見出し画像

見知らぬ知り合いの彼女のこと

仕事帰りの少し混み合った電車の中で、すぐ私の隣に、ストレートヘアーのきれいな女性が立っていた。そばに連れの男性もいるみたいで、今時の若いカップルだった。

その女性から、とても素敵な香りがしていた。

まるで真新しい石鹸の包み紙を、そっと開いた時のように。私のそばに咲いた花は、彼とのお喋りに夢中だった。香りは時として記憶のカギを、そっと開けてしまうことがある。すべて忘れたはずなのに、私の心はふいに立ち止まり、あの想い出へと振り返ってゆく。

遠いあの頃、あの彼女も確かこんな香りがしていた。

別に彼女は恋人だったわけじゃない。毎朝、いつも同じ電車で、同じ車両の中で出会うだけの、言葉を交わすことのない見知らぬ知り合いにすぎなかった。

電車の中、彼女のいつも座る席は、ちょうど通路を挟んだ私の真向かいだった。小説を読んでいるその姿がとてもきれいで、うまく言葉には出来ないけれど、決して触れてはいけないもののように、それは美術館に飾られた絵画のような美しさだった。

彼女のことが、私はなぜか気になっていた。いつも彼女はひとりでいた。彼女の笑顔をほとんど見たことがなかった。彼女は今、不幸せなのだろうか?そんなこと、他人の私が知り得るはずもなく、ただ、その静かに読書をする彼女の姿に、笑顔は不可欠なもののように感じていた。

たまに目と目が合ったりすると、私はどうしていいかわからなくなり、下手な芝居をするかのように、赤面のまま慌てて窓の外に視線を移していた。そのときだけ、彼女はほんの少しだけ微笑んで、そして、また視線を落としていた。そんなことを繰返してでも、私は彼女のことが気になっていた。

なぜだろう・・・

私は彼女に恋をしたのだろうか?

いや、きっとそうではなくて、彼女の中の夕暮れのような寂しさが私の中の哀しみに、とてもよく似ていると思ったからだ。今思えばあの頃、彼女と私は同じ何かを抱えていたように思う。

ある日のこと、彼女からかすかに、いい香りがするようになった。香水??もしかしたら、私のことを意識して…そんなふうに、この自分にうぬぼれもした。でも、そんなことはあるはずもなく、香り以外は、いつもと変わらないきれいで静かな彼女だった。

その約1ヶ月後・・・
突然に彼女はいなくなってしまった。

何かあったのだろうか?知らぬうちに、彼女を探してる自分に気付いて心はあせった。電車の中の彼女のいつもの指定席は、やがて見知らぬ誰かのものになってしまった。病気?それとも事故か何かで?まさか、でも…そうか、もしかして違う車両に…と何度もいろいろと考えていたが、そこまでして探す理由が私にはなかった。何もなかったのだ。

何を私は動揺しているのか…。

やがて彼女のことを忘れかけた頃、偶然にも、彼女に再会することになった。ちょうどそれは、今日みたいに、少し混み合った帰りの電車の中、懐かしいその香りが、この私を自然に振り向かせていた。

・・・あの彼女がそこにいた。

その隣には、恋人らしき男性がいた。彼女の幸せそうな笑顔を、そのとき私ははじめて見つけた。不思議な気持ちだった。あんなに彼女のことを探したのに、懐かしさよりも、そのとき、どこかホッとした気持ちが先だった。

たぶんあの時、彼女も私に気付いていたのだと思う。

かつて同じ哀しみを抱えたもの同士のとても懐かしい出会いのはずなのに、彼女はすでに私より先に、寂しさを卒業してしまった。なんて・・・それは私の勝手な想像だというのに、何を思っているのか、この私は。

”完璧な他人”という関係がただ、この心を虚しくしていた。

”やっと心から笑顔になれたんだね”

私のこの切ない想いは、とうとう彼女には伝えられなかった。それもそのはず、私たちは言葉を交わしたことのない、ただの同じ電車で顔を合わせるだけの見知らぬ知り合い同士に過ぎない。それは、あの頃と何ひとつ変わらなかったのだ。

結局、あれが彼女を見た最後の夜になった。今思えば、あの香水はきっと、彼のためのものだったのだろう。

こんな関係を、どう表現すればいいのか私にはわからない。ただひとつ、言えることがあるとすれば、彼女と私は、恋人でも友人でもないままに、言葉も、はじまりさえもなく離れていった。

ただ、それだけのことだった。

・・・・・・
ストレートヘアーの見知らぬ彼女は
あの彼女と違って、彼と明るい声で
いつまでもおしゃべりを続けていた。

流れてゆく夜の中、
私はあの頃のように、窓をそっと眺め
窓に映った彼女のかすかな微笑みを
ただ、思い出していた。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一