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「陰キャラ」だからこそ本気になれた僕の人生

はじめに


皆さま、はじめまして。長畑遼と申します。

今回、とても勇気を出してこの記事を書きました。
魂を込めた2万文字です。長いですが読んでもらえると嬉しいです。

この記事がたまたま目に入って、今ここを読んでくれているあなたにはぜひ僕という人間を知ってもらいたい。

もしかしたら今後、何らかの縁があってお互いがお互いの人生を変える存在になるかもしれない。

そんなことを考えて、この記事によってより多くの人に自分のことを知ってもらいたいという想いで自分の今までの人生について書きました。
(これを書いているのは2020年8月です。)

そしてこの記事を通して、今立ち止まっている人に1歩踏み出す勇気を与えたいと本気で思っております。

今の僕の人生のテーマは
「元いじめられっ子がかっこいい自分を探す物語」です。

僕は今までの人生で壮絶な「変化」を経験してきました。
どん底もハッピーも、今では自分の素敵な財産です。
「こんな自分でも変われた。あなたも絶対に変われる」
そんなメッセージを込めてこの記事を書きました。

人生の振り返りというだけあって長くなったので、興味を持ってくれた方は少しずつでも最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
できる限り楽しんでもらえるよう、臨場感を出せるように書きました。
では早速ですが、小学生時代から入っていこうと思います。

①小学校時代 受験を言い訳にスポーツを投げ出す

小学校時代は言われた通りのことをして過ごした。
両親から中学受験のために塾に通わされ、周りの友達と一緒に遊べないことに不満を覚えていた。

「なんで俺だけ勉強しないといけないの?」とずっと思っていた。

しかし父親が厳しく、成績が下がって怒られるのが嫌で必死に勉強していたため、成績は常に上位であった。
それでも模試で悪い点数を取った時には厳しく怒られ、その度にまた泣きながら勉強していた。

一方のスポーツは、水泳、ラグビー、ハンドボールを習っていた。
一見、多くのことにチャレンジしていて充実しているように見えるが、どれも苦い思い出ばかりである。

水泳は最初から全然ダメだった。
初めてのテストのとき、プールにいる全員が自分に注目していた。
クロールで息継ぎをするたびに耳に入るのは、クスクスと笑われている声。

泳ぎながら思った。

「そうか、俺はそんなに下手なのか。一生懸命やってるのに。」

泳ぎ終えた後には「あいつ、遅すぎやろ」という声が聞こえた。
結果はやはりそのグループの中で自分だけ不合格であり、逃げ出したくなった。

その日を境に、すぐにやめた。
「向いてなかったから他のスポーツで頑張ろう」と思っていた。

ラグビーでは強豪に所属しており、身体能力は低かったが思い切りの良さだけは評価され、1軍と2軍を行ったりきたりしていた。

しかし5年生の頃、1軍の試合で自分の放ったパスが相手に奪われ、それをきっかけに決勝点を奪われて負けるという大きなミスを犯した。

そのときは「ドンマイドンマイ」「次の大会でやり返そう」と、選手もコーチも優しい声をかけてくれたが、自分はそのプレーがトラウマで、思い切ったプレーができなくなった。
もともと身体能力は低かったので、唯一の良さである思い切りを失ってしまった自分は全く活躍できなくなってしまった。

試合中でもコーチ達の「あいつ、あかんな」という声がよく聞こえるようになった。

水泳のときと同じ。ネガティブなワードに過敏に反応してしまう。
誰かがこっちを見て何か話しているのを見ると、びくびくしてしまう。

それ以降、すっかり2軍に定着してしまい、1軍の試合はベンチから観戦していた。
1軍の選手にものすごい嫉妬を覚えることもあった。

いつの間にか、ベンチで応援しているふりをしながら、
「ミスればいいのに」「早くチームが負けて大会が終わってほしい」など、負の感情を纏うようになってしまっていた。

もはや、1軍としてフィールドを走り回っていた頃の自分は見る影もなかった。
そのまま、次第にラグビーを辞めたいという気持ちになっていった。

残ったハンドボールでは、ボールを扱うテクニックは下手だったが、こちらも思い切りの良さだけはあり、ボールを恐れないという性質を評価されゴールキーパーを務めることになった。
1対1のシュートを止めたときの歓声はいまだに忘れられない。

5年生の頃、1歳下に同じくゴールキーパーの後輩が入部してきた。

これまではチームにゴールキーパーは自分のみだったので、初めてポジション争いというものを経験した。
身体能力や反射神経は明らかに後輩の方が上だったが、基本的には自分がスタメンであり、勝ちが確定したような試合では後輩に交代するという起用法であった。

後輩が日に日に成長しているのは感じていたものの、自分の方がやはり試合経験が豊富であり、活躍もしていたので、自分のポジションを脅かすほどの存在とは思っていなかった。

しかし、5年生の終わりの近畿大会の日、1試合目が終わるとコーチに
「今日動きひどいぞ。全然ボール見えてへんな。落ち着いていつも通りやれ」と、自分の動きが明らかに悪いことをコーチに指摘された。
(その日は1日に5試合ほど組まれていた。)

自分の中では特に調子が悪いということもなく、なぜそんなことを言われなければならないのかわからなかった。

そのまま臨んだ2試合目の前半早々に相手にシュートを決められたときに見切りをつけられた。
「なんやねんそれ!交代や!出てこい!」とコーチに激怒され後輩に交代した。
その試合は思いのほかその後輩が活躍し、勝利した。

試合後、コーチに「残りの試合は全部あいつでいくから、お前は今日は終わりや。」と告げられた。
呆然としながら、残りの試合を見守った。

後輩の活躍もあり、全勝した。自分の出番は最後までなかった。

その日を境に、自分の出番がどんどん減り、後輩にスタメンを奪われてしまった。

今までは後輩の活躍に対して「ナイスセーブ!」と素直に喜んでいたのだが、その日以降、「ミスれ」と思うようになってしまった。

ラグビーで2軍に定着し始めたのと同じ時期だったため、「ラグビーだけでなくハンドボールでもダメなのか」と思った。自信を失った。

自分は何をやってもダメだと思った。人生で最初の大きな挫折だった。

そして、5年生から6年生に上がるタイミングで、ラグビーもハンドボールもやめることにした。

「スポーツは向いてないからやめよう。せめて勉強だけ頑張ろう」と自分に言い聞かせていた。
自分で言うのが嫌だったので、母に「来年は受験勉強で忙しくなるから辞めますって言っといて」と言った。

母は「ほんまにいいの?」と聞いてくれたが、自分は無言で頷くだけだった。
母は寂しそうにラグビー、ハンドボールのチームに電話をしてくれた。

数年間お世話になったコーチやチームメイトに対して、自分自身でケジメをつけて話すこともせず、逃げるように辞めた。

部屋に閉じこもり1人で泣いた。

これまで一緒にやってきたチームメイトに申し訳ないという想いもあったが、それ以上に自分がもうフィールドに立ちたくないという想いの方が強かった。

何も残らなかった。自分のことが心の底から嫌いになった。

それからはなんとか切り替えて受験勉強に集中し、第一志望ではなかったものの、中高一貫の私立に合格した。
勉強の成果が実ったことは素直に嬉しかったが、自分の中にはとてつもない後悔の念があった。

