漂流都市江古田

 お志ど里がつぶれてセブンイレブンになっていた。お志ど里は古き良き江古田の街の象徴とも言える店で、中高生にこそ大した人気はないもののその店構えは年季が入っておりなかなか趣深く母校の教員やOBには定番の店だった。対してセブンイレブンはどこにでも存在しケチで浅ましく人を貶めることしか考えていない、そんな店である。前者が後者に変わってしまうことの衝撃たるやない。親の死とほぼ同じ喪失感と言っても過言ではない。ああ変わりゆく江古田の街。そう、形あるものはいずれ失われるのだ。江古田の街もその一つだったというだけなのだ。私は青春時代の輝かしい思い出が少しずつ時間という砂に埋もれ見えなくなっていくのを想像した。
 私は高校卒業後1年の浪人を経てC大学の理学部航空宇宙科に進学した。実家から高校までは電車で一時間半の道のり、実家から大学までは高校とは反対方向に一時間半の道のりであった。高校卒業後地方に進学した学友に比べれば大して遠くはなかったものの、私は二度とその道を戻って実家やその先の江古田の街へ訪れることはできないのだ。C大学航空宇宙科に進学するとはそういうことだ。
 C大学はC県にある国立大学でキャンパスはC県の約半分を占める。さらにこの国の科学研究費の100%が割り当てられている国唯一の理学に特化した大学でもあった。ちなみに、かつて両雄と謳われていたT大、K大は今では偏差値も0になってしまい公園と違いは見受けられない。諸行無常である。C大学の中で私が住んでいたのは成田宇宙空港を含む成田学区であった。
 成田学区には麗しの江古田の街と違いラーメン屋は存在しない。というかまともな飯屋など一軒も存在していない。なんとすべての飲食店が宇宙食のみを扱う海原雄山が訪れれば一時間としないうちに死に至るこの世の地獄なのだ。というのもこの学区は事実上宇宙飛行士の訓練所である。宇宙へ飛び立てば二度と娑婆の飯など食えずに地球上の遍く全ての場所よりはるかに貧しい虚無の空間を漂い、文化的に切実な理由から唯一支給された一畳の畳の上でひっそりと息を引き取ることになる。宇宙飛行士を志す者は学生の内から一切の希望を捨てただ人類の礎になる覚悟で修行に励めという学長の方針故なのだ。賛否両論あるが国際的にみてC大学は優秀な宇宙飛行士を数多く輩出しており一定の成果を出していることが伺える。。そのため成田学区の地を踏んだ時点でまともな飯など食うことはできないのだ。
 この地を踏む前、最後に食ったものは江古田のラーメンだった。一心軒の油そば超大盛である。家族が私をC大学に引き渡すにあたってなんでも好きなものを食うことが出来たが、ひとしきり悩んだ後私は結局中高六年間食い慣れたラーメンにしたのだ。普段は腹の限界と幸福値、そしてこづかいとの兼ね合いで大盛に抑えている油そばだったがその時は超大盛を頼んだ。予想通り腹ははち切れんばかりになり食の快楽より苦しさの方が勝ってはいたものの私は何とか麺をすすり無い汁の一滴まで飲み干し、最後に店主に六年間の礼を告げた。
 その最後の飯から早六年である。私は気が付けばC大学の学位を取得し人類の未来を担う宇宙飛行士たる人材になっていた。C大学の授業は熾烈を極め、正直思い起こすのも苦痛である。C大学名物"直進行軍"、C大学名物"油風呂"、C大学名物"撲針愚"などなど…。人間性に80番の研磨粉を付けてごしごしと削るような授業内容だが我ながらよく耐えたものだ。それも人類を、家族を救わんとする意志あればこそである。三月三十一日、卒業式にて卒業証書を受け取ると私は六年を過ごした寮に戻った。