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ナポレオンと音楽(前半部)

予防線:本人の誤解と思い込みによって構成されている場合があります

(テーマ写真はいらすとやから拝借)

 ナポレオンというと、馬に乗って天に向かって指をさしている人だろうか。「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」という絵画はあまりにも有名で、誰でも「ナポレオン」という名を聞けば、この肖像画を連想するだろう(ちなみに実際は馬に乗っていなかった模様)。

ボナパルト

 (▲「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」ジャック=ルイ・ダヴィッド ※画像はナポレオン展HP

 この時、ナポレオン=ボナパルトは峠を越えてオーストリア帝国の軍隊を奇襲せんとする真っ最中であった。

背 景

 ナポレオンはヴァンデミエールの王党派の反乱鎮圧で名を上げ、1796年にはイタリア遠征司令官となった。フランス革命で国王ルイ16世が断頭に処されて以降、マクシミリアン=ド=ロベスピエール(山岳派)による独裁政治が続き、ロベスピエールの政治に反対する者は容赦なく処刑された。こんな恐怖政治を続けていたロベスピエールもサン=キュロット(勤労階級)の支持を失って、遂にテルミドール9日のクーデターでその座を追われて翌日には処刑されてしまった。このようにアンシャンレジーム体制が崩壊した後、フランス国内の情勢というのは極めて不安定な状態であったから、市民は安定を求め、混乱を収拾する力がある指導者の存在を望んでいたのは想像に難くない。

ロベスピエールの血

 (▲国民公会を攻撃することを命令するロベスピエールの指令書。署名中に兵に銃で狙撃され署名が終わらなかった。 ※画像は海外サイトから

 この状況の中で、イタリア遠征司令官となったナポレオン=ボナパルトはイタリア各地でオーストリア帝国の軍隊を撃破して、フランスとオーストリア帝国の間でカンポ=フェルミオ条約を締結させてイタリアで5年間も続いた戦争を収拾させたので、まさに混乱を収拾する力のある人物だと民衆からの人気はうなぎのぼりになった

 さて、フランスを警戒するオーストリア帝国、ロシア帝国、オスマン=トルコ帝国、両シチリア王国、ポルトガル、イギリス連合王国は1799年に第2次対仏大同盟を組織した。ナポレオンはクーデターで統領政府を樹立し自身も第一統領となるやいなや、オーストリア帝国とイギリス連合王国に和平を提案したが、これを拒絶され、しかも北イタリアの大部分を奪回されたために第2次イタリア遠征を決行した。この時、敵の裏をかこうとして5月にアルプスの峠をわざわざ越えた。この峠越えの場面を描いたのが冒頭で紹介した「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」である。

(1)Tosca トスカ(原作:ヴィクトリアン=サルドゥ『ラ・トスカ』、オペラ化:ジャコモ=プッチーニ)

 6月に峠越えを果たしたナポレオン=ボナパルトはミラノを経てジェノバ北方マレンゴに侵入すると、7万のオーストリア帝国の軍隊と対決した。認識を誤って兵力を分散したフランス軍は一時的に敗走したが、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー将軍が苦戦のさなかに救援軍として駆けつけ、この結果、勢力が対等になったフランス軍は逆襲を果たした―というのがマレンゴの戦いの経過であるが、フランス軍が一時的に敗走したとき、オーストリア帝国軍のメラス将軍は勝利を確信したあまり、早とちりして勝報を送ってしまった。この誤報に聖アンドレア=デラ=ヴァレ教会が沸いている描写が第1幕で描かれている。少し覗いてみよう。(念のために断っておくが、トスカは架空の話である)

(物語の背景:画家ジャック=ルイ・ダヴィットの弟子であり共和派のマリオ=カヴァラドッシはオペラ歌手フローリア=トスカと恋におち、自分の身が危険に晒されていると知りながらもローマにとどまる。一方、そのころローマは反フランス諸国の北イタリア奪回により再び王党派の手に堕ち、ナポリ王女マリア=カロリーナに支配されていた。警視総監スカルピアはその手下であり、共和派を弾圧している。舞台は1800年6月のイタリア・ローマ。)

