さんがかつて非ジャズ・メディアで語ってきたことをリスペクトしつつ、21世紀のジャズの歴史をゼロから記してみたい。それがこの本の始まりであり、そのための箱がジャズに無縁なクロスビートというのもうってつけだった。

現在のジャズについて書くこと。現在のジャズを語るうえで必要な、ジャズ以外の音楽についても書くこと。そして何より、20世紀のジャズの歴史にひれ伏さないこと。それらを素直に実践した本を作ったつもりだ。ジャズの大きな歴史を一から記すのではなく、今のジャズにとって外せない(なのに見落とされてきた)情報や前史を優先的に整理して、最先端のジャズ・ミュージシャンによる作品や活動をリスペクトと熱量を込めて紹介し、そして未来へと繋いでいく。それがこの本の最大の目的である。

その目的を正しく実現するために、現在までのあらゆるトレンドにも目を向けながら、ジャズやそれ以外の音楽(ここが重要だ)を聴き続け、様々な場所に執筆してきたスペシャリストを揃えることにもこだわった。その結果、ほとんどは既存のジャズ・ジャーナリズムとは馴染みのない、ジャズ以外を専門にするライターや販売店のバイヤー、編集者などが集っている。それは90年代以降の拡散してしまったジャズの動きや、その音楽にまつわる文脈を正確に捉えることができているのが、ジャズ評論家ではないというのを示しているのかもしれない。象徴的な例といえるのが吉本秀純さんだ。現代ジャズにおいて、グラスパーとはまた別の軸でもっと語られておくべきだった「世界に広がるジャズ」に関して多くの原稿を寄せてくれた吉本さんは、普段はワールド・ミュージックを中心に執筆されているライターで、クラブ世代の感性で世界各地の音楽をボーダーレスに切り取った『GLOCALBEATS』の共著者でもある。吉本さんに"グローカル・ジャズ"を紹介してほしかったのも、この本を作るもう一つの動機だった。

それと同時に、2人の先輩の力を借りている。最後をマッドリブで締めた問題作『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』の著者で、マイルス・デイヴィスを中心にエレクトリックジャズについて書き続けているジャズ評論の大家、中山康樹さんがグラスパーをどう見ているのか。そして、パット・メセニーやウェザー・リポート、ビル・フリゼールまでジャズが拡張・拡散していった時代を的確に語ってきた村井康司さんが、さらなるクロスオーヴァーを見せる現在のジャズをどう語るのか。その2つの興味は、結果的に大きなヒントをこの本に与えてくれた。

ジャズの人がジェイムス・ブレイクやケンドリック・ラマー、テーム・インパラについて語るのは、いまや当たり前の光景だ。その影響や引用だって言うまでもない。こうしている間にも、ニール・フェルダーはポスト・ロックのテイストもある新譜を発表し、マーカス・ストリックランドはミシェル・ンデゲオチェロがプロデュースしたビート作品のリリースをアナウンスし、ウェブ上には新しい感覚を持ったジャズが無数にアップされ続けている。既存のジャズの聴き方では、もう追いつかないのだ。

僕はいまジャズが一番面白いと言い続けてきた。近年、ジャズは様々なジャンルと融合している。それらは、もはやジャズの原型をとどめてなく、インディー・ロックやヒップホップを聴く感覚でこそ楽しめるものも多い。でも、よく聴いてみると「ジャズ」と呼ぶしかない要素が随所に込められていることに気づかされるだろう。そんなヤバい音楽が、世界中のジャズ・ミュージシャによって次々に生み出され続けている。せっかく可能性が広がろうとしているのに、自ら閉じようとする理由はどこにもない。それらをとことん楽しむために、小難しい歴史はいったん横に置いて、僕らも気軽にジャズを聴こうじゃないか。グラスパーも言っていた、「ジャズ純血主義者の言葉に耳を貸す必要はない」。でも、必要あらば、歴史を遡ろう。新しい世代のルーツとして、ブラッド・メルドーを聴けばいい。グラスパーを掘り下げるためにQティップを聴けばいい。もし余裕があるのなら、ケニー・ギャレットやマイルス・デイヴィスまで遡るのもいいだろう。21世紀のジャズは、どこまでもオープンで、どこまでも深くもぐれる。それは聴き手に委ねられている。

この本は、新しい歴史を楽しむための入り口だ。ここから始めて、これから先、次々と生まれる新たなジャズに触れていただければ幸いである。かつてないほどジャズが大きな存在感を持つ時代を、共に楽しもう。

柳樂光隆

『Jazz The New Chapter』(2014/02/14)《INTRODUCTION はじめに》

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