パサパサでわずかな塩気のみのする宇宙食を水で流し込んであらかじめ片付けておいた自室を眺める。次の入居者のため念入りに掃除したため塵一つないきれいな部屋だ。私物もあらかた処分してある。六つの学年がひしめく六角放射状に並んだ航空宇宙科の寮のその一区画。おそらく、私が六年を過ごしたこの棟のどの部屋も同じく塵一つなく掃除されているだろう。明日の昼には同級生ともどもみな宇宙に飛び立つことになる。一人一人がわずかな計器と一枚の畳のみが搭載された小さな宇宙船に乗り旅立つことになる。その小さな宇宙船は最初こそ一つにまとまっているものの大気圏外へ脱出後、第一離散点、第二離散点と、ある特定の地点を過ぎるたびに半分ずつに分かれていき別の宙域を漂うことになる。そして第十離散点に到達したとき最後の二機が分離し宇宙の彼方へ死ぬまで進む孤独の旅が始まるのだ。
 宇宙飛行士の目的はたった一つである。それは反物質宙域を見つけることだ。我々の知る宇宙は通常の物質で構成されている。しかしながら宇宙の始まりを考えるに通常物質と反物質は対になって生成されるはずである。我々の宇宙とは遠く離れた場所にはそのほとんどが反物質で構成された宙域が確かに存在するはずでありそれを発見・報告し人類のエネルギー問題を解決するのが宇宙飛行士のただ一つの使命なのである。これまでの探査で反物質宙域は見つかったのかというとどちらとも言えない。我々の宇宙に匹敵するような広大な反物質宙域は見つかってはいないが、ほんの小さな星雲や稀に石ころサイズの塊が発見され地球に持ち帰られている。とは言えそのエネルギーは計り知れないもので、地球のエネルギー問題を覆すにたるものだった。全てを覆す莫大なエネルギー。その甘い汁は人類を完全に魅了した。人々の暮らしは良くなり、環境はかつての輝きを取り戻し、社会は健全になった。なんてことはない、この世に存在するあらゆる問題はエネルギーが有限であることが原因だったのだ。
 四月一日、旅立ちの日。私は宇宙船内に持ち込みが許された1kgの私物のみを持って同級生と共に成田第三ターミナルへと向かった。一人も欠けることなく入学式と同じ顔触れであったが皆の顔つきは変わっていた。心構えという点でもそうだが純粋に瘦せていた。余分な脂肪はおろか余分な筋肉もないただただ軽い、宇宙飛行士として最適な体形。ずっと食べ続けてきた宇宙食には身体をこのように変化させる効果があるのだ。本来食が持っていた快楽をそぎ落とされた食事がもたらす本来人間が持つ快楽をそぎ落とされた人間の姿である。これでいてみな健康には問題がないのだから科学の進歩とはすごい。私は服を脱ぎ同級生に最後の別れを告げると自分の宇宙船に乗り込んだ。これまで味わったことのない孤独が押し寄せる。もう人間と話すことはなくなった。さよなら家族、どうか健康で生きていてくれ。さよなら同期、どうか達者で。さよなら人類、どうか繁栄の限りを尽くしてほしい。宇宙という虚無の荒野を漂うにあたって私はほとんど悟りを開いていた。しかしこの土壇場である煩悩が急に頭を支配する。私は一人呟いていた。
「あ~…ラーメン食べてぇ~…」

 過酷な閉所訓練の甲斐あってか私はわずか一畳の空間で発狂することなく一年を過ごした。この宇宙船に窓はない。仮にあったとしても地球を周回するでもなく虚空を漂うこの船から見える景色はただの虚無であろう。だから無いのだ。したがって時間を潰す手段はわずか1kgの私物のみとなる。私が持ち込んだのはわずかな読書家人生で最も面白いと思った本3冊である。全て既読である。未読の本を持ち込めば最初こそ面白いかもしれないがすぐに読み終わるし、その読み終わった本が駄作だった場合耐えられえないからだ。私は来る日も来る日もただ本を読んで過ごした。定員一名蔵書三冊の小さな図書館、それがこの宇宙船なのだった。