(聖具保管係)Tutta qui la cantoria! Presto !...「コーラス隊はここへ、早く...!」
(コーラス隊の少年)Dove?「どこだって?」
(聖具保管係)In sagrestia...「保管室の中だよ」
(コーラス隊)Ma che avvenne?「でも一体どうして?」
(聖具保管係)Nol sapete? Bonaparte... scellerato... Bonaparte...「まだ聞いてなかったのかい?ボナパルトが...あの極悪人がね...ボナパルトがね...
(コーラス隊)Ebben? Che fu?「それで?なにがあったの?」
(聖具保管係)Fu spennato, sfracellato, è piombato a Belzebù!「翼を捥がれ打たれて地獄に落ちたんだよ!」(※敗戦を意味している
(コーラス隊)Chi lo dice?- È sogno!- È fola!「誰がそんなこと言ったの?きっと夢だよ!きっと嘘だよ!」
(聖具保管係)È veridica parola; or ne giunse la notizia!「いや、確かな事だ。今届いたばかりのね!
(コーラス隊)Si festeggi la vittoria!「勝利を祝おう!
(聖具保管係)E questa sera gran fiaccolata veglia di gala a Palazzo Farnese, ed un'apposita nuova cantata con Floria Tosca!... E nelle chiese inni al Signore! Or via a vestirvi, non più clamor! Via... via... in sagrestia!「それから今夜は凱旋パレードがあって、ファルネーゼ宮殿では祝賀会、それから、新作のカンカータをフローリア=トスカと共演するんだ!教会では聖歌を歌うのだ!さあ、準備だ、服を着替えて、もう騒ぐんじゃないぞ!早く聖具保管係へ!」
(コーラス隊)Doppio soldo... Te Deum... Gloria! Viva il Re!... Si festeggi la vittoria!「両方演奏しなくちゃ...テ・デウムを...それからグローリアだ!王様万歳!勝利のお祝いだ!
(スカルピア警視総監)Un tal baccano in chiesa! Bel rispetto!「教会でなんたる騒ぎだ!厳粛に!」


(※翻訳は一致していません)

(▲ワーナークラシック公式 Tosca ※紹介した場面は29:40から)

 そして、それが発覚するのが政治犯チェーザレ=アンジェロッティ(前ローマ共和国大統領)の脱獄に加担したとしてマリオ=カヴァラドッシが捕縛されてからの第2幕である。

(シャッローネ)Eccellenza! quali nuove!...「スカルピア閣下!ああ...大変なことになりました...!」
(スカルピア警視総監)Che vuol dir quell'aria afflitta?「一体なにが?」    
(シャッローネ)Un messaggio di sconfitta...「敗戦しました...」          
(スカルピア警視総監)Che sconfitta? Come? Dove?「敗戦だって?一体どういうことだ?どこで?」
(シャッローネ)A Marengo...「マレンゴで...
(スカルピア警視総監)Tartaruga!「のろまめ!」
(シャッローネ)Bonaparte è vincitor!「ボナパルトの勝利です!」           
(スカルピア警視総監)Melas...「ではメラス将軍は....?」                    
(シャッローネ)No! Melas è in fuga!...「だめです!メラス将軍は敗走中で...!」
(マリオ=カヴァラドッシ)Vittoria! Vittoria! L'alba vindice appar che fa gli empi tremar! Libertà sorge, crollan tirannidi! 「勝利だ!勝利だ!復讐の幕開けだ!暴君は震えあがろう!自由は蘇り、専制政治は崩壊するのだ!

(※紹介した場面は1時間7分50秒から)

 この緊迫感溢れるメロディはいつ聞いても興奮するものだ。マレンゴの戦いで敗戦したオーストリア帝国は7月にフランス共和国と休戦協定と結び、結局1801年にはアミアンの和約を締結してフランス共和国はライン川西岸、ベルギー、ルクセンブルクへの領土拡大に成功し、イギリス連合王国もフランス共和国とアミアンの和約を締結、第2回対仏大同盟は崩壊した。

(2)交響曲第3番(ルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェン)

 マレンゴの戦いで勝利をおさめるなど大きな成果を上げたナポレオン=ボナパルトの民衆からの期待はますます高まり、ナポレオンは賛成票350万、反対票8000という圧倒的過半数を得て、1802年8月に終身統領になり、遂には1804年5月の国民投票で賛成票357万を得て、同年12月に皇帝に就任してしまった(フランス第1帝政)。こうして権力を掌握したナポレオンは大陸諸国の制覇を目指すことになる...。民衆からの人気は最早異常と思えるくらいである。

 さて、ここでナポレオン=ボナパルトに共感したと言われる1人の音楽家にご登場いただこう。その名もかの有名なルートヴィッヒ・ヴァン=ベートーヴェンである。ベートーヴェンと聞けば、真っ先に思い起こされるのは「運命(交響曲第5番)」か、「歓喜の歌(交響曲第9番)」ではないだろうか。第5番第1楽章の重苦しい冒頭と、第9番第4楽章の華やかな合唱部分は有名だから、知っている人も多いのではないか。

 ナポレオンが台頭する中、ベートーヴェンが作曲したのは「交響曲第3番」であった。この交響曲には副題として「エロイカ(英雄的)」という名をベートーヴェン自身がつけているが、当初副題は「ボナパルト」だった(しかもナポレオンに献呈される予定だった)。

