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2020年のスタンダード・ナンバー:Sam Gendel『Satin Doll』とRafiq Bhatia『Standards, Vol.1』

■80年代以降のスタンダード・ナンバー

ジャズの世界ではスタンダード・ナンバーと呼ばれる曲がある。

「枯葉」「いつか王子様が」「サマータイム」「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「マイ・フェイバリット・シング」などなど、ジャズ・ミュージシャンのオリジナル曲から、ミュージカルや映画の名曲など、ジャズの世界で繰り返しカヴァーされて、定番曲となった曲のことだ。

ジャズ・ミュージシャンたちはそれらを繰り返しカヴァーし、多くの人が演奏してきた曲をどれだけ斬新なアレンジで、どれだけ斬新な即興演奏を行えるかを示して、自身を同時代のミュージシャンだけでなく、歴史的な名演とも競ってきた。

同じ曲を題材にしているので、その演奏者や編曲者の個性だけでなく、その時代時代で進化した演奏や理論がそのまま反映されることで、その新しさが引き立つことも良かった。

例えば、80年代、ウィントン・マルサリスは敢えてスタンダードの中でも定番中の定番曲ばかりをスタンダード集『Standard Time vol.1』を1987年にリリースした。マーカス・ロバーツ、ロバート・ハースト、ジェフ・ワッツとの圧倒的なテクニックとリズムやハーモニーなどにおける斬新さで世界を驚かせた。

ただ、90年代以降、少しスタンダードを演奏するミュージシャンが目立たなくなってきた。もちろんいるにはいたし、アルバムの中で1,2曲取り上げることはあったが、がっつりスタンダードを取り上げるようなアルバムは少し目立たなくなっていた。

90年代以降、ジャズ・ミュージシャンたちがオリジナル曲を書くようになっていったこと、ロックやテクノやヒップホップなどの新しい曲を取り上げるようになっていったこと、古い曲を取り上げるにしてもマイナーな曲や一風変わった曲を選ぶケースが増えていた。

ロックだったらレディオヘッドエリオット・スミス、ヒップホップだったらJディラ、その他にもマッシブ・アタックフライング・ロータス辺りが度々カヴァーされている。その辺の経緯は上記の記事を参照してほしい。1996年にはベテランのハービー・ハンコック『The New Standard』ニルヴァーナシャーデープリンスなどを取り上げている。

この文脈で言えば、1985年のマイルス・デイヴィス『You're Under Arrest』でのシンディー・ローパー「Time After Time」マイケル・ジャクソン「Human Nature」のカヴァーがある。

「Time After Time」はその後、様々なジャズミュージシャンに演奏されるようになった。ロックやポップス、ソウルやファンクなどから、これまでジャズミュージシャンがまだ演奏していない曲をカヴァーして、”新しいスタンダード・ナンバー”を提示する動きは80年代から起きていた、とも言える。

という流れがあったと考えると、当時、ジャズの伝統回帰的な志向と発言で新伝承派と呼ばれ、ニューオーリンズジャズから連なるアコースティック・ジャズを讃え、フリージャズやフュージョン、その後のハイブリッドなジャズやヒップホップなどを批判したウィントン・マルサリスが1987年にスタンダード集を作ったことは当時の時流に逆らうようにやったこと、とも言えるだろう。既に80年代末の時点でアコースティックの楽器編成で、スタンダード集を出すことは”敢えて”やることだった。

更に言えば、キース・ジャレットゲイリー・ピーコックジャック・ディジョネットが1983年に伝統的なピアノトリオ編成でスタンダード・ナンバーを演奏することをコンセプトにしたプロジェクトのスタンダーズを結成し、『Standards vol.1』『Standards vol.2』をリリースしたことも記しておくべきか。それまで既存のジャズの枠をぶち破るような斬新なオリジナル曲もしくは即興演奏を行ってきた彼らがスタンダード・ナンバーを斬新に解釈するという保守的な手法に真っ正面から挑んだ。これも時代に逆行して”敢えて”行ったスタンダード集だが、フュージョン全盛の80年代前半には、このプロジェクトはオルタナティブな作品群として高い評価を得た。実際にこの3人は力づくの正面突破で打開してみせ、後のブラッド・メルドーやロバート・グラスパーらの世代にも大きな影響を与えた。

