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【反対言葉の大切さ】


2011年1月号、岩波書店発行の「図書」という冊子に、野の花診療所の医師、徳永進氏が書いた『反対言葉の群生地』というコラムがあり、医療現場での体験が綴られていました。

36年前、研修医であった徳永氏は、初めて受け持った肝がんの患者さんに、終始「がんじゃありませんから頑張りましょう」を繰り返した。あげく「またそんな、ええ加減なことを!」と叱られた。
吐血後のショックの時には、「私は死にます。死の淵まで行ってきました」と言われてしまった。

そのころ欧米ではがん患者さんにはがんを告げるらしい、と伝わってきた。

告知こそ正しいと考え、後に就職した総合病院では、受け持った肺がんの患者さんに生まれて初めてがん告知をした。
告知直後患者さんは突然に泣き出し、深い悲嘆に落ちていった。冬の夕暮れに訪問したナースが「明かりをつけましょうか?」と尋ねると、「いえ、いいです。いずれ電気のない国へ行くけぇ」と言ったらしい。
がんを告げない時も告げた時も失敗し「いったいどっちが正しいのか」という問いが頭を巡った。
しかし後に問いが間違っていたと気付く。多くの患者さんや家族に会って、決められた正しい答えなんかない。みんな、ひとりひとり。好きな魚や野菜や肉や、麺類や風呂の温度やお酒や、色や音楽がひとりひとり違うように、がんの告知もひとりひとり違う。決めつけてはいけない、押し付けてはいけない、と教えられた。
「A-非A」という反対言葉が共にあればこそ、臨床はふくらみを持つ。
このようにコラムは綴られていました。

現代は言葉のみならず政治や行政、教育、あるいはメディアに至るまで反対言葉の世界を避け、画一化の傾向を帯び、向かう方向は正しき一方向ではなくてはならない、という脅迫傾向があるように思えてなりません。

同コラムでさらに2つの詩を紹介しています。

1つ目は、タゴールの「道ができている場所では」の冒頭1行。

  “道ができている場所では わたしはわたしの道を見失う”

2つ目は、谷川俊太郎さんの「ケトルドラム奏者」の冒頭4行。

“どんなおおきなおとも しずけさをこわすことはできない 

どんなおおきなおとも しずけさのなかでなりひびく”

大きな音は静けさの中に存在し、静けさは大きな音の中に存在します。

どうしても私たちは、モノゴトを画一的に、そして一方向から見がちになります。善悪も決めたがりますよね。
しかし、その固定観念を離れ、一見真逆のような考えを受け入れることで、実は日常がより豊かにより幸せになるのだと気付かされます。

その決めつけから離れることを、仏教では〈中道〉と云います。
日常の好き嫌いや善悪を少し離れて、周りを見渡すと新しい発見があるかもしれません。
お彼岸ですね。
この期間、少し〈中道〉を意識して心豊かにお過ごし下さい。

続きは随時更新していきます。
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https://note.com/eikan/n/nce50c4dc8079

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