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横山操 赤富士

日本画はなぜ、多様性に恵まれているのか?

複雑で壮大な問いの答えは意外と簡単なところにあったりするのはよくあることで。自分としてはこんな理由からなのではないかと思うのです。

ということで以下の表をごらんください。

じゃん


日本だけがずっと日本だった、ということがあるのではないか、と。この辺って、改めて見てみると、すごいことだな、と思います。

次いで長いのはあえていえば大英帝国の王室とかになるかと思うのですが、それにしたって日本の皇室の方が長い。とはいえ、正直、

「天皇家の昔の部分って、古事記とかの神話だから嘘の可能性もあるんじゃないの?そもそも、神話ってわけわかんない、ありえない展開してるし。」

と思ったこともあります。


でも、よくよく考えてみれば、過去のことが伝説化してしまうことは、よほど映像や文書などで記録していかない限り、よくあることです。

思い切り低俗な例でいえば、「〇〇高校のA先輩って昔、超、悪だったらしいぜ」なんて伝説化してしまった先輩話、っていう。あれと同じなのではないかと思うのです、笑

たった数年ですら、「先輩ごとき」が伝説化してしまうのですから、記録が口伝中心で、ましてや、その対象が国で、しかも言い伝えられる時間の長さがウン千年ともなれば・・・

「神話」を変にいう気はないのですが、荒唐無稽な物語となってしまうことは自然なのではないかと思うのです。


だって・・・なんか語る時って、やっぱ興味持って聞いて欲しいから盛りたくなりますもん、笑


話がそれましたが、そんなことで、単純に積み重ねた時間が長いから、「多様性に恵まれている」っていうのは、変に持ち上げるわけでもなく、事実、一つの強い根拠になるのでは、と思います。

では、

その日本画の「豊かさ」ってなんなの?

ということなんですが、これに自分なりの答えを見つけるとすると、例えば、以下のような意味があるのでは、と考えています。


例えば鎌倉時代。この時代は日本の宗教絵画の歴史上、作品のクオリティや技術が、最も高い水準に達した時代だといわれています。

色使いや図像の美しさだけではなく、金箔を張り合わせて厚みをだした金箔を糸のように細く切って文様を描いていく「切金」・・・よりさらに難しい、銀箔を使って切金を行う「銀切金」が施された作品は、この時代以外にはほとんど見られません。

水準が高まった理由の一つとしては、当時の時代背景があるようです。

ご存知、鎌倉時代といえば、源平の時代。いたるところで戦さがあって治安は悪いだけでなく、加えて疫病や飢饉もあって生活していくのが本当に苦しい時代だったそうです。

でも、そんな時代だからこそ、祈りの文化が隆盛していく、とういうのはなんとも皮肉なものですが、だからこそ「せめてあの世では楽になりたい」と浄土信仰が栄え、仏画の描画技術は最高水準に達し、数々の傑作が誕生します。国宝の中でも名作中の名作といわれる「那智の滝図」や「普賢菩薩像」などは、この時代のものです。


以上の例から、日本画の「豊かさ」が何を表しているのかというと。

仏画1つを取ってもこれだけの背景や経緯があるわけです。

もちろん、前回までに説明した、障壁画、南画、水墨画、まあ、色々に、それらが生まれた文化的な背景があるわけです。

絵の題材だけでなく、技法や作風そのものが多様に、どう時代的に存在して発展している訳ですが、これって他国と比較した時に、作風のレンジが異常に広いことが分かります。

もちろん仔細に見ていけば違いはあるんですけど、パッと身の大きな違いって、ない。

欧州なんかは油絵は写実という大きな方向性から外れることはなくて、日本の美術のように、紙に書いたり絹に書いたり、軸にしてみたり襖にしたり、カラフルにする一方でモノクロにしてみたり、リアル追求したり、しかもモチーフが人間以外の動物とか、多岐にわたって、しかもそれら1つ1つがジャンルとして確立していたりとかは、他に例がないわけです。

西洋絵画はメインはあくまで人間主体で、まともな静物画なんかは登場は意外と遅いんですよね。(個人的には、登場、というのは存在ではなく、1つの作風として確立して、さらにエポックメイキングな作品が登場した結果、ジャンルとしてポジションが確立された、と定義したいと思います)

