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長澤蘆雪 山姥図

日本画って何?と、聞かれることが、よくあります。

日本画とは何か。どう説明したものか。これは結構悩ましい問題です。
そもそも「アートと聞いて何を思い受かべるか?」と聞くと、多くの人は 

ピカソ ダヴィンチ 印象派 

と口にする。
じゃあ日本画は?と聞くと

北斎 浮世絵 水墨画 

という答えが、それこそもう、金太郎アメの様に出てくる。みんなどっかで口裏あわせてるんじゃないか、というぐらいに見事に同じ答えをいいます。


この状態は、個人的には

外人に日本のイメージを聞いた時に「フジヤマ・ゲイシャ・ニンジャ・サムラーイ!」って言ってるのと同じことではないかと思っています。


要するに日本人なのに日本人の美術について何も知らない、ということなのですが、もちろん、これがダメ、とかいう話ではありません。自分も茶道とか着物とかはもちろん、床の間とか茶道とか、関連しそうな分野についてすら、ほとんど知らないですし。

ではなぜ僕自身が「日本人なのに日本の美術のことを何も知らない」「もっと知りたい」と思うようになったか、というと、美大に入って「日本画」を描こうとしても全く描けなかったからです。


もちろん、淡々とやり続けていけば、いつかは、デッサンや色の使い方、塗り方を洗練させていって、そのうち写真のようにリアルに書くことができるようになるかもしれない。もしくは、激しく絵の具を画面に叩きつけたり、アニメのような絵を描いたり、怖い図像やキャラクターを描いて「深い」思索世界を提示することはできたかもしれない。

でも、そことは違う、デッサンの技術も足りてなかったけど、そもそも、そこじゃない、もっと本質的な部分で、何かが違っている感じがしていたのです。


当時、パッと見の要素としてすぐに思い当たったのは、「マチエールの違い」です。

「マチエール」とは、絵画でいう絵肌、要するに表面の質感のことです。西洋絵画は油絵なので、多くの人が想像する絵の表面は「ツルツル、テカテカ」かもしれません。

では、日本画の表面はどうなってるでしょう・・・?



今から15年以上昔、地元で学部生として僕が当時見ていた現代の「日本画」はこういった感じ。上から順に4つ、5つ見ていただければイメージはつかめるかと思います。
https://www.nitten.or.jp/exhibition/03_list_japanese_all.html

これは「日展」という、現代の日本画壇の3大派閥の1つが運営しているホームページです。当時通っていた学校は、この日展に所属する方が教授だったので、作品の制作指導がこの作風に寄るのは自然なことでした。今もイメージはほとんど変わってないですね。


一方、その大学に入学する前に「これが日本画かー」と感動した、僕が想像していた「日本画」のイメージはこれ。

川合玉堂 二日月 1907年(明治40年) 東京国立近代美術館蔵


パッと見、明らかに違うことはわかるけど、具体的には何が違うのかわからない。

というのが当時の自分の感想でした。当然、墨を使うのが日本画、というイメージがあるから、後のものの方が日本画っぽいけど、前のものは色がついてるから油絵っぽい。とか、思いつくことは色々あるものの、どれも決定的な要因ではない、という感じでした。

ところが、実物を見比べると全く違うことがすぐにわかります。


これは今でもそうなのですが、日展に展示される作品の多くは表面は「ザラザラ」だったり、中には油絵のように「ゴツゴツ」だったりします。なので、たまに現代の日本画の展示会場で、お客さんが「日本画と油絵の違いってなんなの??」という話をしているところを耳にしたりします。

それがどうかしたのか?