ジャズのシーンでは”スタンダード集を作ること”はいつの世も定番で、ジャズというジャンルは時代を経ても古典的な手法を重視する変わらないジャンルだと思われがちだが、必ずしもそうではない。ロックの世界で何度も若い世代によるフレッシュな行為としてのロックンロール・リヴァイヴァルがあるように、ジャズの世界でも過去の価値や意味は常に変化している。

ちなみに過去のジャズ・ミュージシャンの曲をやるにしてもハービー・ハンコックウェイン・ショーターセロニアス・モンクの曲をプログレッシブなハーモニーやリズムで演奏するケースも増えた。セロニアス・モンクがやたら演奏されるようになった傾向は確実にあり、モンク曲集はかなりリリースされているし、モンクの曲が取り上げられたアルバムも多い。

モンクにも顕著だが、90年代以降、選ばれる楽曲は、音大で理論や演奏を徹底的に磨いてきたミュージシャンたちが原曲のバージョンに含まれているテクニカルな演奏法や特異な構造に挑めるような可能性を含んでいるケースが多かったとも言えるだろうか。スタンダード・ナンバーを演奏するというよりも、自らの音楽性や演奏技術に沿った楽曲を過去の名曲から探し当てた結果、それがモンクだったと言った方が正確だろう。おそらくモンクの楽曲はジャズ・ジャイアンツだから選ばれたのでも、スタンダード・ナンバーに挑むのでもなく、バッハやビートルズやレディオヘッドやJディラと同じ意味で選ばれたのではないだろうか。

というわけで、カヴァーする曲も変化していたし、そもそもオリジナル曲を書きたい”作曲家”志向のジャズ・ミュージシャンが増えていて、録音物に関しては次第にスタンダード・ナンバーの存在感が薄れていたといってもいいだろう。実際に僕が監修している『Jazz The New Chapter』シリーズの中ではジャズの先人からの影響やリスペクトを語るミュージシャンの姿は昔と変わらないが、特定のアーティストをトリビュートした作品以外では、スタンダード・ナンバーを演奏している作品はあまり見かけない状況もある。実際にAppleMusicの"最新のジャズ"、Spotifyの"State of Jazz""Jazz X-Press"といったジャズの新曲を収録した公式のプレイリストでもスタンダードはほとんど収録されていない。今や、スタンダードを録音することの方が珍しいのかもしれない、とさえ言える。

つまり、エリカ・バドゥをゲストに迎えて「Afro Blue」をネオソウル化したカヴァーをアルバムの推し曲にして大ヒットさせたロバート・グラスパー『Black Radio』がいかに特殊な事例だったか、という話にもなると思う。

その他にはカマシ・ワシントン「Cherokee」みたいな例もあるが、これも特殊事例だろう。

グラスパーもカマシも共にジャズのスタンダードとは思えないかなり異質なアレンジを施していて、わざわざスタンダードを取り上げるなら、そのイメージを覆すくらいに攻めないと意味がないくらいに思われてるように感じてしまう。やはり今、気軽にスタンダードを録音するような雰囲気はシーンにほとんどないように思える。

Sam Gendel『Satin Doll』

そんなジャズ・シーンにおけるスタンダード・ナンバーの扱いについての流れを知ったうえで、2020年にSam Gendel『Satin Doll』がリリースされたことを知れば、その意味が違って見えるのではないだろうか。

取り上げているのは、デューク・エリントンチャールス・ミンガスホーギー・カーマイケルマイルス・デイヴィスモンゴ・サンタマリアなどなど。今、この時期にこういった定番曲をまだシーンでのキャリアの浅い若手が”新しさ”を追求したサウンドでまとめて取り上げることは、ここ30年くらいの間、忘れられていた感覚を呼び起こすようなことでもあり、これは手垢のついた行為ではなく、むしろここ30年の流れを断ち切ろうとするかのようなオルタナティブな行為でもあると僕は思う。