個人的には、カラバッジョ位までなかったかのように感じてるくらい。


ということで、絵画の作風とは、その当時の「民族単位での精神の状態を反映している」のではないか、と考えていて、日本の絵画がゆたかなのは、すなわち日本人の文化、価値観が非常に多様性に満ちた、豊かなものだったのではないか、と感じているのです。

ちなみに、現代にこの考え方を当てはめるなら、「日本画のことを知らない」という現状は、みな「日本のことを知らない」ということと同義、ということになるのでしょうか。


10年くらい前、確か松井冬子さんが登場したあたりとかって「日本画ってなに!!?」みたいなテーマが、かなり美術業雑誌や業界で取り上げられたりしていた記憶があります。

(松井冬子さんがブレイクするきっかけの一つに、東京都現代美術館での2006年に開催されたMOTアニュアルというイベントがあります。

このイベントが、確か「No Border 『日本画』から/『日本画』へ」」というタイトルで「日本画とは何か」というテーマに対しての新しい答え、的な展示として開催されていました。


でも、昨今ではそのテーマすら、すっかり取り上げられなくなってしまいました。

もう、みんな「日本画とは何か?」という疑問すら、そもそも抱かなくなってしまったかのようです。この状態を現代に例える時、「今では(日本人って何?)という問いを立てること人すら、誰もいなくなってしまった」と表現してもいいのかもしれません。

非常に個人的な、大した根拠もない見解が続きますが、僕はこの結論を得た15年以上前、「日本人は精神的な絶滅の危機にあるのではないか」などと思ったものでした。


今日の日本画

横山操 赤富士

横山操の赤富士を題材にした絵は、当時本当に大人気で、まさに飛ぶように、よく売れたようです。

何を隠そう、この構図の「赤富士」の画は、商業界がを扱う「売り絵画廊」さんなどに行くとよく見かける図柄でもあります。が、その絵の元ネタは、この横山操が元祖と思ってよいでしょう。

ということで、赤富士は横山操にとっては、大ヒットした「商品」なので、当時は本人が「ゲロを吐きそうだ」と語るほど描いていたそうです。当然、売り絵なので、大半が個人のコレクションとしてお家にあるために、公的な場所でその作品が見られる機会はあまり多くはありません。というか、実は僕も作域の良いものの実物はまだ見たことがありません。

という、こんな事情があって、本当は今回紹介したい作品は以下の画集に載ってる作品だったりするのですが、この作品画像をネットでは見つけることができなかったので、近い作品を載せております。

類例作は時折、画廊などで見かけることができるのですが、とても色と絵肌の質感が魅力的なので、ぜひ機会あれば実物を見て欲しいです!

現代の日本画 (10) 大型本 – 1991/6
横山 操 (著),‎ 児島 薫 (編纂)


横山操はつい最近の人です。最近といっても、亡くなったの1973年だから、もう40年も前になる。僕が最も影響を受けた画家のうちの一人。

現代の日本画家の巨匠、加山又造、最近2009年に他界された平山郁夫と同期に当たる人で、もし生きていれば、間違いなく現代の日本画の方向性は大きく変わっていたはずです。そのぐらい、他の追随を許さないほどにダントツに天才で本物の画家であり、芸術家だったように思います。

理由はといえば、相当に豪胆だったとか、酒飲みだったとか、いろいろエピソードはあるらしいんですけど、なんといっても、魅力はその作風。


写実的な描写など一切なくても写真のように見えてしまう真実性、迫力。

それらを実現させる斬新な空間構成と描画アプローチ。

古典から現代的なものと、多岐にわたる様々なモチーフのセンス。

繊細さと大胆さを併せ持った筆使いや色使い・・・

など、どれも当時から今に至るまで、他の日本画には見ることのできない特徴ばかりだったのです。

例えば上記の作品。

陰影表現や透視図法とは全く異なる表現の概念が前面に押し出されている点などはとても面白いと思います。

僕の目には、「具体的な色の変化や細かい描写」が無いにも関わらず、本物の実景、現地の空気感を感じさせられる横山操の風景画は、常に新鮮に見えました。

他にも、地平線に目線を持ってきて、そこに島や木々など、風景のパーツをフォトショップのレイヤーのような概念で画面に重ねるように配置していく、まるでジオラマを作るかのような独特の空間構成の発想、というか造形感覚もとても面白いと思います。