スポーツを辞めたのは本当は受験勉強のせいなんかではない。

当時の自分は、逆境に対して、努力しようともせずに「受験」という言い訳をつくって全て投げ出したのだ。

特にハンドボールについては、今でも当時のチームメイトとたまに飲む機会があるが、みんなが「6年生の全国大会」の話をするたびに、5年生で辞めた自分は胸が痛くなる。今でも思い出したくないトラウマになっている。

「俺も一緒に行きたかった」「みんなと笑って引退したかった」という後悔が今でも自分を苦しめる。

②中学時代 スクールカーストの底辺に

2006年4月。中高一貫の私立中学に特待生として入学。
成績順に分けた5クラスのうちトップのクラスにて3年間を過ごす。
俗に言う優等生である。

「今1番大切なのは勉強だ」、「今からやらないと大学受験に間に合わないぞ」という教育を受け、「ああ、俺は勉強だけしとけばいいんだ…」と思うようになる。「東大、京大、医学部に行くのは当たり前!」そう思っていた。

入学当初、周りに話しかける勇気がなく、気付けばタイミングを逃し、友達づくりに失敗していた。
小学校でスポーツを全部辞めて自信を失ったこともあり、この頃の性格はとても暗くなっていた。

授業が終われば真っ直ぐ帰り、家に着くとその日の授業の復習をする毎日。
休み時間は話す相手もいないので机に突っ伏して寝ていた。

暗すぎて「あいつ、自閉症やで」と周りに言われているのが聞こえることもあった。
靴を隠されたり教科書を破られたりという典型的ないじめにも遭った。

しかし、自分に自信がなく、犯人を探したいとも、仕返ししたいとも思わなかった。

ただ、「鍛えて強くなって、舐められないようにしよう」という想いはあり、100均で握力グリップを買って握ったりしていたが、長続きしなかった。

「やっぱりスポーツをやったら舐められないかな?」

そう思って、小学生のとき諦めたラグビーをもう一度始めた。

相変わらず身体能力は低く(50mは8秒台の鈍足)大した活躍はできていなかった。
自分のことを「下手くそ」と言ってくる奴もいたが、一部のチームメイトからは戦力と認められていたので試合には出れていた。

自分なりに部活には真剣に取り組んでいたが、1つ上のキャプテンには
「なんやそのショボい身体は。もっと鍛えな活躍できへんぞ」と言われていた。

「やはり筋トレをしないと試合で活躍できないのか」という想いに駆られ、家で腹筋と腕立てと背筋を30回ずつすることから始めた。
紙に目標を書き家の扉に貼ったりしてモチベーションを高めようとしたが、何をしても3日坊主で終わってしまい、結局ラグビーも上手くはならず、もどかしい思いをしながら過ごしていた。

それでも、いつものつまらない学生生活の中では、部活が1番楽しかった。
チームのみんなが自分と話してくれる。
というか、「ラグビー」という話す理由が生まれる。

「さっきのプレーはもっとこうした方が良かったぞ!」みたいなことでも、そんな些細な話ができることが嬉しかった。

そして、最後の大会でなんとかフッカーというポジションでスタメンになり、そこそこの活躍をすることができた。
チームとしては強くはなかったが、周りの頑張りもあり、3年生の最後の大会は良い成績を残して引退することができた。

決してキープレイヤーではなかったが、初めてスポーツをやり切ることができた。
それだけで何かでかいことを成し遂げられた気持ちになった。

しかし、引退してからはチームメイトとの関わりはなくなってしまった。

自分が周りを避けていたのか、周りが自分を避けていたのか、それはわからないが、少なくともラグビーという接点がなくなった途端、内気な自分はみんなに話しかけることができなくなった。

「ラグビー」という「みんなに話しかけて良い理由」を奪われた気がした。

部活がなくなった途端、いつもの孤独な自分に戻ってしまった。
周りがどう思っていたかわからないが、「自分が友情と思っていたものは、友情ではなかった」とまで思えてきて、とても寂しくなった。

「仲の良い友達がほしかった…」

やり切った感動。話し相手がいない虚しさ。
このままでいいのかという葛藤。
様々な想いが交差しながら、中学3年間は終わった。

③高校時代その1 周りに恵まれる。筋トレ開始。人生が変わり始める


高校に上がったとき、盛大なクラス替えが行われた。
下のクラスのやんちゃな連中が混ざったのだ。

「次は新しいやつらにいじめられるのではないか…」そう思っていた。
最初の1ヶ月ぐらいは中学と同じく、誰とも話さず過ごしていた。

転機となったのは、初めてクラスが一緒になったKくんと帰りのバスが一緒になり、話しかけられたときであった。

「お前って暗いよな。」と。

彼とは中学のクラスは違ったが、帰る方面が同じだったので何度か話したことがある程度の仲だった。
彼の言葉は心に重く突き刺さった。今までの自分を否定されたような気がした。

彼はこう言った。
「そのままで楽しい?」

思わず、自分はこう答えた。
「いや。楽しくない。」

でもこいつも自分のことをバカにして、面白がって話かけてきたのではないかと疑っていた。
しかしKくんは「そうやんな。じゃあ俺らがプロデュースしたるわ!」と言った。
なんやそれ。そう思ったが、もしかしたら仲間に入れてもらえるかもしれないという希望も少し持っていた。

気がつけば、すがりつく想いで「変わりたい」と言っていた。

するとKくんは
「じゃあまずメガネをやめよう。んで一緒に野球部に入ろ。あと昼はぼっちメシやめて一緒に食おう」と言った。

なぜ彼が自分にこんなことを言ってくれたのかは分からなかった。
ただこんな暗い自分をわざわざ気にかけて、話しかけてくれたことがとても嬉しかった。
嬉しくて、彼の言ったことは全て実行した。
(後に聞くと、Kくんと同じグループで帰る方面が同じだったTくんが当時入院して不在だったため、新しい仲間を発掘したくて最初は面白半分で声をかけたとのこと)

未経験ながら野球部(活動は週3回の弱小)に入部し、メガネからコンタクトに変え、昼飯も一緒に食べるようになった。
そこから少しずつクラスに友達が増え始めた。

入院から帰ってきたTくんも最初は自分が当然のように一緒についてくるのを見て「ええ?こいつ誰!?」と戸惑って嫌な顔をしていたものの、しつこくグループに所属しようとする自分を仕方なく受け入れてくれた。
服がダサかったので買い物に付き合ってもらったり、一緒にカラオケやゲーセンに行ったりした。

それでも最初は、自分がついてくることを良しとしない人間(いじめっ子)もグループの中にはいた。
カラオケで自分の曲を全て演奏停止されたり、帰り道カバンにセミの抜け殻を入れられたりした。

何度も「俺はここに居るべきではないのだろうか」と考えた。

一緒にUSJに行った時も、みんなアトラクションで自分の隣に座るのが嫌で(というノリ?)、ジャンケンで負けたやつが仕方なく自分の隣に座っていた。

自分は「これはいじめなのだろうか」と思いつつも、
「いや、一緒に行こうと誘ってくれている時点で友達だと認定してくれているのではないか」と思ったりしていた。

後者の感情は、多くの時間を過ごす中で(1年ぐらいかかったと思う)徐々に自分の中で強くなっていった。
そう思えると少しずつポジティブになっていった。
グループの中のいじめっ子のことは苦手なままだったが、彼が不在のときは本音で心から楽しめるようになった。