この作品はものすごく挑戦的なものなのだ。

2010年代までの傾向とは全く異なるコンセプトでスタンダード・ナンバーを奏でているアルバムがたまたまディケイドの境目に出たのも面白い。

Sam Gendel『Satin Doll』は、デューク・エリントンの「Satin Doll」「In a Sentimental Mood」のようなスタンダードの中のスタンダードとも言える曲をいわゆる”モダンジャズ”とは全く異なるアプローチで解釈している。編成はサム・ゲンデルがサックス、Gabe Noelがエレクトリック・ベース、Philippe Melansonはエレクトリック・パーカッション。サックスにもエレクトがかけられているのですべての楽器がエレクトリックなトリオだ。

僕はサム・ゲンデルがサックスを吹いている彼のバンドのライブを2018年にFRUE Festivalのパーティーで観たことがある。その時、サムは自身のサックスで小さな音やロングトーンなどでぎりぎりフレーズになったような音の連なりや、フレーズ未満の断片のようなものを即興的に吹きながら、サックスの小さい音から”音色”と”響き”を取り出し、そこにエフェクトをかけたりループさせて、それらをレイヤーさせながら組み合わせて、その場で次々に作曲するような音楽をやっていた。その音色や雰囲気はこれまでサム・ゲンデルが発表している作品群と近いテイストだったし、まさにこの『Satin Doll』とも近いものだ。

この『Satin Doll』ではシンセに聴こえるところもサムのサックス、もしくはベースにエフェクトをかけて鳴らしているが、これはライブで見たものと近い手法だ。サムがライブでやっていたような手法をスタンダードを解釈するために3人で行っていて、それはオーセンティックなジャズの手法とは別の形でアンサンブルしようとしているようにも思える。(かなり)広義な(範囲を取った)ジャズの中で言えば、ジョン・ハッセルやスティーブ・ティベッツあたりのECMでエレクトロニックなサウンドの多重録音で作品を作っていたアーティストが浮かぶ。スタンダードのメロディはそのまま奏でつつ、そのスタンダードの中にあるムードだけを抜き出し、普遍的なムードを現代にフィットするような構成と音色に置き換えて奏でているようでもある。

少し飛躍した感想を書くと、個人的にはYMOの「Simoon」を思い出した。スターウォーズのC-3POとR2-D2が砂漠を歩くイメージで書かれたこの曲と通じるのは、不思議な荒涼感と、20世紀的なイメージの未来感、そして、荒涼とした土地にぽつんと取り残されたC-3POとR2-D2の間には不思議な心の交流がありそうなロボットの中にあるヒューマン感。

例えば、サム・ゲンデルが自身が吹くサックスにエフェクトかけて作るサウンドには「息を吹き込むことにより生まれる人間らしさ」と、それが「ロボ声的に出力されて人間らしさが失われること」の両方がある。この組み合わせの中のある音の質感が温かいのに、どこか寂しさをはらむアンビバレントな感触が初期テクノポップの機械と人間が融合しきっていない独特の感覚を思い起こさせたのかもしれない。しかも、サックス・トリオ編成で、鍵盤楽器が無いので、単旋律のサックスの周りにはカウンターラインも装飾もなく、どこか孤立しているような感覚がある。その不思議な質感のサックスによる孤立感のあるメロディーが荒涼とした雰囲気をも生んでいる。

そして、『Satin Doll』では打ち込みのような演奏をいとも簡単にやってのける現代のミュージシャンたちがドラマーさえもドラムセットではなく、エレクトリック・パーカッションを使っていて、音色だけは徹底的にエレクトロニックにしているのだが、一方で演奏自体は打ち込みのトレースではなく、実に人間らしい演奏をしているギャップが奇妙なムードを生んでいる。

そういった演奏が絶妙なバランスで組み合わされていて、音楽として成立しているのだが、どこかちぐはぐした違和感が残る気持ちの悪い気持ちよさが癖になる。スタンダードとも呼べる有名曲が原曲とは全く異なる不気味さや奇妙さや不穏さを宿っていて、”おかしな国としてのアメリカらしさ”≒アメリカーナみたいなものを感じさせるのが、このアルバムで、だからこそNonesuchレーベルからリリースされたと言えるかもしれない。それはジャケットに描かれている気味が悪いアメ車のイメージとも重なっている。