これは水墨山水画の空間認識に似ています。


そして、何より決定的なのが、抜群の色彩感覚。

上記の風景でいえば、手前の金色の草と、奥の茂みの暗さ。対比も面白いけど、それぞれの色が綺麗で、なおかつ本物の風景の色を感じさせます。赤富士の画は、本当の赤富士を見てみると、「あ、あの画と同じだ!」と思うこと請け合いです、笑

※ ちなみに、先ほど「陰影表現がない」と書いたのだけど、この絵を見て「暗いところあるじゃん」と思った方もいらっしゃるかもしれません。個人的には、これは「立体感を表現をするために光源を設定して作る陰影」とは意味がちょっと違って、単に「草むらや森に日が届いていないが故の暗さを表現した黒」という「色」として扱われているように感じます。

通常、風景画でもなんでもそうですが、写実性をもたらそうと思うと、「黒」という色は非常に扱いづらい色なのです。色を使って絵を描いていくと、「まっ黒」を使わなければいけない箇所ってほとんどありませんからね。西洋絵画で同じアプローチを取っていて有名なのはブラマンクです。


こんな感じで、横山操の作品を調べていた時は、新たな図像を見つけるたびに、東洋画にも西洋画にもなかった世界観と、斬新な表現方法に感動していました。

中でも、豪快なブラッシュワークを全面に押し出した荒々しいものは、当時の世界で流行していた芸術表現をリアルタイムで取り入れていたようです。その作品はインパクトも大きくて、当時は世間的にも美術ファンの間で話題になっていました。

※ ちなみに、これは落雷で焼けた五重の塔をアンフォルメル的に(具体的な形を伴わない表現)描いたもの


さらには、古典的なモチーフを新たな解釈で描くことにも挑戦していて、横山操の没後、時間が経ってから見た僕ですら、「日本画にはまだまだ可能性がある!」と思えたし、実物を目の前にした時の圧倒的な「魅力」は、僕に

「写実性は、絵画表現の持つ良し悪しの判断基準の一要素でしかない」

ということをはっきりと結論づけさせました。


その意味で、より日本画を探求してみたい、と思えたのは、横山操は大きなきっかけの一つです。

これらの特徴は、同時代はもちろん、今に至るまでの「日本画」の作家の中では例がありません。なので、日本画の文脈でみたとき、横山操は圧倒的に「異端児」だったし、実際に当時のメディアなどでも、そう書かれていたみたいです。


作風の展開が既存の日本画とは一線を画しているにも関わらず、画を見たときには不思議と「日本の画」であると認識させてくれる。

そんな不思議な魅力があって、異端児と呼ばれる一方で、「日本画の救世主」なんて呼ばれ方もしていたのも面白いと思います。今思うに、彼が異端児なのではく、「彼以外」が正統から外れていたのではないかとすら思えます。

なので、「日本画らしい日本画とは何か」「どんな要素があると、自分は絵を見たときに日本の画と感じるのだろう」という模索を長く続けていた自分にとっては、横山操はヒントとインスピレーションの宝庫でした。

技法についても、多くのインスピレーションを得ました。

たとえば、上記の2点の風景画は、既存の芸大や絵画教室で教えている「デッサン」という方法では描くことができません。

赤富士なのどは、その制作過程の書いた随筆などから読み解くに、ワンカラーを主体にして他の色をさしていく、という墨彩画の様な彩色アプローチをとっていたことが伺えます。

また、大きな筆使いで大部分を作った上で、細かく直接的に樹木の様なディティールを描いていく書き方は、昔の円山四条派の襖絵のようなアプローチです。

こうした、随所に日本画の古典的、伝統的な日本画の巨匠たちの描画アプローチを取り入れていた、というのは決して偶然ではないでしょう。

というのも、横山操は「情熱的で豪放磊落」というイメージを持たれることの多かった作家ですが、この技法が「なんとなく」や「いきあたりばったり」で行き着くことはありえないと思うからです。作風の変遷から伺えるあたり、相当に研究もしていたのだな、と思います。


もっともっと沢山の絵を描いて欲しかったし、沢山の人を育てて欲しかったのですが、横山操は1973年に53才という若さで逝去。
その後、日本画は同時代の画家であった平山郁夫と加山又造の手に委ねられたのでした。


よかったら、昔「美の巨人たち」という番組で取り上げられていた時のリンクもつけておきます。よかったらこちらもご一読を。


この横山操に影響を受けて制作を展開する菅原健彦先生が京都造形芸術大学教授で教鞭をとられているとのこと。面白い作品がありました。いつかお会いしてみたいものです。



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