KくんやTくんを始め周りの友達に恵まれ、人間関係は少しずつ変わり始めた。

一方の部活はというと、高校で始めた野球に大苦戦していた。

昔からスポーツが大好きでずっとやっていたが、あまり活躍できなかったのがコンプレックスだった。(野球部でも1番下手くそでずっと球拾いをしていた)

ある日、父親に部活がうまくいかないことを相談してみると、「ジムで鍛えてみるか?マシンで鍛えたらめっちゃ身体変わるらしいぞ」と何気なく言われた。
そこからジムに入りたいという想いが強くなり、親に頼んでジムに入会した。
(両親は中学受験以降はやりたいことをやらせてくれるようになったので頼みやすかった。今では本当に感謝している。)

ジムに入会し、トレーナーの人に施設の使い方を教えてもらいながら追い込んでもらった。
初めてのトレーニングをした次の日、とてつもない筋肉痛に襲われた。
今まで家で軽くやっていた筋トレとはレベルが違った。

「マシンってすごい」と思うようになり、筋肉痛が取れたらジムに行き、また筋肉痛になり、を繰り返した。

ジムに行き初めて2ヶ月ぐらい経過した頃、マシンで扱える重りが増えていった。

これが「成長しているという実感」を生んだ。
人生で初めて得た「自信」だった。

しかし…

当時流行っていた「アイシールド21」というアメフトのマンガの中で、「ベンチプレス」という競技が強さの指標として描かれていたので、自分は何kgぐらい上げれるのだろう?と思い、ある日トレーナーにやり方を教わり試してみた。

これまでの筋トレで少し自信をつけていた自分は60kgぐらいは上げれると思っていたが、結果は30kg。
マンガの中の最弱キャラと同じ数値であり、大変ショックを受けた。

「こんなに努力してるのにこのレベルって、やはり俺には才能がないんだ。そもそも野球に筋肉要らないし、筋トレしても上手くならないんじゃないか。」

と思いジムにあまり行かなくなった。
父親にも「高校に入って明るくなったと思ったのに、また暗くなったな」と心配された。

それでも、もう一度自分がトレーニングを頑張ろうと思った出来事があった。
野球部の走り込みのときだった。

チーム1の鈍足だった自分が、久々の走り込みで突然上位に食い込んだのだ。

周りも驚いていたが、自分が1番驚いた。
数ヶ月で有り得ないぐらい足が速くなっていたのだ。
(50mは8秒台から6秒台前半まで伸びた。)

筋力アップ?
身体の使い方の理解?
自信の向上?

足が速くなった要因は分からない。でも事実。

その日の帰りはみんなに
「いつからそんなに速くなったんや?」
「やるやん!下手くそやけど代走起用あるな~笑」
と褒められたりいじられたりしていた。

人生で初めてチヤホヤされている感覚。

とても嬉しかった。
ここからまた、ジムでのトレーニングを信じるようになり、再び足繁く通うようになった。

野球部での出来事は些細な成功体験だったが、これが自分を強く動かした。
今までの自分のまま終わりたくないと思うようになった。

本当に死ぬほど努力した。
筋トレ、素振り、走り込み。

結局、努力は実を結ばず野球は下手なままだった。

それでも、スタメンじゃなくても本当に代走で使ってもらうことができた。めちゃくちゃ嬉しかった。

引退試合でお情けで出してもらった代打では見事に三球三振した。めちゃくちゃ悔しかった。

高校2年生で引退だったので、野球をした時間はとても短かった。
(この記事を読んで僕が野球をしていたことを初めて知る人も多いと思う。笑)

選手としてはあまり伸びなかったが、今までの人生になかった大切なものを知ることができた。

「おい下手くそ!」という言葉にも、今まであまり人に相手にされていなかった自分にとっては愛情に感じられた。
練習の帰りにみんなに「今日ちょっと動き良かったやん!」と言われたときは泣きそうになるほど嬉しかった。

今まで味わったことがなかった分、本気でそのときの感情を大事にしようと思った。

このときから、「人に言われた何気ない言葉を、一生忘れないでおこう」と思った。
(そこから今まで10年以上、感情を綴った日記を毎日書き続けている。)

これらは今でも非常に大事にしている価値観である。

高校に入ってから、そして筋トレを始めてから、今までの自分とは比べ物にならないくらい「成長している」という実感を毎日感じることができた。

筋肉もついて身体が大きくなった。
自信がつき、社交性が増した。
周りが自分に興味を持ち始め、積極的に話しかけてくれるようになった。

いじめっ子からもついに認められ、嫌な顔をせず仲良くしてくれるようになった。
隣接する不良高校のカツアゲから友達を守ったときはヒーローのような扱いを受けた。
そこから他のクラス・他の校舎の人たちとも仲良くなった。

最高の高校生活。多くの人に感謝した。

この高校生活があったから、自分の中で「人間関係」というワードの重要性が最上級に上がった。

④高校時代その2 勉強で初めての挫折


日常が楽しく変化していった一方で、勉強に関してはかなり不真面目になり、生活の充実度と反比例するように成績は落ちていった。

当時は高校デビューを果たして友達も増え、思春期を拗らせることで自信が変な方向に働くこともあった。

「俺はやればできる人間だから受験直前だけ勉強すればなんとかなる」
と思っていた。すっかり調子に乗っていた。

朝はゲーセンに行って授業に遅刻するのがかっこいいと思っていたし、
放課後は部活かジムに行っていたので授業の復習もまるでしていなかった。
完全に厨二病を拗らせていた。

そんな矢先、高3に上がるタイミングで初めてのクラス落ちを経験。
中学入学時は特待生としてトップクラスに君臨していたことを思い返すと、さすがにショックであった。

担任の先生に「お前、昔は賢かったのに筋トレばっかするようになって変わってしまったな。残念や」と言われたのがとても悔しかった。

何より「筋トレのせいで勉強できなくなった」と言われることが許せなかった。
自分を変えてくれた筋トレを否定されたのが悔しかった。激しく後悔した。

「悪いのは筋トレじゃなくて俺自身や。」

周りを見返すために、もう一度真剣に勉強した。

自分の原動力は、いつでも「劣等感」や「後悔」だったことをこのとき知った。

受験までの最後の半年は高校3年分の勉強を取り返す想いで努力した。
努力の末、第一志望校である神戸大学工学部の判定はB判定まで成績を戻すことができた。
理系科目には自信があったので、センター試験さえ失敗しなければ合格すると思っていた。

しかし受験本番ではセンター試験で大きく失敗。
国語が83点/200点だった。全科目の合計は73%…

非常に厳しかったが、それでも第一志望を受けるつもりだった。
2次試験に自信があったのでいけると思った。

しかし面談で「工学部は厳しい。海事科学部やったら絶対受かるからそっちにしとけ」と担任に言われた。

その瞬間全てが崩れ落ちた。
担任は自分の挑戦の背中を押してはくれなかった。

自分は心がまだまだ弱い。

これに対して「いや、自分は何としても第一志望を受けます」とは言えなかった。
自信を失い、先生の言うことに従った。
やや難易度の低い海事科学部というところを受験することになった。

