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「自分らしさ」はそれを追いかけるのをやめたとき「魅力」に変わる

こんにちは!いけかよです。

昨今「自分らしさ」「自分らしく」「自分らしい●●」という言葉が溢れている気がしています。でも、その言葉に若干のモヤりと疑問を持つ人もいるのではないでしょうか。
ていうか、いけかよはそうです。

「自分」ではなく「自分らしさ」。
「自分がある/ない」というのはなんとなく理解できる気がするけれど、「自分らしさがある/ない」ってよくわからなくないですか?

「自分らしさ」っていったいなんなんでしょう?
そんなよくわからない「自分らしさ」について、今日は考えてみたいと思います。

「自分らしさ」に振り回される理由

「自分らしさ」というものを考えようと思ったら、まずは「自分」というものを考えざるを得ないと思います。自分という存在は、どんな思考と意思と価値観を持ち、どんな生き方をしているのか。自己認識とも言えるかもしれません。

しかし、この自己認識はまたやっかいですね。なぜなら正確な自己認識ができている人ってそう多くはないんじゃないかと思うからです。例えば、抜群にピアノが上手いという才能があったからといって、それを「モーツァルトに比べたら自分なんて全然ダメだ」とか「自分はピアノがちょっと弾けるだけで他にはなんの才能もない」みたいな、謙虚さを越えた過剰な自己卑下があったとしたら、それは正確な自己認識とは言えません。

逆に「ピアノが上手い俺最高。俺以外は全員クズ」みたいな極端な傲慢さもこれまた不正確な自己認識です。

こんなふうに、正確な自己認識ができていない人が考える「自分らしさ」ってどうなるのでしょうか?
自己認識がネガティブすぎる人の場合は「ダメダメな自分」?
逆にポジティブすぎる人だと「めちゃめちゃすごい自分」?

しかしここで気になるのは、この「自分らしさ」というものは果たして誰が決めるものなのか?ということ。

「自分らしさ」を決めるのが自分なのだとしたら、不正確な自己認識のもと、不正確な自分らしさが作られます。

しかし、他者が見る「その人らしさ」という観点でいくとどうなるのでしょう?

自己認識がネガティブすぎる人の場合は、他者から見ればその人らしさって「自信がなさすぎる完璧主義な人」かも?
逆にポジティブすぎる人の場合は、他者から見ればその人らしさって「勘違いしてる人」かも?

なんだか、ちょっと悲しい感じになってきましたね。

そう考えると、「自分らしさ」とうまく付き合っていこうと思ったら、まずは「正確な自己認識」が必要なのかもしれません。

「自分らしさ」は纏うもの

つまり「自分らしさ」というものは、見る人が変わればいくらでも形が変わる、とても曖昧でやっかいなものだということです。明確に定義もできないし、人間はずっと一定じゃないし、「これです!」って見える形で示すことも難しい。

それに、前述したように正確な自己認識がない場合には不幸な感じになってしまう。

じゃあわたしたちはこの「自分らしさ」とどうつきあっていけばよいのでしょう?

いけかよは、この「自分らしさ」というものは、「服」みたいなものなんじゃないかなって思うのです。
つまり、他者を目の前にして纏っているもの。
自分で選んで着ているもの。
もちろんその服は自分の目に見えてはいるけど、客観的には他者からしか見えないもの。
着てみた姿を鏡にうつして見ることはできるけど、例えば背中から見ることってちょっとむずかしいですよね。
同時に、服=自分ではないのと同じように、自分らしさ=自分ではないという意味でもあります。

自分がどんな服を着るのかは、自分がそれを好きだから着るということもあるけれど、自分がどんな人なのかを他者に対して発するメッセージでもあると思うのです。

すごく好きな服を着て、それがすごく似合ってるねって言われると嬉しい。
これって、正確な自己認識がある=自分の体型や肌の色がわかっていて、それに似合うものを着ている状態。
骨格診断やコーディネート術で自分を正確に知り、似合う服をちゃんと着ているということは、正しい自己認識のうえで纏う自然な「自分らしさ」を人に伝えられているということに似ている気がするのです。自分を相手に理解してもらい、ポジティブに受け入れられている状態です。

つまり、自己認識と他者が自分に対して感じている「らしさ」が合致している状態。
そうなってはじめて「自分らしさ」は「魅力」になると思うのです。

逆に、自分の骨格や体型を理解せず、似合ってない服を着てると「似合ってないな」「なんかちょっと変」「もったいない」と思われてしまう。
これは、自己認識が不正確で、服の選択を間違っているということ。極端な話、体型がLLサイズなのにSサイズの服を着てたらさすがに変ですよね。

とはいえ、自己認識は服ほど単純じゃありません。
プロのスタイリストにお願いすれば、体型は正確に判断してくれるけれど、「自分自身」については他者に判断を委ねることはできない。

じゃあ、どうすればいいんでしょう??

 「自分らしさ」について考えるのをやめる

皮肉な話ですが「自分らしさ」をうまく使うためには、まずは「自分らしさ」について考えるのをやめること。そして、正確な自己認識をするための取り組みに集中することが必要な気がしています。

正確な自己認識があってはじめて「自分らしさ」が機能するのならば、まずはその自己認識を調整するところからがスタートです。
自己認識が、ポジティブにもネガティブにも振れすぎているとしたらそれは悲しい「らしさ」を纏うことになる。とはいえ、自分はどう考えたってそんないいところなんてない!とか、正確に自己認識すればするほど自分がいかにダメなのかっていうことしか見つからない!と思う人もいるかもしれません。

ていうか、いけかよはちょっとそう思っています。

しかし、だからこそこの「正確に」自己認識するということが重要な気がしているのです。

つまり、「自分には大して優れた部分はない」と認識しているとしたら、それをただ淡々と受け止めるということです。そこで「だからダメだ」と、ジャッジが入ると、自己認識が歪み始めるんですね。しかし、物事には良いも悪いもありませんし、あなたが優れてないと思っていても、他者はそう思っていない可能性もあるわけです。
そう考えると、「だからダメだ」というジャッジ自体が「正確ではない」ということになりますよね。

つまり正確な自己認識というのは、ただ単に「自分はこう思っている」と淡々と受け止めることにほかなりません。

そして、これこそが「自分らしさ」を正しく使う第一歩であり、そこからはじめて「自分らしさ」が「魅力」になっていくのだと思うのです。

自分を受け入れていることこそが「自分らしさ」の魅力

「自分らしさ」を活用するには、まず「自分らしさ」から離れてみることが重要です。そして、往々にして「自分らしさ」=「あなたらしさ」というのは他者が決めることでもあると思っています。正確な自己認識って本当に難しい。でも、自分らしさを追いかけるのをやめたとき、自分自身を静かに淡々と受け入れることができるようになったとき、その「受容」こそが自然な「自分らしさ」を自分にまとわせると思うのです。

そして、それこそがもっとも魅力的な「あなたらしさ」として、他者の目に映るはずなのです。

同時に、「自分らしさ」は脱いでいくこともできる。自分の中に違和感や変化を感じたら、それは敏感にキャッチしたいと思うんです。新しい服を着るときかもしれないから。

これだけ時代や価値観が激変するなかで、自分自身が変わらないはずがない。変化していく自分を受け入れながら、いつも居心地いい自分らしさを纏えていられたらいいなぁって思うのです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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