『とりあえずビール、コーヒーはブラック』
「とりあえず、カシスソーダで」
「わたしは完熟梅酒のソーダ割り」
有美との付き合い始めはこんな感じだった。僕たちは、20歳を過ぎて舌が幼いことを共有していた。20歳が大人っていう考え方がもう子どもだけれど。
スターバックスに行っても、いつも僕たちは名前が長くて甘い飲み物を頼む。そうやって甘くておいしいものを分かち合う。有美といるときは、男だからとか大人だからとか、気にしないで好きなものを頼めた。
今日は曇りで、雨はまだ降りそうにない。僕はひとり、有美と待ち合わせの喫茶店に入る。
僕は4人席のテーブルに座りカフェ・オ・レを頼んだ。スマホを目的なく触っていると、それは運ばれてきた。
白いコーヒーカップの中にキャメル色の細かな泡が張っている。一口すすると、甘くなくて苦くなくて、仄かにコーヒーの味と香りがするけど、舌は牛乳を飲んだときと同じで乳の成分を受け止めてしまう。
「待ち合わせなんですけど」
と言いながら客席を見渡し、僕を見つける。
有美が透けている薄手の黒いコーディガンを脱ぐと、ダークブラウンのタートルニットから青白くて細い腕が生える。ノースリーブだった。僕はうっかり目を反らしそうになった。コーディガンを2つに折って、空いている隣の椅子に掛けた。
「待った?」
「ぜんぜん」
「そっか。すいませーん」
有美は、店員が来るまでの間に長細く三つ折りになったメニューを開いた。
「ブレンドください、ホットで。ブラックで大丈夫です」
僕は店員の後姿を見送ると彼女に訊いた。
「話ってなに?」
僕は子どもだから、あまり待てない。たぶん、大人は同じ場面を何度か経験していて「あーあ、またか」とか「これはまだやり直せるかな」とか考えている。でも、結果がわかっているのにゆっくりする意味ってあるか。
「まぁー落ち着こうよ」
落ち着こうよ? 僕は落ち着いている。少なくとも落ち着こうと制されるほど取り乱していない、はずだ。
コーヒーが運ばれてきた。有美は熱さを怖がって、ゆっくりとコーヒーに唇をつけた。じゅっ、とすする。
「あー、おいしい」
その言葉は、有美がビールを飲んだ時も聞いた。有美はいつからかビールを飲むようになって、遠慮がちに「ビール飲んでいい?」と頼んでいたこともあった。最近は「生1つ」と言うようになった。ゴクゴクと喉を踊らせながら本当においしそうに飲む。梅酒では見られない躍動だった。
僕の知らない間に、彼女の舌は大人になっていた。今の彼女なら、サザエの先端をおいしいと言いかねない。むしろそこがおいしいと言いそうな気配さえする。
だから、
「最近どうしたの?」
と訊いたことがある。昼はカフェをやっているカジュアルなお店で晩ご飯を食べていた。そのとき彼女は、
「サイテー!!」
「はぁ? てかはぁ?」
そうだった。店内のカップルがケンカし始めてしまって2人で目を合わせて周りにバレないように笑ったんだ。
思い出して頬が緩んでしまう。僕はカフェ・オ・レを飲んで誤魔化した。
「あのね」
唐突に彼女は語り始めた。どこか不安そうにしている、という女を演じているような、いつもよりワントーン低い声だった。
「好きな人ができたの」
ため息をつきそうになった。
「うん」
「その人ね、社会人なんだけど、頭の回転も速くて、いろんなおもしろいお店も知ってて、だからっていうわけじゃないけど、優しいし素敵だなって思ったの。だから、嫌いになったんじゃないんだ。ほんとは、ほんとはまだ好きなのかもしれないけど、でも……別れて?」
「うん、わかった」
本当はわかってないし、まだ別れたくないけど、これ以上有美を好きになることはなくて、この気持ちは下り坂になると予想できる。
小さなケンカすらなかった。味覚の違いが原因でもない。でも、噛み合わなくなった。2人でいることがぎこちなくなった。
「あっさりしてるんだね。わたし、成長したいって思ったんだ」
成長したい――っていうかなんでしゃべり始めた?
僕があっさりしているのは、有美の解像度はもう上げられないからだ。「なんで別れるの?」「成長したいってどういうこと?」訊けば訊くほど粗くなるだろう。でも、こんなに早く好意が急降下するとは思っていなかった。
「わたしもっといろんな経験したくて」
「うん……うん……うん………」
有美は変わりたいんだろう。タートルニットが似合う女性、優秀な社会人と付き合う大学生、ビールやコーヒーがおいしいと言える大人――。
でも、理想の有美の隣に、僕はいないんだ。
有美は別れる理由に関することを一通り話すと、あることに気づいた。
「わたしたち、今日の服の色と飲み物の色同じじゃない?」
「ほんとだね」
僕はまだ、カフェ・オ・レがしっくりくる。
おわり
※投げ銭制です。おまけは「やり方」について。
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