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一番正しい祈りの形

賽銭箱の前で目を閉じて、手を合わせる間、何かを祈るのをやめた。
いつからだろう。

家族行事として毎年訪れる地元の神社は、かなり大きくて、初詣では交通規制が行われるほどだ。
大吉が少ないことで有名だと友達から聞きかじったが、私と姉はこの年に一度のおみくじでよく大吉を引く。
毎年きちんとお参りしているのを見ててくれているんだと喜んだ。

また良い成績が取れると嬉しいです。
家族健康。
合格祈願。
今年は両親が喧嘩しませんように。
誰にも言ってないけれどあの人との仲は進展するでしょうか。

昨年の感謝を述べてみたり、名乗りから始めてみたり、お願いするのではなく宣言するのが効果的だとか、住所と家族構成も言わなきゃ神様にはきちんと伝わらないと信じたのは、どのテレビ番組の影響だったろう。

そんな風に「丁寧なお祈り」をカスタマイズしたって、別段神様は私を助けてくれないのだと、ふと気づいてしまったのはいつだったろう。
目を閉じて、手を合わせている間、感謝も展望も宣言も唱えず、つとめて何も考えないようにしてみた。
その一年が、大いなる不運の連続に見舞われる、なんてことにはならなかった。
私は祈るのをやめた。


父は伝統行事というものに厳格で、面倒だなと思ってからも毎年初詣に連行される。手水作法や二礼二拍手ばかり手馴れて、賽銭箱に投げる小銭の種類に悩むのも億劫で、形だけのお参りが上手になっていく。
おみくじを引くのは変わらず好きだ。ガチャガチャを回すのと同じギャンブル性が心地良い。心なしか大吉をあまり見なくなった気がするが、吉や小吉で適当に満足する。
私はすっかり擦れた大人になってしまった。



どういう話の流れだったか忘れたが、救急車の話になったことがある。
大学2年くらいか、学期始めのオリエンテーションが終わって、空き教室で6人くらい、なんとなく集まっていた。
その子は少し吊り形の目と眉をしていて、何かの委員をやっていそうな(確か実際に委員だった)風貌をしていて、性格もしっかりしている。頭の後ろに下がる二つ結びが不思議と大人っぽく似合う。大正浪漫の文学少女風、と言えば伝わるだろうか。些か美化し過ぎか。話すテンポはおっとりしていて、声を張らないから、その子が口を開くと周りは黙って耳を傾けることになる。一瞬、静寂があった。
彼女はなにか大事なものを共有するような上目遣いで、空気に言葉を乗せる。
「え、でもさ、小さい頃救急車が通ると祈ってた。わたしの命をあげるつもりで」
「今にも死にそうな人が乗ってるんだと思って、どうか助かりますように、って。救急車見かける度に思ってた」
彼女は手を合わせるジェスチャーをした。


その時私の中に広がった驚きが忘れられない。
だって、考えてもみてほしい。
小さい頃って、世界はずっと狭くて、というのは大人になって言えることで、家と保育園か学校、お母さんが連れてってくれるスーパーとコンビニ、みんな集まる公園とその向こう側にちょっとはみ出して友達の家。その狭い地域の中で自分の存在が全てで、日々が繰り返しだなんて知らなくて、毎日が初めましての日だった。「大人」とはむずかしいことをいっぱい知っていて、世界には知らないことがいっぱいある、こともまだ知らなかった。サンタさんはいつどこから来るのか、公園で次にかくれんぼするならどこがいいか、そういうことが目下最大の課題だった。でも次の日には忘れる。そんな日常にサイレンの音が聞こえてきて、世界に緊張が走る。パトカーでもクラクションでも無い、あのピーポーピーポー。方向が分かるくらい音が大きくなって、見えてきたと思うと、あ、という間に白と赤の車体は通り過ぎていく。命を運ぶ速さで。後には冷めた日常が戻ってくる。救急車が通り過ぎた後の世界に出来ることはもう無いからだ。その長いようで短い一瞬、時空が引き延ばされるような異質な一瞬で、子どもが祈る時、本当に命をあげている。


大人になった私たちだから、日本の平均寿命が80歳くらいであることを知っているし、少子高齢化だとか年金問題がいつまで経っても片付かないことも、祈ったって政治は変わらないことも知っている。どうしようもない衝動に駆られて自分の身体を傷つけてもその血を対価に幸福を得られることは無いし、どれだけの涙を捧げても還ってこない人がいることを知っている。「お祈り」と言えば簡単で冷淡な定型文を指すのは現代の何番目の悲劇だろう。


だから大人になった彼女は振り返って「あげるつもり」と言うけれど、その小さな女の子は「つもり」ではちっとも無かったと思う。ちいさな手のひらにはまるいひかりの玉があって、祈るとは、そのひかりを分けることなのだ。たんぽぽの綿毛に息を吹きかけるようにその何分の一かを手放したことは事実で、この限りある綿毛がどうか、どうか遠ざかっていく赤い光に間に合いますようにと、そういう祈りだと思うのだ。



家から近いところに総合病院があって、大通りもあるから、救急車のサイレン音はかなりの頻度で聞く。最近はサイレン音が迷惑だという苦情もあって、メーカーが苦悩していると、さっきTwitterで記事になっていた。
近所を歩いていて目の前を通り過ぎていくこともあって、ドップラー効果だと聞き耳を立てる私も相当最悪な大人だ。すっかり擦れている。
そんな私の目線の先に、小さな女の子が現れる。頭の後ろで二つのお下げが揺れるその子が、まだ見えている赤い光に向かってそっと目を閉じて手を合わせるから、私は空を見上げてあの子のことを思い出す。

私の手のひらを広げてみたって光の玉は見えない。
けれど、人が死ぬ時とは寿命ではなく忘れ去られた時であるそうだから。

元気だろうかと思い出すこと。
擦れてしまった私に出来る、精一杯の祈りの形。

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