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夕紀子の夏


「もう、夏ですね」


夕紀子はそう言って、髪の毛を左手で耳にかけた。ほんの五分前の空には赭光(しゃこう)がともって夕紀子とわたしをしきりに炙っていたのに、気が付けば夕闇はもう迫っていて、曇色(くもりいろ)に翳ったわたしと夕紀子の空間を呑もうとしている。
わたしの肌は五月の空気に含まれた夏を確かに感じている。

遠くに響く子供たちの遊び声や、無造作にアスファルトに撒かれた打ち水が、夕刻の街路に夏を忍ばせているのかもしれない。とにかくわたしと夕紀子は夏の一歩手前にいる。

鬱陶しい雨季前に来た汗ばむくらいの日に、それはわたしたちの期待していたことだった。

空が鳴っていた。それはどこかのサイレンかもしれないし、地鳴りかもしれなかった。夕紀子はそれを耳そばだてて聞き、そうして、わたしは夕紀子の肩を押さえた。薄膜のような骨を右手で包むようにして。
じっとりと汗ばんでいるTシャツの身ごろを、ゆっくりと下に引いてやると、夕紀子はいたわりに満ちた目でふいにわたしを振り返った。なぜか少し首を傾げていて、わたしに凭(もた)れかかったまま目を閉じてしまった。

夕紀子、おまえはほんとうにわたしに良く似ている。


          ***


「……何か言った?」


「夏になると、どうして夏から思いが逃げてしまうんだろう。 今はこんなに夏になることを望んでいるのに」

「季節は来てみるとどうということはない。 その季節に身を任せるだけだ。体も心もその季節に従う。ただ、次に来る季節に思いをはせることは自由だ。必ず季節には前兆がある。春は夏、夏は秋を、秋は冬を、冬は春を孕んでいる。それを感じるのは匂いだ。季節には匂いがある。たぶん個人的な記憶がそれぞれの季節の匂いなんだろうけれど、その匂いを今現在の季節を飛び越えて嗅ぐと、夏なら夏という自分だけの記憶が弾かれたようになる。行ったことのない蒼い海岸でも、自分にとっての記憶の積み重なりの底に立ち昇ってくる夏の情念を支えるものなら、よろこんでイメージできる。僕の場合、それは蚊取り線香だったり、ヒグラシの鳴き声だったりするけどね」


             ***


「照り返しがきたよ。夕映えだよ。」


太陽の消えた空は、橙から濃い青への無限の諧調にいろどられながら、無音で空を鳴らしていた。夕紀子は気づいた。この音が空を鳴らしていたことを。

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