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春はもうあの空の中に。
あるクレームがあって、お客様のところへ訪問することになった。詳しくは書けないけれど、本来なら怒鳴られたっておかしくないほどの致命的なものだった。
けれども、その女性のお客様は、とても心のやわらかな方で「もしも、他の人にも同じようなことが起きてはいけないと思って電話しました」とまるでクラスの委員長が、みんなのために手を挙げて、勇気を持って発表してくれているような、そんな清々しさだった。
私は店をすぐに出た。これからクレームでお客様の家へ行くというのに、まるで懐かしい友達にでも、今から会いに行くような、そんな晴れ晴れとした気持ちだった。
車で15分も走らせれば、のどかな景色が広がっている。とてもいい天気だ。あまりのあたたかさに、春が居眠りをしているような気分。
車を降りてお客様の家を探す。その場所は、とても閑静な住宅街で、気づけば誰もそこにはいなくて、道を尋ねようにもどうしようもなかった。私に芽生えた小さな不安に、ふと振り向くとそこにはネコが、ゆっくりと道路を横切っていてた。私はまるで夢を見ているような、そんな不思議な感覚に襲われる。気づけばつい、ぼんやりとそのネコをじっと眺めていた。
普段ならこんな道のど真ん中で、立ち止まっていたなら、それこそ誰かに嫌悪な眼差しで見られてしまいそうだけど、そんなとても微妙な時間を、私はただ、立ち止まっていた。
何度か道を間違えながらも、やっと電柱に書かれている同じ番地を見つける。目の前には、お客さんと同じ名前の表札が、その玄関に掲げてあった。少しだけ緊張した面持ちで、私はゆっくりとチャイムを押す。中から”ピンポン”と軽快な音が鳴っている。
”はーい”という明るい女性の声がした。
きっと、先ほどの電話の方だ。
パタパタと足音が近づいて来る。
その玄関の扉が開くわずか十数秒の間、
私はふと、空を見上げた。
ほんの少しだけ、オレンジ色に空が帯びていた。
春はもうあの空の中に
きっとあるのだろうと思った。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一