とてつもないモヤモヤを抱えながら。

「浪人したくない」
「早く大学生になってもっと遊びたい」
という想いから、行きたくもない学部を選んでしまった。

結果は合格。複雑だけど勉強から解き放たれる喜びだけは嬉しかった。
二度と勉強なんかするかと思っていた。

とりあえず大学デビューに備えて髪を染め、遊び尽くしていた。

ふと周りのみんなの受験結果が気になった。
挑戦した人、妥協した人。
それぞれどんな結果になったのだろうか。

そんなとき、とある人物の受験結果を聞いて、とてつもない劣等感に襲われることとなった。

自分と同じくセンター試験に失敗したのに京大に挑戦し、見事合格したYくんである。
彼の合格は周りから奇跡と呼ばれた。みんなにチヤホヤされていた。

おめでとうと思うと同時に、とてつもない劣等感がこみ上げてきた。

本人の「やったった」という姿を見ると、余計に自分の情けなさを感じてしまった。

受験が終わった後は、再び友人たちと遊びまくったが、一生で一度しかない受験で妥協したという後ろめたさがいつも尾を引いていた。

「もう二度とチャレンジはできない。」
「でもそんなことは今後の人生に関係ない。」
「必死で受かった人も、興味ないのに入った人も、みんな世間から見れば同じ。」

「気にすることはない。人生そんなもん。」

いろんな感情が渦巻いていた。

人間関係は最高であったものの、勉強面に関しては大きなモヤモヤを残したまま、激動の高校生活は幕を閉じた。

⑤浪人時代 挑戦しなかった後悔から、初めて自分の信念を貫く


大学生活が始まった。

大学は中学・高校とは違い、授業に出なくても怒られることはない。
単位を落とすのは自己責任。

自分は高校からの友達と同じ学部だったので入学から行動を共にしていたが、次第にお互い大学に行かなくなった。

全く興味のない学部だったということもあり、家に引きこもった。
根っからのクズと化していた。

そんなとき、両親が離婚した。
当時の自分にはとてつもない苦痛だった。

これまで自分が育ってきた家庭がぐちゃぐちゃになる感じ。

これを言い訳にますます大学に行かなくなった。
無気力だった。

高校の友達にも心配され、無駄な気を遣わせた。自分が嫌になった。

1回生の前期は3単位しか取れなかった。
何をやってるんだと思いながらも、全く動けない。

何もできなかった苦しい期間だった。

そんなとき、転機となったのは8月のこと。

受験時の点数が開示され、郵送で家に送られてきたのだ。
少しワクワクしながら結果を見ると、当時センター試験に大失敗したものの、二次試験は大成功しており、約200人中5位という結果で合格していた。

これを見たとき訪れた感情は、まずは素直な嬉しさ。
次に、トップ層で入ったにも関わらず今の自分は何をやっているのだろうという虚無感。

そして次の瞬間頭に浮かんだのは、「あのとき第一志望だった工学部を受験していたら受かっていたのだろうか」ということであった。

受験なんてもう過去の話なので、普通は何も感じないであろう。
ただ、受験時の「妥協」がずっと尾を引いていた自分にとってはその問題はとても気になった。

テストの内容は同じなので、第一志望の学部の合格最低点と自分の点数を比べることは可能だった。
ドキドキしながら、合格最低点と自分の点数を照らし合わせた。

その結果、なんと自分の点数の方が合格最低点より高かったのだ。
合格できていたはずだったのだ。

とてつもない「後悔」に襲われた。
ただ「挑戦」さえすれば人生が変わっていたというのに。

挑戦をして結果的に成功して京大に行ったYくんに対して、再び劣等感がこみ上げてきた。

「もし妥協せずに第一志望に挑戦していたら、受かっていた。」という事実が自分を苦しめた。
高3のとき、センター試験に失敗した程度で自分の可能性を諦め、浪人が怖いという理由で妥協し、妥協した結果大学に行かなくなり、単位を落としまくった。

「今の自分は何もない本当のクズだ。このままでいいのか。」
1人で悩み続けた。

悩み続けた結果、
「ここでもう一度やらないと、俺は一生後悔する。一生自分を嫌いなまま終わる。」
本気でそう感じた。

別に18歳のときに夢なんてなかったし、第一志望の学部にもそこまでこだわっていたわけではなかった。

普通ならそこまで執着するような問題でもない。
それでも、自分なりの「意地」を見せたいと思った。

このままだと今後の人生、自分は自分を信じられなくなると本気で思った。

そして悩み続けた結果、「受験をやり直したい」という想いに至った。

誰に話しても反対されるので決断までは時間がかかったが、今度こそ自分の信念を貫きたいという想いでついに決断した。

忘れもしない2011年9月21日。
自分は大学を辞め、再度受験勉強を始めることを決意した。

これまでは親に言われた通りのことをし、学校で英才教育を受け、敷かれたレールの上を歩んできた自分が、初めて自分の信念を貫いた瞬間であった。

当時東京で浪人をしていた親友のKくんに再受験についての決意話したとき、彼は自分の選択に対して全く否定をしなかった。

「筋トレで死ぬほど努力していじめられっ子から這い上がったお前やったら、再受験ぐらい余裕やろ。」と言ってくれた。

全くその通りだと思った。
一度どん底を経験している自分は強い。
あの頃を考えると何も辛くない。本気でそう思った。

そして、これを達成したときには「今度こそ自分は自分を好きになれる」と思った。

そこからは、予備校も行かずに毎日独学で勉強した。
神戸大学を中退し、浪人生活が始まった。

勉強を始めた時にはすでに受験まで半年を切っていたが、2回目の受験なので要領はわかっていたし、何より「今度こそ妥協しない」という強い想いで毎日参考書と向き合うことができた。

何よりも「本気になった俺なら不可能はない」という謎の自信があった。

そして 1月のセンター試験は成功。
現役時73%から浪人して89%まで上がった。
学校にも予備校にも行かず、意地だけで努力してこの結果を出せた。

環境とか世間体とかどうでもよくて、「自分がどうしたいか」という気持ちは死ぬほど大事だと確信した。

センター試験の結果的に、現役時代の第一志望よりも上の大阪大学を狙えるレベルであったので、今度は妥協せずに願書を提出した。

別に大阪大学でやりたいことなんてなかったが、家が近かったのと、有名なので行きたいと思った。
本当に自分への償いだけが原動力だった。


そして、2月に阪大を受験。
終わった瞬間、母親に「絶対受かった」と言った。
それぐらい自信があった。
再受験の選択を許してくれた母には本当に感謝しかなかった。

そして3月に合格発表で自分の番号を発見。憧れだった阪大に合格したのだ。
学部で4位という圧倒的な成績で合格した。死ぬほど自信がついた。
そのとき、今までの努力が報われた気がして、思わず涙を流した。

