見出し画像

#16 肖像彫刻のプロ 朝倉彫塑館(東京都台東区)

朝倉彫塑館は、彫塑界を牽引した朝倉文夫(1883-1964)の住居兼アトリエの地にある。彫塑(ちょうそ)とは彫刻(caving)と塑造(modelling)を合わせた言葉とのこと。肖像彫刻では代表作「墓守」が有名だが、明治の元勲、歴史上の偉人など400作以上の肖像彫刻を作った。尚、有名なロダンで120、ミケランジェロで80作程度らしい。

代表作「墓守」作成に至るまで

朝倉は大分県大野郡池田村(豊後大野市)に生まれる。少年時代は剣道、柔道、生け花、碁、俳句、釣りなど趣味に費やし、中学時代は3度の落第をしたと言う。

20歳の時に彫刻家となっていた兄・渡辺長男を頼り上京。東京美術学校に入学し、彫塑制作に没頭する。

23歳の時に、海軍省の銅像募集(三海将)が一等当選。東郷平八郎、山本権兵衛などに見守られる除幕式がデビュー戦というのも凄い。

主観でなく客観に徹する作風に変化

25歳で「墓守」を制作。墓守は、学校に通っている際にいつも見た老人を模したものとされる。「墓守」制作前後では、その態度に変化があったと言う。

卒業制作の「進化」がわかりやすいが、自然の通りでなく、自然とは違うものではなく独自の世界を表現しようとするロマンチックな要素(主観)が元々あったという。

墓守を制作する際には、モデル台に立たさず、家のものが指す将棋を見て無心に笑ったりしているところを横からとらえて作ったらしい。

朝倉曰く「自然を見ると、自分が考えているものより自然の方がどうもよく見える」。以降、主観と訣別して客観に徹するようにしたとのことだ。

震災と戦争を経て

1921年に東京美術学校の教授に就任、関東大震災では学校で崩れたロダンの「青銅時代」を破片から直したエピソードがある。

その後、帝国美術院を辞することとなり、1934年にはアトリエを改築し、朝倉彫塑塾を始める。1935年の松田分相の際に提出した改革私案が採用、後の美術院、官展変革に繋がっていく。戦時中の金属供出のため400点ほどの作品の大部分は殆ど消滅してしまった。

朝倉文夫の芸術観

芸術的教化私案では、朝倉の芸術観の一端が窺える。

科学的生活、機械的生活、物質的拝金主義的生活の欠陥を補って、社会の各階級の間には調和を齎し、国民の間には精神統一を齎し、また個人のうちには生々溌剌たる生活の統一感を齎しすよう、熱誠なる努力を致さねばならぬのである、而してそれには、純朴な本源的な芸術的精神の潜勢力を借り来る方法を講ずるより外には、他に必勝の成功道はあるまいかと思う。
朝倉文夫文集「彫像余滴」(1983年)

朝倉彫塑館には「五典の池」と呼ばれる中庭がある。朝倉は中庭を自己反省の場とし、仁(霊象石)、義(体胴石)、礼(心体石)、智(枝形石)、信(寄脚石)を配している。

水を眺める、というのが朝倉にとっては大きな意味を持つ。

中庭の中には、白い花が目立つが、白=純粋、を指す。また赤い花をつけるサルスベリの木が一本だけ植えられているのは、完璧を避けるためだと言う。中庭の中に、朝倉文夫のプロフェッショナリズムを感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?