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自己紹介①今までやってみた中で、一番ワイルドだったこと

 私が、今までやってみたことの中で一番ワイルドだったことは、
 タイの大学に、当時在学していた大学の学部初の留学生として
 付け焼刃で勉強した英語だけで、
 学びたいことも決めきれないのであれこれ希望を書いてまとまらない
 まま、寮生活で、約3週間飛び込んだこと。

 この時は、お世話になっていた大学の英語の先生が私を留学に
 推薦してくださったので、この機会を得た。

 私がこの留学に行こうと決めた理由は、
言葉も分からない未知の場所に飛び込むことに怖さも感じていたが、
それよりも、

・大学の学費も、大学在学中の生活費も親に出してもらっていて甘えている 
 自分&人見知りで友達もほとんどいない自分が、タイの大学に1人で飛び 
 込んだ時に、自分がどんな風に人と話し、生活するのかを試してみたかっ
 た。
・タイに行ったことがなかったので、行ってみたかった。
・タイの生活に興味があった。

という理由だった。

 留学先は、プリンス・オブ・ソンクラ大学の看護学部。
 私は当時、大学の看護学科に在籍していた。
 タイの大学だけれど、授業で学生たちはアメリカの教科書で学んでいるの  
 で、授業は英語で行われていた。
 なので、生徒も先生も『英語は普通に話せる』という環境だったので、
 大学の授業がない時間に先生の部屋に行き、英語の特訓を受けてい
 た。それは、現地に行って相手と片言ながら話したり、
 相手の言っていることの意味をある程度理解するのに、とても役に立ち、ありがたかった。

【留学中面白かったこと】
・スワンナブーム国際空港から、国内線のドンムアン空港までバスでの移動時、眠っていて乗り過ごしそうになったこと。
 バスは間違えずに乗ることが出来た。が、いつの間にか眠ってしまっていた。しかし、乗る時に「ドンムアンエアポート」と言っていたのを
運転手さんと乗務員さんが覚えていてくれたのか、寝ていた私を起こしてくれたので、寝過ごさずに済んだ。親切が心に沁みた。

・寮では、インドネシアから災害医療を学びに来ている看護師さん2名と
 同室だった。彼女たちは、スマトラ島沖地震の際に、地震や津波で負傷した人のケアにあたったり、亡くなる人を目の当たりにした経験から、
災害看護を学んで自分の病院でのケアに役立てたい、との理由で長期で学びに来ているとのことだった。
 私は人見知りだったけれど、よく声をかけてくれたので、
お互いの生活のことを拙い英語でよく話した。
 2人は、部屋に持ってきていたコンロと鉄鍋で自炊をしていて、
私が部屋にいる時は「一緒に食べよう!」と声を掛けてくれた。
私は調理器具もなく、外の屋台や学食、スーパーで買ったものが大半だったのでご飯を作ることはなかったけれど、おやつを交換していた。
楽しかったな。あの2人は今、どうしているだろうか。

・寮のトイレが、大も小も、紙ではなく水でおしりを流すタイプの
トイレだった。臭くなくて快適だったので、気に入っていた。
 
・大雨が降ると、大学の敷地内でも低地にあった看護学部は、普通に道路と1階が浸水していたこと。
 浸水しても、学食も売店も普通に開いている。
 どうしてもそこを渡らないと寮に戻れない、という通路が、浸水で腰のあたりまで水に浸かっており、しかもそんな時に限って履いているのはロングスカートだった。もはや面白くなって、楽しくなって、ヤッホー!!と言いながら渡った。爽快だった。車も、ライトのあたりまで水につかりながら走っていて、壊れないのかハラハラしながら観ていた。
 それから、びしょ濡れのスカートのまま、これまた床上浸水した売店で買い物をしたのは、楽しかった。
 何が楽しかったかというと、浸水した床のまま売店が営業している、
というのが、日本では絶対にありえないことだと私が思っていたので、
固定観念が揺さぶられたから。
※現地の生徒が「医学部はお金持ちの生徒が多いから、高台に建っているのよ」と言っていたが、本当だったと思う。医学部は一切浸水もなかった。

・医学部の生徒の中に、ものすごく色が白くてはかなげな、とても美しい人 
 がいた。遠目で見ても、輝いて見えるほどの美人だったように私には見え 
 た。女性だと思い込んでいたが、その人は身体が男性なのよ、と教えても 
 らい、とても驚いたこと。その美しさは、今でも印象に残っている。

