見出し画像

私のかわいい恋人。

実を言うと、長年連れ添っているものがいる。思えばいつのまにか、実に親密な関係にあり、いつも私のそばにいてくれて、困った時には何も言わずに
そっと私を助けてくれる・・・

それは私の妻に内緒のかわいい恋人・・・と言いたいところだけれども、残念ながら、それはかわいい彼女でもなくて、「古い折りたたみ傘」のことだ。

この傘とは、もう随分と長い付き合いになる。この傘が、一体いつ誰が買ったものなのか?記憶をいくらたどってみても、なぜか思い当たる節もなく、もしやどこかで拾った傘かも?と、そんな疑いすら出てきてしまう。

気づけばもう、6年以上も昔から、私の通勤カバンの中にあって、当たり前のように、いつもそこにちょこんと居座っている。

この傘は、正直言って、かなり流行遅れでどうしようもないものだ。単なる黒傘ならまだしもいいが、ダークグリーンの変なストライプは中途半端でとても地味だし、先端の尖った先の部分はとっくの昔に、外れてなくなってしまっているし・・・

普通なら、こんな薄汚れた傘は、なんのためらいもなくすぐに捨てるべきものだろう。妻からも「いい加減に買い替えたら?こっちが恥ずかしいわ!」とことあるごとに言われ続けている。

この傘が今度もしダメになったら、または失くしたら新しいのに買い替えようと、いつも思っているのだけど、なぜかこの傘を捨てるタイミングを、私はことごとくなくしているのだ。

例えばある日のこと、急な出張で違うカバンにその傘がなくて、急な雨に降られてしまい、”仕方ない、新しい傘を買うか”と決心してたら帰りに”ぱぁ”といきなり晴れて、結局買わないで済んでしまったり・・・

先日も風が強くて、その傘をさして歩いていたら、思いっきり逆向きに折れてしまい、”あぁ、とうとう壊れてしまったか”とあきらめがちに思っていたら、すんなりと元の形に戻ったし・・・

ふと気がつけば、この傘はいつも私のカバンの中にあってまるでセーラー服の女の子のように、きれいな折り目をいくつも付けながら小さく折りたたまれ、涼しげな顔してそこにいる。

納得のいかないこれらの出来事に、実はこの傘には心というものがあって、私に惚れているんじゃないか?と、最近はそんな疑いまで持つようになった。

ところが先日のこと・・・
とうとうこの傘をなくしてしまったのだ。

どこを探しても見つからない。かなりショックだった。そのショックだった自分のことが更にショックでひとり、愕然としてしまう私だった。なくしてはじめて気づくもの・・・たかが一本の傘なのに、私にとっては、いつしかそれが、とても大切なものになっていた。

一体、どこでなくしてしまったんだろう?先日、雨が降ったときに、傘をさして電車に乗ったまでは覚えているが、その先がどうしても思い出せない。あのとき、私の右手に傘があったかどうか・・・途中で記憶が途切れている。

もしや電車の中に、傘を置き忘れてしまったか・・・その可能性が強くなった。そうだ、私は置き忘れてしまったんだ。

すでに3日が過ぎていた。いまさら駅に問い合わせても無理なことだろう。私の傘は、名も知らぬ誰かに拾われて、どこか寂しい路地裏に捨てられ冷たい雨に打たれながら、ひとり寂しく泣いているに違いない。(すごい妄想だ)

「今度こそ新しい傘を買いなさいよね!」気落ちした私に、妻は笑いながら私に言う。まるで私が、かわいい恋人に逃げられたかのようで”それ見たことか”と言わんばかりだ。

仕方ない・・・あきらめるしかないか。「今度、雨が降ったら新しいのを買うよ」私は少しだけ、ぎこちない笑顔で笑った。

そして何日か過ぎたある日のこと、仕事が終わった後、外は雨が降っていた。朝はあんなに晴れていたのに、しとしとと静かな雨だった。

「仕方ない、駅の雑貨屋で新しい傘を買うか」そう思いながら、私は自分のロッカー室の扉を開けた。するとその奥には、なんとあの見なれたダークグリーンのストライプが、何かの隙間にチラリと見えたのだ。

「あ・・・あった!」

なんとそれは、なくしたあの傘だったのだ!なんてことだ、暗くて今まで気づかなかったけど、傘は私のロッカー室の奥で、ずっと横たわっていたのだった。まるでイタズラ好きな女の子が、私を心配させたくて隠れてそのまま寝てしまったような・・・そんな感じだ。そうか、私は傘をロッカー室に入れたまま、うっかり忘れただけだったんだ。

家に帰ってから、”やれやれ、傘が見つかっちゃったよ”とそんな具合に妻にこのことを報告した。でも妻は「なんだかやけにうれしそうね」とあきれた顔で笑うばかりだった。

そんな失礼な(?)妻ではあるけれど、この傘のことで、いつも感謝していることがある。

私が妻に何を頼んでも、なかなか何もしないくせに、この傘だけは、雨が降った翌朝には、私がまだ眠っているうちに、乾かしてきれいに折りたんで、まるで何事もなかったかのように、私の机の上にちょこんと置いてくれるのだ。

それを見つける度に、私は小さな幸せを感じる。

たぶん妻もこの傘が、どこか好きでいるのだろう。もはやこの傘は、妻公認の、私のかわいい恋人なのだ。

その小さな恋人は、今も私のカバンの中で
小さな寝息をたてている。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一