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英語のそこのところ 第11回 It’s my pleasure.

著者 徳田孝一郎
イラストレーター 大橋啓子

「あんた、途中から変わったからね」
 年始の寒空の下、吉田が山本に言った。それを聞いた山本の動きが止まる。上げかけた熱燗の入ったコップがテーブルに戻った。
 新橋の露店の呑み屋だ。吉田は山本の教え子で、年末に会計士の試験に合格したという報告があり、じゃあお祝いしようということで、新年会がてら酒を呑むことになったのだ。
 吉田と山本とはもう20年来の付き合いになる。付き合いと言っても、初めて会ったのが吉田が10歳、山本が24歳だったから、こうやって大人の付き合いになったのは、最近のことだ。何かがあれば、連絡してくる山本にとっては気の置けない友人になっている。
 吉田が山本を「あんた」と呼ぶのは、20年も付き合えば五分の付き合いになってしまって先生とは呼びにくい、というわけではなく山本が昔から先生と呼ばせなかったからだ。教え子は「山さん」「山くん」「おじさん」「あんた」などと適当なその時の気持に合った呼び方をする。さすがに「山本」と呼び捨てにされたときは、てめぇ、今なんて呼びやがったと言ったりもするが、それもじゃれ合いのうちで、本気ではない。
 だから、山本の動きが止まってしまったことは、あんたという呼び方のせいではない。吉田たちに出会った20代の一番荒れた生活を思い出していたのだ。
「1年目は荒れてたからな」
 しばらくして、山本はぽつりとそういうと、熱燗を口に運んだ。吉田は焼酎のお湯割りだ。お互いにおやじになった。
 当時、山本は目標にしていた就職先が躰の障害のために就職できないことが判り、あわてて大学の就職課に行き、求人票の中から一番給料がよかった塾の経営会社に応募し、就職したのだ。なので、やる気はまるでない。教育にも、営業にも、経営にもまったく興味はなく、授業はボロボロ、朝まで呑んで出社するのは当然で、口には出さなかったが、働くのはお金のため、なんで、おれがガキのお守をせにゃならんのだと思っていた頃だった。
「なんで2年目から?」
 吉田は言葉を継ぐ。
「それは、お前らのおかげさ」
 臆面もなく山本は言う。ちょっと恥ずかしいこともさらりというのが山本の特徴だった。
 だが、それは山本にとって実感だったのだ。働くのはお金のためと割り切っていた自分を、変えてくれたのは吉田たちの学年だった。
 例えばこんなことがあった。
 いつもどおり退社時間ぴったりに帰ろうとする山本を吉田たちが捕まえたのだ。どうしたら国語ができるようになるのかと真剣に尋ね、教えてくれと頼む。1分たりとも残業したくない山本は、テキストをノートに写す練習でもやれば、といい加減な答えをしたのだが、クラスのほとんどがそれを忠実に実践し、ノートを真っ黒にして写してきたよと自慢げに持ってこられた時には、本当にまいった。そんなことで、国語力が上がるわけがない。しかし、できるようになりたい一心で、疑いもせず生徒たちは山本のいうことを実践していたのだ。
 山本が最低限こいつらにだけは正面から接しようと思ったのはそれからのことだ。すると不思議なもので、彼らの国語の成績は自然と上がっていった。成績があがれば生徒は喜ぶ、そんな他人が喜んだ顔を見て自分もうれしくなっているのが、山本には不思議な感覚だった。働いてお金以外のものをもらっているような気がしていた。

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「お前らのおかげで、ちょっとは真人間になったのさ。人が喜んでいるのを見て、うれしいと思えるようになったよ」
 と山本は繰り返す。
「あんたのそういう恥ずかしいことを言うところは、変わらないね」
「思ったことを素直にいうのは、変わらないな。嬉しければきっちりうれしがる」
 山本はそういいながら、こういうところは今勤めている英会話スクールのNative English Speakerの講師たちに少しはいい影響をあたえているかなと思い始めていた。


 日本の英会話講師は外国人を日本に招聘する日本政府のJETプログラムで来ることが多い。彼らの多くは、就職ができなかったとか、異文化体験を積みたいからという動機でJETプログラムに参加する。当然、講師の経験があるわけではないので、講師としてやる気はない。まったくない。いきおい「こなす」以上の仕事をすることもなく、受講生のスキルが上がろうが下がろうが関係ないと思っているのが本当のところだ。
 腰掛で2,3年楽に稼いで(彼らは1日3~4時間週5日働いて300万前後の年収を得る)、母国に帰る。という趣旨のことをNative English Speakerから聞かされたことも1度や2度ではない。腹立たしさも感じるが、自分もやる気がなかった山本としては一方的に批判できない気持もあって、最低限のことをやってくれさえすればいいかなと思って接している。なにしろ、Native English Speakerは生きていくために仕事は仕方なくするもの、仕事のために生きているわけではないと考えている連中なのだ。
 だが、そんな講師でも変わっていくことがある。
 なにも大仰な講師研修をしたわけではない。きっかけは他愛のないことだ。

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