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写真や絵に触れるように


noteを始めてもう2年4ヶ月になるらしい。

使い始めて2ヶ月ほど経ったとき、私はこうつぶやいてた。


「~である」という口調、リアルのコミュニケーションでまず使わないな。以前誰かのnoteで、こういう文体を読んだとき、ちょっとその人とは距離を置きたくなる、引いちゃうって書いてあって、なるほど・・・と思った。

「第一の読者は自分自身」という考えは、ずっと変わっていない。だから、読み手にはひとりよがりな文章と思われても仕方がないし、実際そうだと思う。

そんな自覚を持ちつつ、結論としては、後悔はない。

全く後悔してないかというとそれは嘘で、初めての投稿でたくさんの方に文章を読んで頂けて、それが嬉しくて「いつか恩返しします」みたいなつぶやきをしてしまったことは後悔している。

身の丈に合わない、できるわけない約束を安易にして(つぶやきを読んだ人はもうなんにも気にしてないと思うけど)、自分の想像力のなさを露呈させる行動だったから。愚かすぎて、思い出すと恥ずかしいのでそのつぶやきは削除済み。

でも、その有頂天になったり自己嫌悪に陥ったりした時期、私の情緒不安定っぷりに手を添えるように「どうぞマイペースに続けてください」とコメントを頂いたことがあって、それがすごく励みになった。

そのコメントをくれた方は非常に情熱的で聡明な文章を書き続けている方だったので、そんな方からの言葉だということもあって、指針にしていこうと思ったのだった。

それがこれまで書き続けてこれた理由のひとつになっている。もちろん、みなさんの魅力的な文章、コメントや、スキからも。

計画的にnoteを始める方と比べてしまうと、本当に見切り発車な始め方だったと思うけど、元々石橋を叩きすぎて割ってしまう性分だった自分には、こうでないと始められなかったと思う。

「マイペースに書き続ける」ことを守って、ぽつぽつと書いてきて、振り返って思うのは、私の文章は写真みたいだなってこと。

というのも、前職を辞めてから数か月経って、スマホのカメラロールが殺風景であることに違和感を感じたことと関連している。

私のスマホのカメラロールは、ここのところ姪っ子の写真や、学びがあった言葉のスクショであったり、何かの都合で撮らなければいけない事務的な写真とかでほとんど埋め尽くされていた。

病気になる前の方が、何か風景を収めようとしていた自分がいる。以前は写真が好きだった私は、いつのまにかそうした何気ない写真を撮ることをやめてしまっていたことに気付いた。

だから、昨年の夏から一人で歩いて外出する際に、ふたたび意識的に写真を撮るようになった。

それからはカメラロールに撮った道端の花とかが混じっているだけで、なんだか安らかな気持ちになる。

一見何でもないように見える写真は、私には、なぜその写真を撮ったのかがわかる。

忘れずにおきたい気持ちや感覚。

私が今まで書いた文章も、おんなじだ。

だから、統一感がなくて、人によっては負担を感じることもあるかもしれないけれど、「今日はこんな気分だったのね」くらい、適当に捉えてもらえたらありがたい。

アルバムみたいなものです。

入院する以前に水族館で撮ったクラゲ。




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