見出し画像

怪物

祖父は、カナコが中学3年生のとき、朝の散歩中に心不全を起こして急逝した。
残暑の厳しい、9月のはじめだった。連絡を受けて授業を早退したカナコは、仏間に寝かされている祖父の遺体と向き合った。
「倒れているのを、農家の人が見つけてくれたの」母が目をうるませながら言った。
79歳で耳はかなり遠くなっていたものの、祖父はまだ元気で、この日も温泉に一泊旅行に出る予定だった。
それどころか、また首長選挙に出るつもりでいた。

カナコはセーラー服のまま、仏間に寝かされている祖父の遺体を前に座った。
胸の上で手を組み、いまは静かにまぶたを閉じている祖父。
まわりが騒然とするなか、カナコは祖父に付き添いながら頭のなかで同じことを考えていた。

これが死。自分にとってはじめての、家族の死。
なのになんてことだろう。
少しも悲しくない。わたしは。

その頃、またしても祖父を選挙に担ぎ出そうとする人々が、代わる代わる松屋家を訪れるようになっていた。
祖父もその気になっていた。まだ自分を必要としてくれる人はいる、と確信したのかもしれない。
しかし、今回はさすがに祖母も父も反対した。年齢を考えれば、もう政治からは身を退いてほしいと思っていた。
まえの選挙で母が大病したことも背景にあった。

家族の賛同が得られず苛立ちをつのらせたか、祖父は、ちょっとしたことで怒りを爆発させるようになった。
カナコや園子の目の前で祖母を怒鳴りつけて平手打ちを食らわせる。
祖母との会話に気を取られて挨拶が遅れた母を叱りつける。

一番ひどかったのは、夕食の席で父に暴力を振るったことだ。
何がきっかけだったか、誰も覚えていない。
とにかく祖父は、父の言った言葉が気に食わず、いきなり立ち上がった。
「なんじゃおまえ、誰に向かって言うか!」
それまで聞いたこともない声だった。
驚いた父が、何か言った。
すると祖父は、ものも言わず、手にしていた箸でいきなり父を突きにかかった。

とっさに身をかばった父は、手を傷つけられた。
父も逆上した。「この…!」
そこから、すさまじい取っ組み合いになった。

椅子がひっくり返り、食堂のガラス戸が外れた。
ビール瓶が倒れ、コップが割れた。
祖父と父はもつれあいながら仏間になだれこんだ。
母が悲鳴をあげて追っていく。「お義父さま! 宗男さん! やめて!」

カナコは目の前で起きたことが信じられなかった。
姉の園子も、凍りついたように椅子から動かない。
おじいちゃん、おはしでお父さんを突き刺そうとした……

やがて、仏間が静かになった。
ガラス戸の外れた食堂の前の廊下を、祖父がものも言わず通りすぎ、二階へあがっていく。
父も母に付き添われながら食堂に戻ってきた。
顔は蒼白で、まだ殺気立った表情をしている。
幸い、傷は浅かった。消毒してもらったあと、父は無言で出ていった。

「カナちゃん、もう部屋に行ってなさい」
母が涙ぐんだ目で言い、割れた食器を片付けはじめた。
カナコは迷って姉を見た。
園子は、言われたとおりにするよう目くばせし、席を立って母を手伝いはじめた。
カナコはのろのろと席を立った。
食堂を出るとき、祖母だけが何事もなかったように知らん顔で食事を続けているのに気づいた。

思えばその頃からだったかもしれない。
カナコの胸の奥で長くとぐろを巻いていたどす黒い生き物が、とうとうかま首をもたげはじめたのは……。


もう、怒鳴りあいも暴力も見ないですむ。
お母さんも、泣かなくてすむ。
静かな生活が送れる――
そう思ったとき、はじめて涙がこぼれた。

わたし、喜んでいる。
おじいちゃんが死んだことを。

ものも言わずに泣いているカナコを、大人たちは放っておいてくれた。
家族の突然の死にショックを受けている、ただ幼気な中学生に見えたか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?