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結論 b.) 「芸術」と「学問」

 終わりに、私がもう一点確認したいことについて、オペラ作品をはじめとする「芸術」と、それらに対する「学問」とのかかわり方がある。


 私がこの論文に選んだ「演出」というテーマは、テクスト解釈とは異なり、対象が舞台上でのみ発生するきわめて一過性、一回性の高いものである。
 加えて、劇場に居合わせた演者、受容者の間でしか共有ができないというある種の閉鎖性も併せ持っており、一歩離れた視点から研究することが非常に難しい分野である。この点についてはフィッシャー=リヒテも次のように述べる。

知覚する主体が上演中に生み出し、後から部分的に思い出す意味の大半は、言語的な意味と等しくはない。非言語的な想像、イメージ、空想、そして記憶、あるいは身体的に表現され、特殊な身体表現として意識される気分、感覚や感情は、言語に「翻訳する」のが非常に難しい。なぜなら言語記号は、つねに一定の抽象性を特徴としており、その抽象性が物事の関係や関連性の創出の能力を言語記号に与えているからである。それに対して具体的に知覚された身体や事物、音、光の場合、知覚される中で現れるその特別な現象的な現前は、上演中であれ後からであれ、それを概念化しようとするだけで失われてしまうのである。どれほど詳しい言語的な説明を行っても、それは同じである。詳細な言語による説明は、せいぜいそれを聴いたり読んだりする者に、まるで想像しがたいほどに逸脱したイメージを可能にするだけである。 _1

 私がこの論文において取り上げた事柄も、そのまま彼女の考えに当てはまる。
 演出家が自身の取り組むテクスト、音楽の意味を確定できないのと同じように、受容者は自分が知覚した眼前のパフォーマンスの意味を概念化という形で確定することはできず、記憶をまるごと他者と共有することもできない。


 それでは舞台作品において、特に演出というライブ性の高い分野において、私たち研究する立場の人間がそこに入り込むことは果たして可能なのだろうか。
 そもそも、彼らが作り上げる「芸術」の立場と私たちの「学問」の立場は本質的に結びつき得るものなのだろうか?

 インタビューの締めくくりとして、私はエーラトにこのような質問を投げかけた。

「貴方は、自分の作品はどこまで学問的に研究できると思いますか。貴方の演出、すなわち貴方の芸術に関する学問的研究から、私たちは何かを学び取ることはできるのでしょうか」

 これに対する彼の回答をここに引用しておく。

本当のところ、私は自分の演出の内容に関してあまり多くを語りたくはない。というのも私の「生活(Leben)」は演出であり、それは私が自ら語るのではなく、各々が自分でそこから何かを読み取ることができるものだからだ。

加えて、自分の演出について語ることは大部分において私にとってもかなり難しい。私自身、多くの場面は言葉で説明できない。さもなくば、私は自分でテクストや本を書いたりするだろう。しかしそれは私にとっては最適な媒体ではないのだ。私は「絵(Bilder)」で考える。そして絵は文章のように一義的なものではない。したがって限界に突き当たることもある。しかしそれは当然なことだ、というのも私が思うに、最良のケースではそれもまたひとつの解釈であるからだ。それはある絶対的解釈のみがあるわけではなく、別の視点からも見ることができる。

私が望むのもまた、さまざまな人々がさまざまに見ることだ。私は一義的解釈しか許されない演劇は好まない。だからこそこの作品(『エレクトラ』)には多くの疑問符(Fragezeichen)が存在するのだ。しかしこれらは無意識的なものもあれば意識的なものもある。多くの事物は私が無意識的に仕掛けたものだが、あえてそれを無意識的なものとして残すことで良い意味でそこにアンビバレントが残る。

私はそこに学問的研究が入り込むことは興味深いと思う、しかしそれもまた限界に突き当たるだろう。私自身でもそうだからだ。思うに、私は言葉が少ないからこそこのような仕事をやっているのだ。また、自ら語りたくない部分もある。というのも、それはたとえば私が「そう」理解していたとしても、別の人間にはまた異なるように理解することができるものだからだ。それこそを私は高く評価するのだ。 _2


 彼のこの回答に、本論文における全ての結論が詰め込まれている。
 
 学問的研究はフィールドワークのような調査法もありながら、あくまで論理的に、「言葉」を用いて行うものである。
 かたや私たちがその対象とする「芸術」にとって重要なのはたとえば光であり、音であり、色であり、すなわち「言葉にできない」領域のものである。

 私が留学中に鑑賞した『エレクトラ』は言語的に描写された時点で必ず言葉の「行間」に沈み込んでしまう要素が発生する。
 そしてこれは「演出」と「作品」という関係でも同じことが言える。演出家がある作品を上演するとき、それを自分の解釈によってしか演出することができない。

 しかし、だからこそ一つの作品に対してさまざまな演出が存在するのである。

 舞台芸術はテクスト・音楽から出発し、さまざまな演出がそこに発生する。そしてそれを学問的に研究することによってさらにまたさまざまな解釈が生まれる。作品から演出へ、そこからまた研究へと、私たちはいわば「作品」を中心にして二重の球体を構成しているのだ。

 しかしここで私たちが忘れてはならないのは、「学問」は「芸術」を捉える視点のひとつに過ぎないということである。

 学問的に研究することによって、その芸術を最も深く「理解する」ことができるようになるわけではない。
 なぜなら私たちの研究は、実際に芸術に携わる当事者たちの感覚的領域には決して踏み込むことができないからだ。
 よって、「学問」はその視点によって一つの結論を導き出すべきではない。

 舞台芸術という分野において、「レジーテアター」と「原作への忠実さ」という論争はあれど、演出は受容者にさまざまな解釈の地平を開く。
 そして、演出が残したその「成果」を「確認」していくのが私たちが行う「学問」の役目であると言えるのではないだろうか。

 その意味で、2012グラーツ『エレクトラ』は改めて受容者に「自ら解釈することの意義」を思い起こさせた非常に挑戦的な作品であったと言えるだろう。この作品のみの考察で「芸術」と「学問」の関連性という大きなテーマを論じるのは不十分ではあるが、本論文を足がかりとし、今後の研究につなげていきたい。


 なお、本論文において非常に重要な資料となったエーラト氏へのインタビューに関しては、グラーツ歌劇場ドラマトゥルクのクリスピン氏ならびにエーラト氏の多大なご厚意により実現したものである。
 また、本インタビューでの通訳および音声記録の文書化に際しては、当時同じくグラーツに滞在しておられた神戸大学シュテファン・トゥルンマー(Stefan Trummer)教授に全面的に協力していただいた。この場を借りて、心から感謝申し上げる。

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1. エリカ・フィッシャー=リヒテ、中島裕昭・平田栄一朗・寺尾格・三輪玲子・四ツ谷亮子・萩原健訳『パフォーマンスの美学』、論創社、2009年、pp.235-236。
2. Interview.,p.10.

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