と思うかもしれませんが、絵画にとって、この「マチエール」は非常に重要な要素です。このことは美術の授業でも詳しく語られることはまず、ありません。美術、アート、表現を語る上ではマストと言ってもいいほど重要な要素なのに・・・

服で言えば柄やシルエットに加えて、生地などの素材が重要なのと同じ感じです。いわゆる、「質感」とも言えるかもしれません。女性だったら「肌がきれいかどうかで若さや可愛さが大きく左右されて見える」みたいな言い方したら、よく分かってもらえるのかもしれません、笑

この「質感のもつ良さ」をこれ以上、どう伝えたら良いのかは迷いますが、例えば、西洋絵画の巨匠、フェルメールの絵なんてのは、図像だけで言えば、結構「普通」です。

では図像の他に何がいいのか? といえば、何しろ、あの「陶器のような」つるっとした、ひんやりとしてそうな? 絵の表面の質感(マチエール)、もとても大きな魅力だったりします。

こんな形で、絵画を「もの」として見た時の「質感の良さ」から考える、ということは、「絵画」という分野では非常に重要だったりするのです。

どのぐらい重要かというと、この概念なしに「絵画表現」を語ろうとすると、どうしても「センスのよいイラスト」との良し悪しの区別が付きづらくなってしまうのです。


でも、そもそも、なんでそんなに違うのか!!?

それには、近代における材料の変化、そしてその材料の変化を生んだ、歴史や文化の変化が深く関係していました。

今日の日本画

長澤蘆雪 山姥図 1797年(寛政9年)重要文化財 厳島神社宝物館蔵

近年、有名美術史家である辻惟雄先生の著作「奇想の系譜」を発端に、江戸時代後期の作家たちの熱い再評価が進んでいる。

とくに、伊藤若冲などはその最たる例ですが、今回ご紹介する長澤蘆雪は、その若沖ほどではないにせよ、大きく再評価が進む絵師の一人である。


蘆雪は、日本画の中では「狩野派」の次に有名な、もしかしたら、ちょっと美術に興味のある人ならわかるかもしれない、「円山派」の絵師です。

円山派のトップは円山応挙という絵師。同じく江戸の末期、まだ写真はもちろん、リアルに絵を描く、という概念や技術がなかった頃に、とても”東洋的な写実”とでもいうような作風を展開して凄まじい影響力を持っていました。

蘆雪はその中でも、最も秀でていた弟子の一人だったといわれています。


この作品を見たのは、芸大の大学院を受験しようと実家に引きこもっていた時期で、時間的自由の効いた当時は古今の気になる美術展覧会には可能な限り足を運でいたものでした。そんな時、たまたま立ち寄った広島・厳島神社の宝物館で見かけたのが本作。

作品に見とれて厳島の宝物館を出ると日が暮れかけていて、厳島神社の舞台で美空ひばりの「愛燦燦」をバックに、何か舞踊のイベントが開催されていたシーンを今でも思い出します、笑


さて、この作品にある山姥というのは、足柄山で金太郎を育てた乳母のこと。なので、この作品の主題は、あの金太郎からとられています。正確には人形浄瑠璃で有名なエピソードの一場面とのこと。

初めてみた人は、ずいぶんと醜悪な顔で、一体どこのバケモンか、と思ったかもしれません。

山姥自体は、様々な説話や言い伝えを図像にした場合、大体は山に住み着く怪物のように描かれます。しかし、日本の昔話のヒーローである金太郎と絡めて描かれる時は、普通はもう少し綺麗なイメージになることが多いようです。

たとえば下記の画像は喜多川歌麿の作で、少し大げさに言えば「金太郎という神童を育てた聖女」的なイメージで描かれているように見えます。

となると、今回紹介している図像が、当時の「普通のイメージ」から多少、というか、割と距離をとったイメージである可能性を推察することができます。現代で例えるなら、時々ネットで、アンパンマンとか、ドラえもんを筋肉ムキムキでかいた漫画やイラストを見かけますが、あんな感じなのかもしれません。

この辺りに僕の蘆雪の好きなポイントがあるのだけど、たぶん、蘆雪は、ものすごく「やんちゃ」な人だと思う、笑

多分、というか他の作品をみる限り明らかにそう。たとえば、画面からはみ出すほどいっぱいに像や牛をかいたり、薄い墨であちこちに線を引いて、その線の先にナメクジをかいたりと、やりたい放題なのです。