・看護学部に霊気(レイキ)の授業が普通にあり、大学病院の中にも、
 患者さんが自由にレイキのセッションを受けられたり、自分の想いについ 
 て話をするための部屋が完備されていたこと。
 その部屋には大きな金色の仏像があったことも印象的だった。

・休みの日に、広いと有名な大学キャンパス内を踏破しようと試みたけれ 
 ど、広すぎて挫折したこと。笑

・ソンクラー県はタイのかなり南部の方で、首都と距離がある為、
 新聞は1週間前の日付のものしかないからね、と言われたこと。
 1週間前のものだと分かって読めば問題はない、という価値観が
 新鮮だった。

・休みの日に、学生さんの持っている2輪車の背中に乗せてもらって、
 街をバイクで走ったこと。気持ちよかった!

・引率の先生は、滞在は高級ホテルで、ほぼ別行動だった。
 先生はめちゃめちゃ楽しんでいるように見えたし、
 それは却って、縛られずに過ごす時間が多かったので、私にとってはよかった。そのことを「もっと(学生に)ついていてあげればいいのに」と後に悪く言う先生もいて、価値観は様々だなあ、と思った。

・帰国予定日の前日にクーデターが起き、空港が閉鎖されたため滞在が延長された。(当初の予定より+1週間)その際に、学部長さんや、知り合った人たちが、滞在が延びたことでどのように過ごせばいいか、出発できる日が決まったら速やかに連絡を入れると教えてくださったりと、見通しを伝えてくれたり、不安ではないかと私を気づかい、親切にしてくれたこと。
 留学生である以上、大学間で今後、交換留学をしようという話が持ち上がっていたこともあったという立場もあってのことかもしれないが、
それだけではなく、学部長さんは私に対して、とても親身になってくれていて、それは相手を気遣える心を持っている人だったな、と振り返る。
その関わりのお陰で、私は当初「滞在が延びて、もう少しタイに居られるのはラッキー♪」とだけ思っている、と考えていたが、
実は、少しあった不安な気持ちにも気づくことが出来、今思うと、ホッとしていた。

・クーデターで争いが起こっているシーンの中継時に、やたらと
 赤い物が道にこぼれているシーンが多かった。
そんなに争って血が流れているのかな?怖っ!っと思って、学生さんに聴いてみると「あれは赤い塗料。血のように見せかけて威嚇しているの」と聞いて、ずっこけた。
 確かに、空港へ至る道を封鎖していたのは、積み上げられたスーパーのショッピングカートだったし、何故そこに赤い血がそんなに流れたのだろう?
と不思議に思っていたので、納得がいった。

・帰国できる、と決まった時に、まだまだ空港が使える状況ではなかった。
 特別に、軍用の倉庫と滑走路が臨時の空港として開放され、
 そこから飛行機が離発着していたのだが、
 どの国の何便が、次に何時に搭乗可能になるのか事前にわからず、
様々な国の人々が倉庫の床に座りながらおしゃべりし、自分の乗る便のアナウンスが来るまでひたすら待つ、という、普段ならなかなか経験出来ない状況にいたこと。
 この時、コーヒースタンドや軽食のお店が出ていたのだが、ほぼお金を使い切っていたため、寮から持ってきた食べ残しの食パンと残った瓶ジャムでお腹を満たしていた。(お金を少なく見積もり過ぎていた。もっと持ってきておけばよかったな、と後悔したことを思い出す。)
 自分の乗る便がアナウンスされると、その便の人は皆、ガッツポーズしながら喜び合い、まだ呼ばれていない人たちもその人たちを祝福する、という楽しい空間だった。
 また、それぞれの国に帰る人達の特徴的な服装や荷物を見ることが出来たのも楽しかった。(例:アフリカ便に搭乗する人達は肌の黒い人が多く、買い付けたものなのか、大きな麻袋を1人1つ持っていた。)

※当時、大学に提出した滞在報告がネットに残っている(ソンクラ大学留学記:PDFP68~)。
 今、改めて読むと、なんだか大学の設備紹介みたいになっているが、
 1人でタイに滞在するということが、当時の私には刺激的な機会だった。
 慣れない英語を駆使して、あれこれ伝えようとしたり、聴きとろうとしていたことが、とても懐かしい。通じ合った時は、嬉しかったな。

  また、現地で1人でいると、
 様々なことの判断も、意外となんとかした自分がいた。
 (と同時に、ソンクラ大学の先生方にはいつも目をかけていただき、
 助けてもらったことも、たくさんあった。)



 残りの人生、これを越えるワイルドなこと、どんどんやってみたい。

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