君が眠っている間に:愛を囁くだけの話
「課長、こっちこっち」
本田がきつねうどんを持って席を探していると、彼の名を呼ぶ声がした。食堂の喧噪の中でもよく通る声は、間違いなく熊谷理沙のものだった。
無視をする理由もないので、本田は手を振る熊谷の席まで行き、隣へ座った。
「聞いてくださいよ」と熊谷が言った。「こいつ、彼女に一回も愛してるって言ったことがないんですって」
そう言って指さした先に、優しげな顔立ちをした青年がいた。見覚えがあった。熊谷とは同期で、営業部だったはずだ。
「いったいどういう話になってるんだ?」
本田が訊くと、熊谷が机をばんばんと叩いた。
「加藤のやつ、結婚を申し込むつもりなんですって。なのに、まだ愛してるって言ってないんですよ、信じられます?」
「勘弁してくださいよ」加藤と呼ばれた青年が首に手をあてた。「愛してるなんて言えないですよ。照れくさいじゃないですか」
「あのね、言わなくても伝わってるなんて幻想なの! 大事なことほど言葉にしなきゃだめに決まってるでしょ。ね、課長もそう思うでしょう」
熊谷が本田の薬指をちらりと見た。
「課長はちゃんと、奥さんに愛してるって言ってますか」
「そうだなあ。やっぱり、起きている時には言えないもんだよ」
本田の言葉に、加藤は表情を明るくした。
「ですよね、そうですよね。そんな言わないですよ、やっぱり。眠ってるときならまだしも」
「なによ、眠ってるときに愛を囁くわけ?」と熊谷が言った。
「ああ、それは今でもよくやってるよ」と本田が言った。
「しますよね! 良かった。課長って怖い人かと思ってたんですけど、親近感が湧きました」
本田は苦笑した。あけすけのない物言いだが、不快感はなかった。
「これだから男は。へたれなんだから」
熊谷が溜息をついた。
「あ、そうだ。課長は今夜の営業と総務の合同飲み会、来られるんですか?」と、加藤が言った。
「いや、今日は帰るよ。結婚記念日なんだ」
「あら!」
熊谷が口に手を当て、にこにこと笑みを浮かべる。
「課長、ごちそうさまです。ちゃんと愛を囁いてくださいね」
「まあ、頑張ってはみるさ」
本田は仕事を定時に終えた。熊谷が残った仕事を引き受けて、「奥さんのためにさっさと帰ってください」とせっついたからだった。
帰りに洋菓子屋に寄って、苺のタルトを買った。春季限定で発売されるこのタルトを妻は好んでいて、結婚記念日はこれで祝うのが通例だった。
それから少し道を外れて、花屋で薔薇を買った。これは学生のころからの習慣だった。誕生日や、記念日には、薔薇をプレゼントする。若気の至りと言えばそれまでだが、彼女が喜ぶ顔が見れるのであれば、混雑した電車の中で薔薇の花を持つ恥ずかしさも我慢できる。
家に帰ると、タルトの入った箱と薔薇をテーブルに置いた。スーツを脱いで椅子の背に掛けた。食器棚から小さな皿とフォークを取り出し、タルトを皿に移した。
それを花束と一緒に持って、隣の部屋へ行った。
「ただいま。今日が結婚記念日だと言ったら、部下に早く帰れと言われてね。花屋が開いている時間に帰ってこれたんだ。明日お礼をしなきゃいけないな」
本田は部屋の隅に置かれた小さな仏壇の前に、苺のタルトと、薔薇の花を供えた。
「君が起きている間に、もっとこうしていられたら良かったんだけど。君が眠ってから愛を囁きだすヘタレな男を許してくれ」
飾られた写真には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「結婚記念日おめでとう——愛してるよ」
了