 ある日強い加速度を感じた。地球を出てから遂に十回目。第十離散点を通過し私の宇宙船は最後の同期の宇宙船と分離し真に孤独な旅を開始したのだ。と言ってもなんら変わることはない。宇宙船のわずかな揺れ。ただそれだけである。宇宙飛行士に感慨など無用だ。坦々と残り100年の寿命を探索者として生きることが宇宙飛行士に求められる唯一の精神性であり、私は血のにじむ訓練によりそれを獲得した。あ~っでもやっぱラーメン食べてぇよ!なんだこれは!宇宙食ふざけるな!食こそが人間の生きる意味その根源だろう!よくもまあこんなパサパサの飯を何年も齧っていたものだ。最後に食べた一心軒の油そばの麺のモチモチが、油のうま味が今さらになって脳を刺激する。くそくそ…、宇宙飛行士など途中でやめればよかった。いかに成田学区の警備が厳重とはいえ虫一匹通さない訳ではあるまい。きっと抜け出せたはずだ。泥にまみれて犬に追われてでもアメリカ合衆国の領土扱いであるディズニーランドの中にさえ入ってしまえばいつかはまた江古田の街に戻りラーメンをすすることが出来たのではないか?無論そんなことをすれば家族は村八分になり故郷を追われるだろう。でもそれがなんだというのだ!私の人生すべての喜びを対価にして他人の幸せを支えるなんてあまりにも馬鹿げているではないか。そう私は一点宇宙飛行士の素質に欠けるところがあった。グルメだったのだ。
 私はこの本当に本当に小さな泡のような空間で荒れに荒れた。設備こそ破壊しなかったものの本は一冊バラバラになったし畳には穴が開いた。でもそんなことはどうだっていい。私はまた油そばが食べたいんだ。
 数日すると少し落ち着き、急に仏のような顔になって寝たかと思えば、起きて宇宙食を見て奇声を上げる。他人の目が無いのをいいことに発狂の限りを尽くしていた。ただラーメンが食べたい。自分の望みは本当にそれ一つなのになぜそれが叶わないのか。食欲が低次の欲望だとかそんなことは関係がない。私の唯一の望みが永遠に叶わないのだ。想像を絶するほど悲しい。なんでだ…。どこで人生を間違えた…。ああ格好つけて家族のためにC大学航空宇宙科なんぞに入らなければ良かった。きっと長男だったから弟妹の前で見栄を張ってしまったのだ。ああ、もう少し後に生まれていればこんなことにならなかったかもしれないのに。この宇宙船に操舵輪が付いていたら私はめいっぱいそれを回し地球にトンボ返りしていただろう。たとえそれが人類に対する反逆罪だろうが死刑になろうがである。死ぬまでにラーメンを食べられる可能性があればそれで構わない。でも悲しいかなこの宇宙船は初めから最後まで自動操縦で一切の制御が効かないのだ。定員一名の小さな図書館?とんでもない!正真正銘棺桶である。

 ある日のことであった。私は非常に強い衝撃を感じた。骨の髄に響くような振動と何かがゴリゴリと押し付けられるような激しい擦過音。瞬間ビーッビーッっとなりだす生命維持装置の不快な警告音。何かが宇宙船にぶつかったのだ。この船は大抵の障害物を避ける機能が搭載されている。窓のない宇宙船で内部の人間がなんら操作をしなくたって小惑星の間をすいすい縫って宇宙を航行できる。いや、できるはずだったと言った方が正しいだろう。現に何かにぶつかっているし明らかに異常な警告音が船内に鳴り響いている。なぜぶつかったのかは分からない。