 ベートーヴェンの弟子であるフェルディナント=リースの『伝説的覚書』に基づく有名な話によれば、ベートーヴェンははじめ、ナポレオンに対して共感を抱いており副題として「ボナパルト」とつけ、ナポレオンに献呈を予定していたが、ナポレオン=ボナパルトが1804年に皇帝の地位についたと知ると、ベートーヴェンはこれに激怒。「奴もまた俗物にすぎなかったか」と言って献辞が書いてある表紙を破り、後に「シンフォニア・エロイカ」と改題して「ある英雄の思い出のために」と書き加えたらしいが、実際のところ譜面には書き加えた後はあるものの表紙が破られた形跡がなく、リースの話も疑わしいとされている。( ・ω・)  

「後にF・リースが『ベートーヴェンに関する伝記的覚書』(1838年出版、1845年の増補改訂版ではヴェーゲラーが増補)で伝えるところによると、ナポレオンが皇帝に即位したことによって交響曲第3番の表題が《ボナパルト》から《エロイカ》に変更されたとのことだが、リースの記憶は異なる時期のものが入り混じっているようだ。」—『作曲家・人と作品シリーズ「ベートーヴェン」』(平野昭著・音楽之友社出版)73頁より
「つまり、ベートーヴェンが本当に「あの男も所詮は平凡な人間に過ぎなかったのだ。自己の野心のために全ての人の人権を足下に踏みにじったのだ」と怒り心頭で浄書スコアの表紙を抹消したという話が事実であったとしても、それは5月や6月のことではなく、ナポレオンが実際に戴冠式を行った同年12月2日以降のことであったと思われる。なぜならば同年8月26日付でライプツィヒの出版社ブライトコップフ・ウント・ヘルテル社に宛てた手紙(BB188)に「今提供できるのはオラトリウム、新しい大シンフォニー、全オーケストラを伴うヴァイオリン、チェロとピアノフォルテのためのコンチェルタント、3つの新しい独奏ソナタ」と列挙し、「このシンフォニーは本来ポナパルトとタイトルされたもので、通常の全ての楽器の他に特別に3本のオブリガート・ホルンを必要とします」と明記しているからだ。」—『作曲家・人と作品シリーズ「ベートーヴェン」』(平野昭著・音楽之友社出版)73~74頁より
「ベートーヴェンがナポレオンへの献呈を念頭に置いて交響曲第3番《エロイカ》を作曲し、完成間近になって、ナポレオンが皇帝として戴冠したことを耳にして激怒したという話は広く知られている。この話の典拠と考えられるのはリースの『伝記的覚え書き』であるが、それ以前にも似たような話があったとの指摘がある。この指摘は、リースの信頼性に疑問符を付けるもので、新しい作品目録にも言及されているため、今後に対しても影響力が大きいと予想される。ところがリースは、さらに前にも、同じような話をしていた形跡がある。」—『《エロイカ》の表紙に何が起きたのか?』(沼口 隆・国立音楽大学研究紀要)

 ちなみに、この交響曲の第2楽章は重苦しい雰囲気の葬送行進曲となっている。ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬していてこの第2楽章が英雄の死を表現しているため、これがナポレオンに対して失礼になるからと変更した、という説もあるようである。( -ω-)

 然し、ベートーヴェンは半島戦争におけるイギリスのウェリントン将軍の勝利を祝って『ウェリントンの勝利』を作曲している(後述)―いや、たしかに、この頃はベートーヴェンも財産が尽きていたそうであるからこれはあまり根拠にならないかもしれないが―。ただ、これのみならず、1814年3月の末に対仏同盟軍がパリを陥落させた際にはベートーヴェンを含む5人の作曲家により『良い報せ』(序曲と他八曲から成る)が作曲されているし、戦後処理を話し合うウィーン会議(「会議は踊る、されど進まず」で有名なやつ)では、『同盟君主に寄せる歌』、それと会議を称賛する大カンカータ『栄光の瞬間』を作曲しており、「ベートーヴェンが終始ナポレオンを尊敬していた」という説にも疑問が残る。


(▲フランクフルト・ラジオ・交響楽団 Andrés Orozco-Estrada指揮
ベートーヴェン交響曲第3番)

ナポレオン=ボナパルトの没落

 さて、国民投票でナポレオンが皇帝に就任すると、1805年、イギリス連合王国、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国は第3回対仏大同盟を組織した。イギリスはつおい。実はナポレオン=ボナパルトが権力の階段を駆け上がる前、ナポレオンは1798年にイギリスのインド支配に対抗するためエジプト遠征を行い、失敗している(しかも途中でナポレオンは単独で本国へ帰ってしまった)。この時、フランス軍をアブキール湾の海戦(又はナイルの戦い)でほぼ全滅に追いやったのは提督ホレイショウ=ネルソン。これ以前にネルソン提督はスペイン艦隊を撃破した際、右腕を失い、片目を失明していたが、そんな中、フランスのエジプト制圧を見事阻止したのである。カッコイイ!(☆ω☆)