浪人を決意して大学を辞めたとき、自分の選択が正解かなんて分からなかった。
でも合格することで初めて、浪人を決意した自分の選択を正解にすることができたのだ。

この経験から、心から成し遂げたいことに関しては不可能はないと思うようになった。
周りの声なんて関係ないと思えるようになった。

人生で初めて、少し自分のことを好きになれた。
「自分お疲れ様。よくやった。」そう思った。

⑥大学時代 アメフト、筋トレに没頭。数々の後悔


2度目の大学生活が始まった。

浪人中も筋トレは少し続けていた自分は、体重が 80kgあったことから、アメフト部に熱烈な勧誘を受けた。

友達がアメフトをやっていたり、「アイシールド 21」が好きでもともと興味があったこともあり、すぐに入部を決意した。
何よりアメフト部のノリがめちゃくちゃ好きだった。

4年間を部活に捧げる覚悟を決め、自信とやる気に満ち溢れていた。

大学4年間はそれなりに勉強もしながら、筋トレとアメフトに没頭した。

やはり元々筋トレやコンタクトスポーツをしていた自分は周りに比べてアドバンテージがあり、比較的早い段階で試合に出ることができた。

先輩と揉めて辞めようと思ったり、怪我を繰り返して辞めようと思ったり、何度も挫折しそうになったが、その度に何度も立ち上がり続けることができた。

そして今後の人生でも大切にすべき最高の仲間と出会うことができた。

最終的に目標としていた「1部昇格」は果たせなかったものの、チームとして、1選手として、そして1人の人間としてとてつもなく成長することができた。

そのアメフトの中で、自分の中で大きな後悔が3つある。
まず1つ目。

1つ目の後悔:「宣言しなかった後悔」

最終学年の4年生の頃には、体重は 105kgまで増量することができ、ベンチプレスも 170kg上げることができた。

自分はDLという、大きな身体を活かしてディフェンスの最前列で相手とぶつかり合うポジションであり、そのポジションのリーダーを任されていた。

そのポジションは「QBサック」というビッグプレーの数を競うため、最終学年は自分の中で「QBサックの数でリーグトップになる」という目標があった。

同じポジションのフットボーラーなら誰もが憧れるものだ。

しかし、抱負について語る様々な機会、自分はその目標を明言できないのであった。

「言ったのにできなかったらどうしよう」
「口だけで大したことないなと思われたらどうしよう」

という感情があったからである。

そして、部活の HPに載せてした抱負にも「最強になる。」という抽象的な書き方をしてしまった。
これに関しては迷った結果、明言を避け、完全に濁してしまった。

逃げの抱負であった。

このときの感情は今でも覚えている。プレッシャーが怖かった。

同期や後輩たちと個人的な目標について話す機会でも、「絶対勝とうな」と言うだけで、これといった具体的な宣言はできなかった。

そして最終シーズンが終わり、引退して 2ヶ月が経った頃、後輩からある写真が送られてきた。
それは雑誌の1ページの写真で「QBサック数ランキング」の1位に自分の名前が載っているものであった。

もちろん大変嬉しく「俺、こんな成績残せたんや」という感動、達成感が湧き上がってきたが、同時に押し寄せたのは「宣言しなかった後悔」であった。

この日、激しく後悔したのを覚えている。

2回目の大学受験をするきっかけとなった「挑戦しなかった後悔」と感情が似ていた。

悪い言い方をすれば、自分がリーグ1位を取れたのは結果論に過ぎなかったのである。

そこそこ優秀な成績を残すことができたものの、同時に「有言実行」することの難しさ、大切さを知ったのであった。

この後悔から、「有言実行」という言葉を大事にするようにしている。

次に2つ目について話す。

2つ目の後悔:「1プレーへの後悔」

自分は大学時代の自分のプレーをほとんど覚えている。
そのときの感情とか、何を狙ってプレーしていたかまで覚えている。

だから引退した後も何回も自分のプレーを見たし、そのたびに鮮明に状況を思い出すことができる。

もちろん1プレー1プレ―に満足感や後悔はそれぞれあるが、その中でも特殊なものが1つある。

それは自分が出ていないプレーである。

忘れもしない2015年・秋の同志社大学との全勝対決。
4年間の目標であった1部昇格に向けて、絶対に落とせない試合であった。

この試合で自分は人生で最高のプレーをした。

同時に、人生で1番後悔しているプレーもある。

試合中に、タックルをした際に相手の肘が胸骨に刺さって怪我をした。
後から分かったのだが、胸骨が折れていた。
その場では痛みで起き上がれず、担架で運ばれた。

そこからは外からプレーを見ていたが、気合いとアドレナリンもあり、5分ほどで痛みは引いた。

自分がグラウンドにいないと絶対負けると思っていた。
コーチに「復帰します」と言った。

そのとき、自陣50ydsぐらいで3rd downで10ydsと(次のプレーを止めれば攻守交替)
そんなに危ない状況でもなかった。

「ああ、もうディフェンス終わるな。いけるか。」と思い、コーチに
「やっぱ大丈夫そうなので次からにします。これでもし進まれたら行きますよ!」と言った。

そしてそのプレーは外から見守ることにした。
自分が抜けても相手を止めてくれている仲間たちを見て安心していた。

しかし次の瞬間、自分が外から見ていたその1プレーで敵に大きく進まれてしまった。

上手く走られ、一気にゴール前まで進まれた。全く予想していなかった。
慌ててすぐにグラウンドに戻ったが、次のプレーでタッチダウンされてしまった。

結局このタッチダウンが決勝点となり、負けてしまった。

自分は、復帰できる状態であったにもかかわらず、危機感なく「次から」という選択をしてしまった。
もしこの1プレーを自分が入って止めていたら勝敗は変わっていたかもしれない。

大学4年間の中で、1プレー1プレー後悔なくやり切らないといけないとわかっていたが、このような結果になってしまった。

まさか、自分が出ていないプレーにここまで後悔することになるとは思ってもいなかった。
4年間の中で最も重要となった場面で、土俵にすら立てなかったのだ。

人生もそう。その瞬間瞬間に、何が起きるかわからない。

「いつ死ぬかなんてわからないから、毎日を精一杯生きよう」

綺麗事ではなく、本気でそう思うようになった。

3つ目の後悔:「1プレーへの後悔」

先述の怪我により、自分は最後の引退試合に出場できなかった。
もう最後だから体はどうなってもいいと思っていたし、無理矢理試合に出たのだが、最初のプレーで全く動けずに無念の交代を命じられた。

最後の最後にグラウンドに立てず。
後輩にカッコいいところを見せたかったのに。
「俺の4年間はなんだったんだろう」
そう思いながら、呆然とベンチから試合を見ていた。

もどかしい想いで引退した後に、ライスボウルという日本一の決定戦の試合をテレビで見ていた。

日本一のチームの副将が足を骨折しながら出場して大活躍していた。
引退試合で何もできなかった自分と照らし合わせると少し虚しくなった。

後に記事で見たのだが、彼は足が折れていたのに「人生で1番のプレーができた」と言い張っていた。

松葉杖の状態から、まず痛み止めを飲んで、次に足に麻酔を打ち、仕上げに座薬まで打って徹底的に痛みを除去したという。

その記事を読んで死ぬほど泣いた。

「俺はあのとき諦める前にここまでやれたか?」自分に問いかけた。

答えは「No」だった。

自分も十分やり切ったつもりだった。でも本当にやり切っている人のことを見ると、自分の「頑張ってる」の基準なんて低すぎたのだ。

やり切ったつもりなだけで、本心では怪我をして診断された時点でどこかで諦めていた。
可能性を信じきれていなかった。

二度とあの青春は取り戻せない。

(2015.11.1の投稿)

これを見返すと、相当悔しかった記憶が蘇る。

もちろん、後悔ばかりではなく、アメフトをしたことで人生は間違いなく良い方向に変わった。

あの4年間が、特にその中の後悔の念が今の自分の人格のほとんどを形成しているのではないかと思っている。

アメフトに感謝。

⑦社会人になって 本当にやりたい仕事とは何か?