もともと不備のある機体だったのかもしれないし、この船の回避能力を超えた速度での隕石の激突だったのかもしれない。しかし一つだけわかることがあった。おそらくそう時間が立たないうちに死ぬということだ。この宇宙船はまさに棺桶そのものでありながらそのくせ人間を生きながらえさせるために非常に高度な技術が使われていた。酸素生成機能、温度調節機能、宇宙食合成機能、糞尿分解機能などなど…。それが一つでも止まれば中の人間は生きていくことが出来ない。この船は宇宙に漂う小さなハビタブルゾーンの泡であり、その泡の膜は今にも破れようとしている。幸か不幸か反物質燃料タンクに直撃しなかったようではある。もし反物質がタンクの外に漏れだせば街一つ消し飛ばすほどの爆発でこの小さな船は宇宙の藻屑になっていただろう。ただまあ今のところ、なんとか死ぬ前に俳句を詠む時間くらいはあるということだ。それじゃあお言葉に甘えて。無限に広がる孤独の宇宙で一句。腹減った、ばかくそまぬけ、許さんぞ。これでよし。
 最後に残された問題はどうやって死ぬかであった。生命維持装置の停止に任せてダラダラと生きながらえるのは苦しいだけで何の益もないことは言わずもがなである。残念なことにこの空間に自殺できるようなものは無い。争う相手がいないから銃はないし、料理の必要が無いから刃物もない。危険なものと言ったら宇宙食くらいで、年老いた宇宙飛行士の何人かは宇宙食を喉に詰まらせて死ぬのだそうだ。最もくだらない死に方である。
 色々思案した結果宇宙空間を一目見て死ぬことにした。宇宙空間に生身の人間が放り出されると血液が沸騰して死ぬなどといううわさがあるがそれは嘘らしい。普通に息が出来なくて死ぬのだ。血液が沸騰するんだったらそんな死に方はごめんだが窒息ならまあ良いだろう。五分で意識を失い十五分もすれば死に至る。比較的マシだ。そうと決まれば善は急げ。私は二度と触ることがないと思っていた宇宙船のハッチに手をかけると細い腕に力を込めて回し始める。おいおいなんだか楽しいぞ。すっかり棒切れのようになった腕が折れるんじゃないかと思いながら少しずつ回し続けると、やがてプシュっと短い空気が抜ける音がした。もう二度と拝むことがないと思っていた宇宙船の外である。瞬間宇宙船内にまばゆい光が差し込む。そして私はとんでもないものを目にした。宇宙船の外はなんと江古田駅であった。なんで???

 清涼な空気の香り、ゆらゆらと踊る花壇の花々、柔らかな太陽の光。私の乗っていた宇宙船は江古田駅の前の三角の花壇に突き刺さっていた。見れば線路を横切り相当距離引きずられたと見える。私の乗っていた宇宙船は江古田駅の前の三角の花壇に突き刺さっていた。私の乗っていた宇宙船は江古田駅の前の三角の花壇に突き刺さっていたのだった。私はいつの間にか地球に戻ってきていたのか?何らかの方針転換で宇宙船の軌道が地球へ戻るように変更されたのか?もしかして反物質宙域が見つかり任務は終わったのか?なぜ着陸地点が江古田駅前なんだ?あまりの出来事に様々な思考が回り続けた。そっと地面に足を踏み出す。そのままヒタヒタと地面を歩いてみようとしたがすぐにこけてしまった。宇宙船内ではずっと寝転がったままだったのだから無理もない。久々に感じる地面の感触。突然目じりに熱いものがこみ上げて頬を濡らした。止めどなくあふれてくる涙。そうか私は戻ってきたのだ。孤独で貧しい宇宙の果てから豊かで温かい地球へ…。ぶるぶると心臓が震え温まっていくような無上の喜びがそこにはあった。家族に会おう、人類の繁栄を享受しよう、本を読もう、そして毎日ラーメンを食べるんだ!
