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村上春樹氏による被害

駅前に私のお気に入りの古本屋があって、ちょっとした時間があると、私はそこでよく時間をつぶしている。もちろん、気に入った本を見つけると買ったりもしている。

最近そこで買ったのは、村上春樹氏の”TVピープル”という短編小説。昔、買ってはいたのだけど、どこかなくしてしまった。もう一度読み直してみたいと思った。

私は村上春樹氏の大ファンだ。特に彼のエッセイや短編モノは、まるでマンガ本を読むかのように、寝転んで気軽にすらすらと読んでしまう。たぶん他のファンの読者もその読書スタイルは、ほぼ同じじゃないだろうかと思う。

その証拠と言うか、以前に図書館で借りた村上春樹氏のエッセイを読んでいたら、ページとページとの間に、よくお菓子やポテトの食べカスが残っていることがあった。

私は図書館で、よく本を借りているのだけど、たまに本のページとの間に、電気代の領収書とかコンビニのレシートとか(たぶん、しおり代わりに使ったのだろう)が出てくることはあるにしても、ページの隙間からポテトのカスが出てくるなんてことは村上春樹氏の本しか知らない。(そのおかげで寝転んで読んでいると、パラパラと菓子のカスが目の中に落ちてくる。もうたまったもんじゃない。)

そんなふうに時としてプチ被害は受けるものの、村上春樹氏の文章は、春の小川のせせらぎのように、サラサラ流れるような心地よさがあって、ポテトのカスが落ちてこようが、それでも読まなきゃならないという気持ちがある分、なぜか非常に悔しい思いがするのだ。

今回買ったTVピープルという短編小説は、電車の待ち時間などを利用して立ち読みしている。だから細切れの感じで本を読むことになるので、とてもイライラしてしまう。内容はもうわかっているのに、先が読みたくて仕方がないのだ。村上春樹氏の本は、私にとって本当に困った存在なのだ。

それで更に困った事件が私に起きたのだ。

今回のは、私の顔にポテトのカスが落ちてきたような可愛いものではなかった。直接的な被害はなかったにしても、精神的にはかなりくるものがあった。それはちょうど電車の中で、村上氏の短編小説の”TVピープル”の46ページ目を開いた時に起きたのだ。私の目に、それは容赦なく飛び込んできた。ページのちょっとした余白に、若い女性(たぶん)の走り書きの文字が書いてあったのだ。

白石 ××子(仮名) 0××-3×××-12××

なんとそれはケイタイ電話の番号と女性の名前。なんだかそれは、まるで中学生の頃、裏道に落ちていたエッチな本を、はじめて見つけた時のような衝撃によく似ていた。

なんなんだ?これは?

思わず私は、電車の中の人々をゆっくりと見つめた。ぼんやりと外を眺めている人、本を読んでいる人、ケイタイのメールを見ている人。そして偶然、若い女性と目が合ってしまった。

”ねぇ、はやく私に電話して・・・。”

イカンイカン、変な妄想が働いてしまった。

この本は中古本だ。たぶん、前の本の持ち主が書いたものなのだろう。私の想像でしかないけれど、友達からケイタイの番号を教えてもらった時に覚書として、さっとこの本に書いたのかもしれない。いや、それとも私のようなまだ見ぬ読者にイタズラ目的として、書いて本屋に売ったのだろうか?

いろんな想像が私の中で生まれては消えてゆく。どれも可能性があるばかりでなんの解決にもなっていなかった。もちろん、本当に電話してみようなどとは私は微塵も思ったりはしない。でも、本の余白に書かれてある誰とも知らないケイタイ番号は、妙に私の心に衝撃を与えた。なんかこうピンクっぽくて、妙に生々しくて。これも村上春樹氏の本が成せる技なのだろうか?村上春樹氏による私への被害は、本当に厄介なものなのだ。

実はこの後、更に大きな被害の訪れを、そのときの私はまだ知らないでいた。私の奥さんも村上春樹氏のファンだということを忘れていたのだ。勘のいい方は、すでにもうおわかりのことだろう。知らないうちに、彼女がこの小説のページをめくっていた。問題の46ページ目だ。彼女は何気なく見てしまったのだ。あの46ページに書かれたケイタイ番号を。

彼女が村上春樹氏の本を片手にドシドシと私に向かってきた時には、思わず逃げてしまおうかと・・・いや、逃げる必要はなかったのだ。私には何の罪もないというのに、いや、その被害者ですらあるのに彼女にそれを説明するために、どれだけの時間を要したことだろうか。

”私は何をこんなに言い訳してるんだ?”とあんなに不思議に思った事はなかった。危うく修羅場化とする一歩手前までになりそうだった。ここまでくると、まったく罪のない村上春樹氏といえども責任をとって、私を弁護して欲しいと心から思った。

どうしてくれるんだ?村上春樹氏よ!こうなったら羊男でも構わないから、この私を助けてくれってものだっ!

・・・なんて言っても、村上春樹氏はワイン片手に夕日を眺め、奥さんと一緒におしゃれな音楽と楽しいランチをして過ごしているに違いない。安西水丸氏が描くあの憎めないイラストの顔で。(わかる人にはわかるだろう。)

そういいながらも、私の本棚の目線には、村上春樹氏の小説が幾つも並んでいる。やれやれ。こうして私にとっての村上春樹氏による被害は、村上春樹氏の本が好きであればあるほど、起こり続けるものなのだろう。

だからといって、私は村上春樹氏のファンを
やめることは、たぶんないだろう。

だって、村上春樹氏の本さえあれば
たった一度の人生を、退屈することはないのだから。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一