部活を引退し1年の留年を経て就活をすることになったが、特にしたいことがなかったため、周りと同じようにとりあえず大手企業を受けた。

やはり、腐っても阪大アメフト部の看板は強い。
何もわかっていない薄っぺらい自分でも、すぐに内定をもらうことができた。

「やりたいことが見つかるまではここで働こう。」
「最悪、浪人時代のようにやり直せる。」
「そもそも仕事は面白くなくて当たり前だから、プライベートが確保できればそれでいい。」

と、いろんなことを考えながら、自分の進路が決まった。

充実の学生生活を終え、2017年4月、ついに社会人になった。
新入社員の研修は楽しく、同期とも仲良くなれたので最初は毎日楽しかった。

だが、本格的に仕事が始まってからは面白いと感じられなくなった。

自分の仕事は営業であったが、商品がどれだけ売れても自分の給料には反映されないということが面白くなかった。
真面目に仕事をしてもサボっても基本給は変わらないということに納得がいかなかった。

そして「そもそも仕事は面白くなくて当たり前だから、プライベートが確保できればそれでいい。」と割り切り、毎日17:30に退勤してお酒を飲みに行く生活を楽しんだ。

昼休みは同期と上司の愚痴を言い合い、定時退社して合コンに行く毎日。
学生時代モテなかったコンプレックスを晴らすために必死だったと思う。

しかし2年目からは仕事が徐々に忙しくなり、平日は夜中まで残業し休日も出勤も珍しくなくなってきた。
プライベートに避ける時間がなくなってきた。

GWに海外旅行の予定を入れると、上司に「勝手に入れるな、休めると思うな」と怒られた。

そんな絵に描いたようなブラック企業ぶりにうんざりし始めた。

「一刻も早くここから逃げ出したい」と毎日思いながら、残業して終電で帰宅する日々を過ごした。

顔が死んでいた。

このとき、鬱状態に近かったと思う。

毎日出社するのが嫌で吐いたり、蕁麻疹が出たりしていた。

そんなとき、一緒に働いていた隣の席の先輩がついに鬱になり休職をした。

「やっぱりおかしい。俺はこうなる前に絶対やめてやる」と退職を決意した。

そして次に行きたい会社を探したが、全く見つからなかった。
やりたいことなんてなかった。
自分というちっぽけな人間に何ができるかもわからなかった。

とりあえず、自分の人生を変えるきっかけとなった「筋トレ」を極めると「好きなことして生きていく」ことができるのではないかと思い、なんとなくパーソナルトレーナーを目指そうとか考えていた。

そして2018年1月の自分は「2018年のうちに会社をやめる」ことを決意した。

しかし、その意志は時間が経つにつれ何度も揺らいだ。

「何からすれば良いのかわからない」
「本当に安定を 手放して生きていけるのか?」
「周りはみんなサラリ ーマンとして働いている」
など、様々な「やらない理由」が思い浮かんだ。

結果的に2018年中に仕事を辞めることはできなかった。
数えきれないほどの「やらない理由」に挑戦を阻められた。

このとき残業は月100時間を超えることも多かった。

精神状態は限界。
そして2019年になるタイミングで改めて
「2019年のうちに会社をやめる」ことを決意した。

「今までの人生で死ぬほど後悔してきたのだから、もうこれ以上はしたくない」

心からそう思った。ここで奮起しなかったらもう二度と無理だと思った。

今度は同じことにならないよう、先に周りに辞めることを宣言しておき、自分が逃げられない状況を自らつくった。

大学の部活で学んだ「有言実行」を活かそうという考えだった。

周りの信用できる人間たちに「俺は1年以内に会社をやめる」と言いまくった。
「やめる」「やめる」「やめる」そう唱え続けると、本当に自分がやめる姿の想像がついた。
言葉の力は絶大である。

2019年12月のボーナスをもらってから辞めるつもりだったが、とある先輩に相談した際の「貴重な20代の時間をやりたくないことに使うのは勿体ない」との意見が響き、前倒しを検討するようになった。

そしてGWに悩んだ末、今度こそ本当に辞めるという決断に至った。

ビビりながらも上司に「辞めます」と言えた。

本当にここまで苦しかった。
ただ、言えたときは今後の人生に死ぬほどワクワクした。

やっと解放された。俺には無限の可能性がある。本気でそう感じた。


(2019.6.29 愛する同期たちが企画してくれた送別会)

余談だが、退職を宣言してすぐに彼女ができた。

告白をする直前に「俺、仕事辞めるわ。1ヶ月後にニートになる」と言った。
隠しても仕方ないので言ってしまった。
女の子からするとたまったもんじゃないだろう。

しかしその子は「やりたいことやって生きるのはすごくかっこいいと思う」と言って受け入れてくれた。

本気で自分を応援してくれた。

これも人生で忘れられない瞬間である。
その子には今も変わらず支えられ続けている。

(追記:付き合って1年半、2020年8月に無事プロポーズに成功しました。)
(追記:2023年に離婚しました。この話はまたどこかで。。)

⑧退職→ニート→就職 テレビ出演して橋下徹に学んだこと


2019年6月30日、晴れて退職しニートになり、月曜日の恐怖に怯えながら生活することもなくなった。
興味の趣く方向を向いて、シンプルに、本能のままに生きていた。

デートをしたり、YouTubeを始めたり、パワーリフティングの大会に出たり、アメフトをしたり、パーソナルトレーナーの資格を取ったり、テレビに出たり。

お金はないが最高に楽しい日々だった。
自分なりに色々なことを学んだ。

今まで閉ざされていた視野が広がり始めていた。
そんなニート生活が4ヶ月続いた。

しかし、もうお金も尽きるというときに、実際に自分がどうやって生きていきたいかわからなくなった。
充実しているとは言ったものの、この生活には期限がある。
お金が尽きるまでだ。

そんなとき、1件のDMが届いたことをきっかけに、フィットネスベンチャーの本部で働くことになった。
自分が夢中で発信していたSNSがたまたま目に留まり、経歴や考え方がおもしろいと言って「一緒に働かないか」と声を掛けてくれた。

ジム経営は自分がしたかったことであり、ジムの中身を見て「これなら競合に勝てる」となんとなく思ったので、社長に出会って1週間経たずして入社を決意した。

展開が早すぎた。SNSの繋がりは本気ですごいと感心した。

どんな人が見てるかわからないからこそ、発信には無限の可能性がある。
無駄なことなんて本当に1つもない。

ニート期間は色んな経験をしたが、
特に「林修の初耳学」に高学歴ニートとして出演した経験と
GOAL-Bの「松田とガチンコダイエット対決」という企画に参加した経験は
自分の人生を大きく変えることになった。

初耳学では橋下徹さんの話を2時間半聞いた。
「この中で、”今死んでもいい”と思える人はいる?」
「前が見えなくても、今置かれた状況で死ぬほど努力して”燃焼”してほしい」

この言葉が自分の胸に深く突き刺さった。
それからは発信を本気でやった。
発信すれば人生が変わる根拠なんてなかったが、”燃焼”してみようと思えた。

この話に勇気づけられて行動力が増した。

”人生を燃焼”させよう!