 江古田駅前の花壇で突っ伏しながら顔をしわくちゃにして泣いていたが、ここであることに気が付く。人がいない。一人もいないのだ。おそらく昼頃だろうと思われるが人っ子一人いない。交番の中に警官はいないし酒井精肉店、アミューズメントフタバの中にもいるようには見えない。興奮とありとあらゆる感謝喜びに打ち震えていた体にスッと冷水が浴びせられたような気がした。思えば酒井精肉店もアミューズメントフタバも既に江古田には存在していないはずだ。私が地球を発ってからどれだけの時が流れたか知れないが、高校卒業時には既にスーパーなどに変わっていた。私は過去に来てしまっている。強い重力の影響で時空が歪んだとしても過去に行きつくことはない。これは夢か現か。
 私が諸々の理由で動けずにいると馴染みのラーメン屋である一心軒の方向線路沿いの道から奇妙なものがやってきた。ぱっと見火星人である。ツボを逆さにしたような頭には二つのつぶらな目が付いており下からは無数の触手が生えている。それをヌタヌタと動かしながらゆっくりとこちらに近づいてくるのだ。おお、なんということだ。接近遭遇は時間の問題である。
 目の前までよっこらよっこらという具合に近づいてきた暫定火星人は四つん這いになっている私の前で触手を地面に這うように広げ頭の高さを下げると触手の内一本を動いているんだか分からないくらいの速度でゆっくりと私に近づけてきた。その様子は他人の犬に触るがごとしである。私は震える手でそっと手を握り返した。触手は乾いていて表面はゴムのようであった。火星人の触手が掌の中でぺちぺちと跳ねる。どこから出しているのか分からない笛のかすれたような音をピピー、プブルーと鳴らしている。何かを確認したのか二本三本といくつも触手が伸びてきて私の全身をぺたぺたと軽くタップしてくる。なんだこれは。しかしなんというかとても懐かしい感覚。私は火星人のぬるま湯のような体温にそれ以上の温もりを感じてまた涙腺が緩んだ。
 火星人は唐突に触手を私の右腕にからめると来た道の方へ引っ張り始めた。私をどこかへ連れて行こうとしているのだ。棒切れのようになった足をゆっくり動かして私なんとか引かれるがままに歩いて行った。運動能力はすっかり衰えていたはずだが不思議と歩くことが出来た。地球よりも重力が弱い気がする。太陽も色が違う気がする。ここは地球ではない気がする。でも宇宙船の中より豊かであった。仮にここが地球ではなかったとしても風は吹き日光が差し込み緑は青々としている。どこだっていいのだ。
 私は気が付けば一心軒の中で座らされていた。目の前には恋焦がれ発狂するほど求めていた油そばが鎮座している。しかも超大盛が三つ。というのも私が火星人に腕をひかれ一心軒の中に入った時には既に机の上にあったのだ。不思議なことに今しがた作ったばかりのようだ。丼が暖かい。食べられるのか。私が思考と感情、そしてかぐわしきラーメンの香りにやられて呆然としていると火星人がまた鳴いている。ピブブルー、ププー。冷めないうちに食べろと言わんばかりだ。ええいままよ。瞬間よみがえる学生時代の思い出。そうだ、この味をもう一度味わいたかったのだ!久しぶりの麺類に身体がびっくりしたのかむせてしまったが私はがつがつと食い続けた。モチモチの麺がこれまで封印していた食欲の井戸を掘りあていくらでも食べられるようだ。ああ、食こそ人間の幸せの根源なのだ。
 いくらでも食べられると思ったが物理的な限界というものが存在するのか私は丼の半分を食べたところで箸を止めざるを得なかった。油そばがもたらす多幸感とおそらくは血糖値上昇により何やら意識が朦朧とする。というかちょっと気持ち悪い。私の意識はそこで途絶えた。
 次に意識が戻った時火星人はどこにもいなかった。三杯の油そばは忽然と消えていた。そしてその両方とも二度と現れることがなかった。一人になった私は江古田を散策することにした。ゆっくりと休憩を挟みながら半日かけて私は喫茶ぶなにたどりついていた。ずるずると階段を降りガラス戸を押し開け店内に入る。暖色の明かりが木製の机と壁にところせましと並べられたティーカップを照らす上品な空間だ。窓際の柔らかな椅子に腰かけると私はようやく一息つくことが出来た。一心軒で油そばを食べてから結構な時間が立ちやや腹が減っていた。しかし不思議と食欲はなかった。その瞬間江古田駅の方向、外にまばゆい光が―――

 ツボを逆さにしたような頭と無数の触手を持つ、とある生命体が宇宙の果てから家惑星に帰ってくるとひどい有様であった。先日捕まえたペットがその飼育箱共々消し飛んでいたのである。彼は触手を頭にからめてボールのようにコロコロ転がった。

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