Rafiq Bhatia『Standards, Vol.1』

ここでももうひとつ紹介したいのがRafiq Bhatia『Standards, Vol.1』だ。インディークラシック界隈でも知られるライアン・ロット率いるサン・ラックスのメンバーであり、彼自身もビートミュージックやエレクトロニック・ミュージックの影響を感じるエクスペリメンタルなサウンドを作る奇才ギタリストでもある。彼に近いギタリスト/プロデューサーはジャズ・シーンには見当たらないが、強いて言えば、Eivind AarsetやJan Bangなど、アメリカではなく、ヨーロッパのECM周辺のエレクトロニックな即興音楽を奏でるアーティストを思い浮かべることはできるかもしれない。


Rafiq Bhatiaは『Standards, Vol.1』と言うタイトルで、デューク・エリントンを2曲、オーネット・コールマンロバータ・フラック(イワン・マッコール)の楽曲をそれぞれ取り上げて、彼なりのスタンダード集EPを作り上げた。

エリントンの名曲「In a Sentimental Mood」は最初だけ始まる予感はあるが、そこから原曲のメロディーが全く聴こえてこない。歪み、揺れる音像を聴いていると逆回転っぽい瞬間が至る所にあるので、もしかしたら逆回転していたりするのかもしれないとも思うし、そもそもクレジットを見るとラフィークのプログラミング、エレクトロニクス、ギター、ピアノのChris Pattishall、トランペットのRiley Mulherkar、テナーサックスのStephen Rileyの名前があるけど、どの楽器も全く聴こえてこないので、実際にはメロディーも弾いているのかもしれないけど、その演奏のピッチから何から何までを変えまくっていじりまくっているようで、スクリューした際のような質感も箇所もあり、どこがどの楽器なのかも皆目わからない。一瞬、元はトランペットかもみたいな気がする音もあるにはある(が僕の錯覚かもしれない)。もはやノイズかインダストリアルかみたいな音像による立体的で重層的なサウンドデザインだけで描かれたストーリーがそこにはある。

ただ、曲名に繋げればセンチメンタルなムードだけはそこにはある。しかも、センチメンタル=感傷的・感情的を過剰に・異常に拡大・拡張して、地獄もしくはディストピアみたいな世界を描いて、彼なりの現代的なセンチメンタルなムードを鳴らしているとも言える。

「The First Time Ever I Saw Your Face」はロバータ・フラックの歌でヒットした曲で邦題は「愛は面影の中に」。イギリスのフォークシンガーのイワン・マッコールが書いたライブソングでフォークのシーンではスタンダードだが、ジャズではあまり演奏されない曲。現代最高のジャズ・ヴォーカリストのセシル・マクロリン・サルヴァントを迎えて、彼女が歌で表現したその感情を最大限に増幅するようにノイジーな音響で歌を包み、後押しする。ロバータ・フラックのバージョンのアレンジは、音数も音量も限りなく少ないギター、ベース、ドラムと、数か所で一瞬だけ鳴るあまりにささやかかつ絶妙に盛り上げるストリングスによる究極的に削られたサウンドでロバータ・フラックの声を引き立てている。ここでのラフィークもその引き算的なミニマムさのバンドとストリングスを意識しているようにも聴こえる。

オーネット・コールマン「Lonely Woman」はギターとサックス、パーカッションにプログラミングやエレクトロニクス、サウンドデザインで。終盤にようやくサックスの多重録音によるテーマが現れるまでは不穏なムードだけがある。ラフィークはこのアルバムの中で唯一この曲でだけギターを弾いているが、無機質かつ硬質なドラムやプログラミングに混じるようにギターの弦が無機質且つ即物的に弾(はじ)かれ、他のリズムと共にパーカッション的な打音として聴こえるのみ。不穏だが冒頭から明確にビートがあり、パルスがあり、更に重低音のシンセがベースライン的に入ってくる瞬間もあるのが特徴だ。勝手な想像をすれば、原曲はサックスのオーネット・コールマン&コルネットのドン・チェリーの2本の管と、ベースのチャーリー・ヘイデン&ドラムのビリー・ヒギンスのリズムセクションでピアノレス編成。若干のソロや即興以外は、きれいに重ならない不穏なユニゾンでテーマを何度も何度も繰り返す構造で、メロディーが強いのもあって管楽器が印象に残るが、実はかなりリズムが強くてパーカッシブなドラムが印象的で、特にシンバル・レガートが印象に残る。もしかしたら、ラフィークはそのリズムセクション部分を解釈しようとしたのかもしれない。僕がそう思ったのはドラマーのCraig Weinribを起用したのがこのEPで唯一この曲だけだった、からでもある。