今でも本気で言っている。

そして1人でも多くの人に自分を知ってもらいたいと思い、「松田とガチンコダイエット対決」というおもしろそうなYouTubeの企画にも飛び込んだ。

GOAL-Bとの関わりはここから始まった。

この企画の結果も素晴らしいものとなったが、それ以上に、ともに戦った最高の仲間ができたことに喜びを感じた。
(企画から1年近く経った今でも、参加メンバー全員と交流がある最高な状態。)

その企画に参加していたときの自分はものすごく輝いていたと思う。
必死にもがきながら人生を本気で生きていたと思う。

先述の通り、フィットネスベンチャーの社長からDMがきて入社したのもこの企画の最中である。

与えられた状況で”燃焼”するために行動して本当に良かったと思えた。

再就職してからは、入社1週間で面接官をしたり2週間で中期経営計画を作成したり1ヶ月で海外出張に行ったりと、爆速で成長することができた。
大きなプロジェクトの立ち上げをやらせてもらったり、人材の採用をさせてもらったり、会社案内作成を任せてもらったりと、難易度はかなり高いがやりがいのある仕事ができていた。

会社で毎日のように失敗を経験し、怒られ、その分成長していた。
成長できる環境に身を置いていることは本当に大事だと日々実感していた。

仕事以外の面でも、社会人アメフトチームでキャプテンを務めさせてもらい、とても充実した日々を過ごすことができた。

ただ、自分の中で何かが足りなかった。

⑨コーチングとの出会い 自分が命を懸けて成し遂げたいことは?


初めての転職に成功し、前職よりもやりがいを感じ、役職も与えられ給料も上がった。
アメフトチームの主将も務め、毎朝5時に起きて英会話をして筋トレにも行っていた。
貿易で起業することも決意して毎日勉強していた。

充実した毎日を過ごしながらも、何かが足りない日々が続いた。
自分の人生の目的が何なのかわからなかった。

「自分はいったい人生を通じて何を残したいのか?」

ずっと考えていたが答えが出なかった。

そんなとき、コーチングに出会った。

GOAL-Bのコーチ・山宮健太朗。
彼のYouTubeを見て、本当にやりたいことに向けて突っ走る男の生き様に憧れた

自分の人生を見て「充実」していると感じていたが、彼の人生を見ると、それは「夢中」そのものであった。

この状態になりたい。彼を見ると、今の自分が「きついけどなんとか頑張っている」という状態に感じられた。

彼のコーチングを受けることによって自分の心の奥底と向き合うことができた。
もちろん楽しいことばかりではなかった。
今まで心のどこかで言い訳にしていたこと、引っかかっていたことを見逃せなくなった。
とても苦しかった。

英語を勉強している理由がわからない。
起業したい理由がわからない。
今の仕事が本当に好きなのかわからない。

しかし、コーチと共に自分ととことん本音でに向き合った分、
「自分の人生の目的は何か」「自分が心からしたいことは何か」
を少しずつ抽出することができた。

これまでは「筋トレが好きだからジム経営すること」が心からやりたいことだと感じていた。

しかし、自分の過去と向き合ったとき、筋トレ以上に大事にしていたのは「筋トレを通じて生まれてきた人間関係」だった。

自分が本当にしたいことは「優れた経営者になること」ではなく、「お客様と1対1で対話をしてその人の人生に向き合い、より良くしていくこと」だと初めて気付くことができた。


「筋トレ」が自分の外見を変えた。
そこから生まれた「人間関係」が自分の内面を変えた。
そして、自分の大切にしているものがこの2つだと「コーチング」が気付かせてくれた。


コーチングを受けて間違いなく1番良かったことは
「本音で自分の人生を生きて良いんだ」ということに気付かせてもらえたこと。


もう自分に嘘はつかない。今度こそ自分が心の底からやりたいことをすると決めた。


そして、コーチである健太朗に

「GOAL-Bに入りませんか?」と言われた。

「入りたいです。」

勇気を出して、覚悟を決めて言った。

死ぬほど汗だくだった。


今度こそ、心の底からの本音だった。


心と身体が変われば人生は変わる。
これからの自分の生き様でそれを証明していく。
GOAL-Bなら、それができる。
GOAL-Bで、俺は輝く。

そう誓って、2020年9月に株式会社GOAL-Bに入社した。

創業からずっと注目してきた、大好きな会社。
10人目の社員として、人生を懸ける覚悟を決めた。

2回目の転職もとても苦しいものだった。

会社をやめるときは上司と揉めたし、自分の大切な同僚やお客様を裏切ったような気持ちにもなった。

それでも、自分の人生の主役は自分自身。
自分が本能的にやりたいと信じたことをやる。
期待を裏切った分、BIGな男になる。

コーチングで自分とアツく向きあった自分は、27歳にしてまた一回り強くなったのだった。

おわりに


最後まで読んでいただきありがとうございました。
1文字1文字、魂を込めて書きました。

僕がこれまでどのような人生を歩んできたか、少しでも伝わったら嬉しいです。

また、この記事をきっかけに少しでも僕に興味を持っていただけるととても嬉しいです。
そして今後、何らかのご縁があれば幸せに思います。

もしかしたら、今この記事を読んでいるあなたと、何か新しいものをつくっているかもしれない。


いつか「この記事を書いて良かった」と思えるように。
今までの自分の過去やトラウマをさらけ出してでも
「本当の自分を知ってもらって良かった」と思えることを信じて書きました。


これからも立ち止まることなく進化を続けていきますので、僕の生き様を見ていただけると嬉しいです。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!