 1805年10月、ナポレオンは屈辱を胸に、今度はイギリスを侵攻しようとしたが、待ち受けていたのはやはりホレイショウ=ネルソン提督である。スペイン港カディスに停泊中のピルヌーブの艦隊が出撃することを予測していたネルソン提督は、艦隊を待ち伏せさせ、フランス=スペイン連合艦隊(※スペインは当時フランスの勢力下にあった)がやってくると「イギリスは各員が義務を果たすことを期待する」という信号を掲げて連合艦隊に対し分断して攻撃を行い、見事大勝した。ちなみに、残念なことにネルソン提督はこの海戦で敵艦から狙撃されて戦死しているが、最期の言葉もカッコイイ。

余は余の義務を果たせり

 ナポレオンはこの海戦の敗北によりイギリスへの本土侵攻を断念せざるを得なくなった。然し、トラファルガーの海戦には大敗したものの、2か月後の12月、アウステルリッツの戦い(又は三帝会戦)でオーストリア帝国とロシア帝国の連合軍を撃破することに成功し、見事第3回対仏大同盟を崩壊させた。

 対仏大同盟を崩壊させたナポレオンは、次に、プロイセン王国とオーストリア帝国に対抗するため、ライン川流域の南西ドイツ諸国の同盟を組織させ(ライン同盟、或いはライン連邦)、ただでさえウェストファリア講和条約で諸邦が独立したために弱体化していた神聖ローマ帝国の息の根をすっかり止めてしまった。

 だが、ここからナポレオン=ボナパルトの没落が始まる。ライン同盟を組織した1806年7月の4か月後、ベルリン勅令を発出して欧州大陸諸国とイギリスとの通商断絶を命じ経済封鎖でイギリスを抑圧しようとした。もちろん、イギリスの経済は打撃を被ったが、一方でイギリスとの貿易を遮断された大陸諸国も被害を被ったため、命令をかいくぐった密貿易が横行したのである。

 「イギリスが対フランス戦争を開始し、両国の貿易関係が絶たれた1793年以降、イギリス国民は穀物価格、とりわけパン用の小麦価格の急速な上昇に見舞われたが、その一方で農業部門は活況を呈した。やがて、フランス皇帝ナポレオンは「大陸制度」TheContinentalSystemを発動し、経済的手段によって敵国イギリスを崩壊に至らしめる戦略を採用した。イギリス国民は対フランス戦争の過程で食糧危機、穀物価格の急上昇・急低落を体験したばかりか、体制崩壊に繋がりかねない大規模な暴動を眼にすることになった。(中略)この第二次英仏百年戦争期のフランス海軍について、1937年に執筆された未公刊論文は次のように指摘している。海洋国家ゆえに海上通商路の安全性確保の任務を負うイギリス海軍と異なり、フランス海軍は18世紀以来、フランスの通商路を防衛する任務を持つことなく、国家の軍事的政治的威信を示す贅沢な海軍 luxurynavyに過ぎなかった。フフランス皇帝ナポレオンは「大陸制度」を発したが、フランス海軍は海上での軍事的支配権を確保できず、経済的圧力でイギリスを打倒するという戦略構想も実現できなかった、と。たとえ、ナポレオン戦争期にイギリスの穀物価格が上昇し、イギリスで食糧危機が叫ばれたとしても、である。(中略)17世紀、18世紀末19世紀初頭のオランダやフランスの経済は物資の輸送を必ずしも海上輸送に依存せず、また両国も背後に広大な陸地と幾筋もの陸上輸送路を抱えていたためにイギリス海軍の海上輸送・港湾施設封鎖は経済的圧力とはならなかったのである。」—『19世紀末農業不況と第一次世界大戦前のイギリス海軍予算―—戦時下における食糧供給を巡る「集団的記憶」——』(藤田哲雄)
 「しかし海上権を握るイギリスは、フランス及び同盟国の逆封鎖をもってこれにこたえ、新大陸貿易の拡大などによって必ずしも大きな打撃を被らなかった。しかもこの制度(※大陸制度)は、イギリスとの貿易を断たれた大陸諸国を苦しめてフランスへの反抗を招き、ナポレオンのヨーロッパ支配を揺るがせる重要な原因の一つとなった。」—ブリタニカ国際大百科事典


※後半へ続く

筆者からのお知らせ:公開後に一部を修正しました。不完全なまま公開してしまい申し訳ありませんでした。後編は執筆中ですので宜しくお願いします

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