応挙という、国民的スターからお墨付きをもらったやんちゃ坊主。これを例えるなら、エリザベス女王からお墨付きをもらったセックスピストルズ、相撲協会からお墨付きをもらった朝青龍・・・といったら言い過ぎかもしれないけど、そのくらいの奔放さと実力、評判とを合わせ持った人かな、と思います。とにかく、日本絵画最強のやんちゃ者、というのが僕の持つ蘆雪の人物像です。

なぜか、いたく共感できる、笑

※ 蘆雪のやんちゃぶりは司馬遼太郎も題材にして短編を書いてるほど。この「最後の伊賀者」という短編集に「蘆雪を殺す」という、なんとも物騒な題名の短編が収録されてます。

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山姥の作品の話に戻すと、図像の面白さ以外の部分にも、しびれるような佐々の冴えを、随所に感じ取ることが出来る。これは写真では分かりにくい部分なのだけど、山姥の体全体を構成する筆使いが、ほんとうに、冴え渡っている。

線だけを見てみると、鋭くスピード感たっぷりに走る様子が気持ち良いのだけど、画全体を引いて見てみれば、その線が山姥の服や体の線を構成していることがわかる、という具合に、間近で見た時人遠目で見た時、それぞれの視点で違った性質の快を感じることが出来る。

その線の種類も「遅・早・太・細・薄・濃・潤・渇」全ての種類をつかっていて、それなのに全体はあくまで即興的なタッチで描かれている。これらのことから、本作の作者が、筆の技術だけでも並々ならぬ使い手であることがわかる。

古来の日本画の中には、これは流派にもよるのだけど、こんな感じの、身体芸術的な面白さを持っていた側面が多分にあったと思います。

けれど、こっち方面の技術は今の美大芸大では全く教えられる人がいなくて、かろうじて水墨画のカルチャーセンターなどで活躍する一部の水墨画家の方が講義の中で触れている・・・かもしれない、というのが僕の認識です。なにしろ、入学試験は西洋絵画技術の「デッサン」だし、笑

あと、山姥の腰から落ちる帯?に、金色の絵の具で描かれた文字のフォントも美しい。これも写真からでは分からないのだけど、本物は一筆で素早く、一気呵成に描かれたらしい、「バチっ!」としたマチエールになっていて、この部分だけでも、まるでこの部分が印刷されたかのような高い完成度を持った絵肌になっていた記憶があります。

※「印刷されたような絵肌」をさして「高い完成度」とイコールするつもりはないのだけど、一発で、迷いなく、すばやく簡潔に仕上げると、まるで機械で正確に仕上げられたかのような、手仕事を超越した表面の「完成度」になるのです。この絵のこの部分の良さを今表現するとしたら、こんな表現になってしまう、ということで今回はご容赦を。

それと同じく、服の文様なども、非常に丁寧に描かれていて、まるでその部分だけ本物の衣服を貼り付けたかのような緻密さがあります。これだけ色々な要素が混在しているのに、画面全体の構成には狂いがなく、どっしりと安定している。


なにより、金太郎のキャラが極めて怪しい、笑 

この不気味に醜悪な山姥にしがみつくこの赤い怪童はなんなんだ、とツッコミを入れたくなる仕上がり。

画面上の、大胆かつ湿潤なタッチでバッサリ描かれた扇のようなものも謎の装飾品だし、山姥の顔あたりから、妙な負のオーラが出てたりするのも面白い、この時代では、、というか、そもそも絵画ではほとんど見かけない表現です。

裾のあたりにザクザクと線を刻んでいるあたりもとても痛快で、特にこの画面で最も濃い黒を、容赦無く使っているのもこの部分です。これがまた、画面の色彩構成上のアクセントにもなっていて、結果、画面の四方八方に余すところなく見所があって飽きさせない。


絵全体は不気味なイメージでも、その根底にはユーモアがあり、しかも、そのユーモアには裏打ちされた高度な技量とセンスが伴っている。

おそらく画題の意味的にも、金太郎だけに、5月人形とおなじく、男子の健やかな成長・・・と思うんだけど、笑 そんな意味が込められている。ということで、それぞれの視点によって様々な味わいや楽しみや発見がある、この絵がとても好きなのです。 



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