ここまで読んでいただきありがとうございました!
(2021年6月に、この続きを書きましたので、下記から見ていただけると嬉しいです。)



⑩GOAL-B編その1 入社後2週間で事業責任者に就任


2020年9月、株式会社GOAL-Bに入社。
ワクワクと不安が入り混じった毎日がスタートした。

入社後は27年間過ごした関西を出て名古屋へ。

トレーニングジムGOAL-Bのオープンに向けてドタバタの毎日だった。
前職での知見を少しでも活かそうとジム立ち上げに毎日向き合った。楽しい日々だった。

入社から2週間が経ったとき、レッツゴーなぎらが体調を崩し、急遽フィットネス事業責任者を引き継ぐ形になった。

正直不安の方が大きかったが、事業部全体の責任を背負う覚悟を決めた。

マネジメントについてはわからなかったが、とにかくジム立ち上げまでのTo Doリストを綿密に管理し、10月1日のオープンに備えた。

それでも上手くいかないことの方が多かった。苦しかった。
ある日、事業部のMTGで発言した。

「俺が事業責任者である意味ってなんなんやろ?」

共にジム立ち上げをしていた安慶名健吾とマンティ福原には
「ただ安心するから一緒にいてほしい」と言ってもらえた。

AKIOには
「フィットネス事業部メンバーが本音で話せる環境づくりは遼が1番得意なはず。だから任せてる」

と言ってもらえた。

自分はマネジメント能力には長けていないけど、場を和ませるコミュニケーションでチームをまとめる人間なんだと気付くことができた。
これに救われた気がして何度も奮起することができた。

そしてジムは予定通り10月1日に無事オープン。

初日の営業が終わったとき、全員で泣きそうな顔で喜び合った。
「仕事って楽しいんやな。」
そう思えたことが心の底から嬉しかった。

そのまま多くの会員さんが入会してくれた。
ジムのフロントで会員さんと話すことは何よりも楽しかった。
そしてオープン初月から黒字化を達成し、波に乗っていた。

トレーナーの数が足りないと考え、採用活動も開始した。

そして、自分の大学の先輩である久保田甲斐に何度も断られながら何度も説得した末、1月入社として採用することができた。
甲斐さんが入社を志望してnoteを書いてくれたことも、GOAL-B側もそれを受け入れてくれたのも、心の底から嬉しかった。
「人と人を繋ぐ」ということに関して大きな自信があった。

しかし、11月、12月と時が流れ、ジムの勢いは止まっていた。
コロナの影響や冬という季節柄もあり、入会者がどんどん減っていたのだ。

事業責任者として様々な施策を考えて実行するも、あまり上手くいかなかった。
毎週の経営MTGで売上の進捗を報告する時間が、何よりも苦痛だった。
数字という結果は嘘をつかない。「頑張ったけどダメだった」は通用しない。

考えて考えて、事業計画を何度も修正してはやり直す日々。
夜通し考えても答えが出ず、疲労から生産性が落ちる負のループ。
自分は全く売上をつくれていない。でもマネジメントも上手くいっていない。
現場で頑張ってくれているトレーナーやインターンのみんなに申し訳ないという気持ちしかなかった。

その頃は、社会人アメフトチームの活動も全く上手くいっていなかった。
大阪まで帰って臨んだ試合の1プレー目で脱臼して病院に運ばれたときは、自分の情けなさに涙を流した。

社内でも大丈夫かと心配される日々。
心も身体もボロボロだった。

ある日、社長のAKIOから電話がかかってきた。
「遼、責任者よりプレイヤーをやりたいって想いはある?」

このとき、迷いながらも半分本音、半分はギブアップの気持ちでYESと言った。

こうして事業責任者を退任し、現場の最前線でトレーナーとして活躍することを誓った。
事実上のドロップアウトという形になったが、しばらく抱えていたモヤモヤが吹っ切れた。

入社から4ヶ月後、こうして長畑遼は社内で大きく生まれ変わることとなった。

⑪GOAL-B編その2 プレイヤーとして輝く覚悟


自分は社内で売上に貢献できていない。
かと言ってマネジメントでも成果を上げることはできなかった。
この事実がしばらく自分を苦しめた。

「トレーナーで成果を出すしかない」
自他ともにわかっていた。

パーソナルトレーナーに関しては、資格はもともと所持していて指導は可能であるものの、実戦経験が少ないことが不安だった。

無職期間に知り合い数人に指導したことがあるという程度。
なので、まずは体験会の場に誰よりも多く立ち、指導経験を積むことから始まった。

トレーナーに関するインプットもしつつ、営業やコミュニケーションについても相当な時間をかけて勉強した。
社内の優秀なトレーナー陣のセッションも参考にさせてもらった。

2021年1月。新年を迎え、ジムの大型キャンペーンにより多くの方が体験に訪れてくださった。
毎日のように体験会を担当し、多くの方に入会していただいた。

入会いただけなかったときはその原因を考え抜き、毎回のセッションで出来たこと・出来なかったことをエクセルにまとめた。

自分なりに仮設を立てて実行していくプロセスには何事にも変えがたい楽しみを感じることができた。

次第に入会率は上がっていき、通常会員になるだけではなく自分のパーソナルトレーニングを契約いただける方も増え始めた。
目に見えて結果が出始めた。

「絶対にこの人たちの身体と心をより良くしよう。」
「俺の関わりで、彼らの人生を変える。」
この想いだけで夢中で関わり続けた。

自分のクライアント様が

ベンチプレスのMAXを30kg更新したとき。
8kgの減量に成功したとき。
「初めて筋トレを楽しいと思った」と言ってくださったとき。
「パワーリフティングの大会に出たい」と言ってくださったとき。
「長畑さんと出会えて良かった」と言ってくださったとき。

自分の心に、今まで感じたことのない喜びが走った。
自分を信じてついてきてくれて、結果を出してくれたことにただただ感謝していた。

「仕事って楽しいんやな。」
再びこの気持ちを味わうことができた。

気付けばトレーナー開始1ヶ月で、自分のクライアントは20名を超えていた。
セッション数も月100回を超えるようになった。

開館から閉館までぶっ通しでセッションしたり、睡眠不足でヘロヘロになる日もあったが、トレーナーの仕事は全く苦にならなかった。

パーソナルトレーナーという職業は、今までのどの職業よりも楽しかった。
自分の天職であると今では胸を張って言える。

たくさんのお客様と出会いと別れを繰り返した。

彼らが人生の中で、少しでも「筋トレが楽しい」と思ってくれたこと。
その場面に少しでも自分が関われたこと。

これらはかけがえのない財産となった。

「とにかくなんでも挑戦してみよう」そう思えるようになった。

パワーリフティングでも日本一になることを目指し、ゼロから鍛え直した。
事業責任者時代は満足にできていなかった筋トレも、明確な目標があるから再び燃えることができた。

そして2年ぶりに出た大会では、悔いは残るものの、自己記録を大幅に更新することができた。
同僚の甲斐さんと、そして自分のクライアントさんと共に出場した経験は忘れられない。

「Mr.Japan 2021」というミスターコンテストにもエントリーした。

今までなら、「自分とは無縁だ」と切り離していたもの。それでも挑戦することができた。
(追記:結果、ファイナリストまで進むことができました。)


また、舞台俳優としても輝きたいという欲張りな想いも出てきた。

「舞台俳優になる」という目標を決めてしまうことにより、ミュージカルのオーディションに応募する決断ができた。
そして奇跡的に一発で合格した。

このときに改めて気付いた。

「経験なんて関係ない。向いているかどうかなんて関係ない。全ては、挑戦するかどうかで決まる。」

(追記:2021年8月、舞台は大成功で終わりました。)

自分の挑戦から、一人でも多くの人が、自分の生きたい人生を生きられるように貢献していく。

過去の自分のように大切なときに後悔してしまう人生を送らないように。

自分自身が何度失敗しても這い上がり、強く熱く、泥臭く生きてみせる。
そんな漢になってみせる。

いつか過去を振り返ったときに「エモい」と思えるような毎日にする。

死ぬほど後悔してきた人生だからこそ、残された人生を全力で生きていく。

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