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自己肯定感は上げなくていい。

自己肯定感は上げなくていい。
なぜかふと、そう思った。

いやいや、上げたほうがいいに決まっている。自分を認め、プラス思考ですべてを前向きに受け入れてゆく。その方がいいに決まっている。そのほうが人生は生きやすい。そう思う私もどこかにいて、どうしてこんなことを書き始めたのかさえ、よくわからないでいる。

私は子供の頃からずっと、自己肯定感が低かった。友達もいなくて、いつもひとりきりでいたものだから、自然とこう思うようになっていた。

「あ、僕ってきっと、どこかダメなんだ」と。

みんなが一緒になって明るく遊んでいる方が正しくて、ひとりでぼんやりと窓の外を眺め、何かを空想するような自分は間違っているんだと、ずっとひとり思っていた。だって先生は、いつも私にこう言った。「もっと明るく元気を出しなさい。もっとみんなと遊びなさい」と。そして最後に必ず私にこう言った。

「ほら、こんなことで泣かないの」と。

ちょっと先生に叱られただけで、私はとても簡単に泣いた。泣きながら、いつも自分の弱さを嘆いていた。でもその感情は、悔しさでもない、哀しいでもない、先生が怖いでも嫌いでもない。ただ、ダメな自分がどうしようもなくて、なす術もなくて、心の置き場もなくなって、うろうろとその場所を探していて…そんなとき、人って簡単に泣くのだと思う。

そんな私が大人になって、よりによって接客業の仕事に就いた。人と接することにうまくいかなくて、大学すら途中で辞めたというのに、何を考えていたのだろう?いや、何も考えていなかったのだ、きっと。

案の定、仕事もうまくいかなかった。クレームの多さに何度もこの心を壊した。何度もお客に土下座をし、罵声を浴び、何度、死のうと思ったことか。

そう思ったら取るべき手段は、仕事を辞めることだろう。

けれども私には、そのとき家族がいて、それをただ、守ることが私の唯一の生きる意味だった。そして必死にあがき続けた。そうしていつしか、子供たちも大きくなり、もう、私の手からほとんど離れた。

今は妻と二人で、穏やかな人生を歩むようになった。

ふと、人生を振り返ってみると、私はずっと自己肯定感が低いままに生きてきた。きれいな言葉が思い浮かばないから書いてしまうけど、何度もそんな自分を殺して…いや、消してしまいたいと思っていた。

そんな私が、今もこうして生きている。

ささやかではあるけれども、幸せな日々を暮らしている。どの時代も苦しかったけれど、不思議に人生は同じだけの幸せを与えてくれている。結構長く人生を生きてきた、こんな私だからこそ、少しくらいは説得力があるんじゃないかと思う。

もしも自己肯定感が低くて、苦しんでいる人、悩んでいる人がいたなら、私はその人に伝えたいと思う。

自己肯定感は、無理に上げなくていい。たぶん、あなたは、誰かのために力を使い果たしているんだ。心が自分に向いていないんだ。かつての私がそうだったように。大切なあなたの心を、その力を、そんなもののために、使う必要なんてないんだ。

この世のすべての物事には、必ず終わりが用意されている。何の力がそう働いているのかはわからないけれども、いつか必ず終わってゆく。その究極が人の死だろう。

だからつらい出来事に、わざわざ死を選ぶ必要もない。つらい出来事の方が、必ず先に終わってゆくのだから。嫌いな人も、憎んでる人も、私もあなたも、いつか必ず死んでゆく。すべてのことに終わりがあるように、人生は、長いようでとても短い。

だから私はいつも思う。

何気ない風景に、ありふれた夕日の美しさに、いつもそっと涙しよう。誰かの小さな優しい心に、あふれる涙をこぼしてゆこう。無理に笑う必要はない。泣くことは、私は美しいことだと思う。

人生を振り返れば、あなたもきっと見えるはず。辛い出来事に泣いてる自分が。そうしてそんな困難な出来事も、いつしか必ず終わっていることも。そしてまた、前を向いて歩いている自分がいる。その時きっと、誰かがあなたの力になってくれている。そのことだけは、忘れずに心に刻んでゆこう。

そうして今まで生きてきた自分を、そっと、誇りに思えばいい。誰かを感謝し続ければいい。そうすれば、いつしかあなたに花が咲く。その場所で穏やかな風に吹かれてゆく。それがきっと、幸せと言うものだと思う。

自己肯定感は無理に上げなくていい。
そんなもののために、あなたの心を使わなくていい。

そんなことよりも、いつものあなたが、
いつものあなたで、微笑んでいるほうが一番いい。

そうすれば、隣の大切な誰かがきっと
あなたに微笑んでくれるはず。

そのために、あなたは生きてゆけばいいんだ。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一