最後のデューク・エリントン「The Single Petal of a Rose」だけは他の曲と少し異なる。何種類かのプリペアドされたピアノの音を組み合わせたピアノ多重録音に、ささやかなエレクトロニクスをラフィークが加えるのみで実にシンプルだが、よくよく聴くと変わった音像になっていて、かなり繊細なサウンドデザインが施されている。ただ、実はこれが原曲に忠実。

エリントンの『The Ellington Suites』に収録されているエリザベス女王に捧げたビッグバンドのための組曲「The Queen's Suite」の中の1曲がこの「The Single Petal of a Rose」で、ここだけはデューク・エリントンのピアノとジミー・ウッドが弓弾きするベースのデュオで奏でられている。美しいテーマのフレーズとその変奏をひたすら繰り返すようなミニマルな曲でそこに弓弾きされるベースとエリントンの左手がぶつかり何とも言えない響きを生み出す。

ここでのラフィークのエレクトロニクスやサウンドデザインはその原曲にあるハーモニーの響きやテクスチャーを現代のテクノロジーで置き換えるように鳴らしながら、後半ではそれを拡大解釈するようにアレンジを施している。中でもベースの弓弾き特有の太く重く不明瞭な音色でのポルタメント(※音から音に移動する際に滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏法)のような音が全く途切れず滑らかに連なったまま移動し、変化するサウンドを選んでいるあたりにも忠実さへの意識を感じる。

そして、曲のムードもまた原曲にかなり近いのも面白い。原曲のアレンジで発生するのと近い響きや感触を得られるようなサウンド・デザインを全く違う方法で施していて、原曲のムードを彼なりに尊重しているように思える。

ラフィークは自身の手法でスタンダードを解釈しているが、原曲に忠実だった「The Queen's Suite」以外はその楽曲の構造に着目しているわけでは無さそうだ。ただ、その楽曲が持っているエモーションやムードだけは確実に捉えていて、そのエモーションやムードの部分を自分なりに解釈をするために現代的な手法を駆使しているようにも聴こえる。つまりその曲を素材として取り上げて、自身の音楽を作るのではなく、その曲でなければいけない理由が必ずあると僕は感じている。と言う意味で「The Queen's Suite」に関しては、その原曲のアレンジやムードの完璧さを尊重しつつ、その音色や音像や音響だけを現代的にアップデートして再提示したのかもしれない。それはサム・ゲンデルと重なる部分だと僕は思うのだ。

■2020年代のデューク・エリントン

最後に。ここで面白いのは2人ともデューク・エリントンを2曲取り上げていることで、2人とも「In a Sentimental Mood」を取り上げていること、だ。

たしかにエリントンの音楽には独特のムードがあって、曲によってはかなり狂気を感じるようなハーモニーや音響のものもあり、今聴いても刺激的だ。

今、音楽が持つムードの部分を全く異なるやり方で再現もしくは解釈したいアーティストがエリントンに関心を持つとしたら理解できるし、エリントンの音楽が持つジャンルを超えた多様性みたいな部分も現代のアーティストにとってはチャレンジしたいものとして映るのかもしれない。それは構造や理論とはまた違った側面からエリントンの音楽の聴き方が再発見される可能性をもあるかもしれないということでもある。それは例えばマイルス・デイヴィス『Get Up With It』に収められたマイルスによるデューク・エリントンへのトリビュート曲「He Loves Him Madly」みたいな曲を聴き直すことへも繋がるかもしれない(のと同時に『Live Evil』に収められた音色や音響だけを取り出してムードだけを作り上げているような楽曲群も聴き直すべきかもしれない)。

エリントンはずっとジャズだけでなく、あらゆるジャンルにおける最強の最重要人物ではあるのだが、2020年代は思わぬ方向からのエリントン再評価があったら面白いかもと思わずにはいられないとサム・ゲンデルとラフィーク・バーティアを聴いて僕は思ったのだった。

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