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「勝つ」か「負ける」か。本当にそれだけか?

「人と比べるのは良くない」と言う人に限って、どんなことにも勝敗をつけたがる。
学校然り。塾然り。親、世間、社会全体…然り。

「誰かと比較することはないよ。君は君、なんだからね」と道徳の授業で優しく説いた先生が「〇〇はまた100点だな!学年トップだ!!みんなも〇〇を見習えよ」と偉そうに言ったり。
世間広し、と周りを見渡してみても、やっぱり勝敗、比較、譲らぬ合い。どこかの国では殺し合いで勝敗をつけ、軍事力を比較し、街が滅んでも譲らぬ戦い。

もちろん、勝敗がある戦いに命を燃やすことはかっこいい。だがあくまで比喩表現の範疇だ。本当の命を燃やした勝利ほど無惨なものはない。
スポーツ、ゲーム、賭け、遊び…(ん?賭けはダメか)。
勝つことに意味があり、負けることに意義があるもの。それなら、勝敗もあっても良い。

だけど、人生においては勝敗も比較もいらない。

誰かと比べた「勝った」「負けた」でその人のすべてが「すごい」訳でも「否定された」訳でもない。
誰かと比べて劣っている証明なんて、誰ができるのだろう??
そもそも比較対象は公平か?水をもらってるAと日光しか当たらないBでは発芽に差がつくのは当たり前だ。同じ条件下でも、まったく同じ発現をするとは限らない。それなのに“自分”じゃない“誰か”と比べた勝敗なんてどこまで信憑性があるんだろう。
“自分”とまったく同じ背景を持ち、寸分違わず同じ経験をし、それでも尚“誰か”が自分より優れていればその時に初めて「負けた」と言えるのだ。

『人生という劇場では神と天使たちだけが観客になれる。』とフランシス·ベーコンは言った。
これを「人間は演者であり、人生は喜劇も悲喜劇もある」とする説もあるが、私は「人生はplay、人間はplayer」なのだと思う。このplay/playerは文字通り、ではなく含まれる他意の方だ。
文字通りでいけば、playは試合、playerは選手。勝ち負けと切っても切り離せない言葉になる。
でも『劇場』という言葉を頼りにすると、playは劇、playerは演者になる。ここに勝ち負けは存在しない。つまりベーコンも「人生は勝敗ではない」と思っていたのではないか。それよりも、人生というたった一度の大舞台を喜劇も悲喜劇も全部ひっくるめて、幕の降りる瞬間まで精一杯演じきったほうが良い。再演も追加公演もないんだから、後悔のないように。アドリブばかりだったにしても、笑顔でカーテンコールを浴びれるように。


余談だけど、先述の「まったく同じ人生を」の件。私の過去を知る人からは「今までよく生きてこれたよね?!ウチやったらそんな人生無理やわーそれ生きれるってすごいわー」とよく言われる。褒められてるん??貶されてるん??!
…まぁ楽しく過ごせればいいかぁ。


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