部下が出来ると「偉くなった」と勘違いする人が陥る残念な勘違い
いまの時代にはあまりいないかもしれませんが、かつて
・部下を持つと突然偉そうになる人
というのはいました。感情的に一番下っ端から下から2段目に上がることが嬉しいのはわからないでもないですが、別に「偉くなった」わけではないと思うので、なぜか急に偉ぶる人を不思議な目で見ていたものです。
ではなぜ「偉くなった」と勘違いしてしまうのでしょうか。
・自分は部下より仕事ができるという事実
・自分が教える立場になるという優越感
・自分が経験してきた(時代遅れの)「教育」を施す立場に昇格
・自分が出来ることは部下も同じように出来て当然という思い違い
あたりでしょうか。
・自分は部下より仕事ができるという事実
これは当然です。大抵の会社では年次であったり経験年数であったりで、ゆるやかか明確化はさておき「ヒエラルキー」があります。自分より下に入った人が自分より仕事ができるようことは、基本的にありません。その事実は自信を持てるとともに、歴然とした差としてそこに存在することになります。これまで最末端で「自分より出来ない人がいない」状態からだっしたわけで、嬉しさも在るでしょうし、多少なりとも自信にもなるでしょう。この自信が悪い方向に出てしまうと「偉そうになる」のではないかと思います。
ただ、年次や経験が低い人たちより自分のほうが仕事ができるというのは、「当たり前の話」であって、例えば同じ3年を同じタイミングで始めていたら自分のほうが劣るかも知れません。時間差の問題であって能力差ではないのですが、勘違いですね。
・自分が教える立場になるという優越感
誰しも「教える立場」になるのは気持ちが良いものです。ある意味では「自分は誰かより優れている」ということでもありますし、自分より出来ない人がいるという優越感にもなります。この優越感が、なぜか「偉い」に置き換わってしまうのでしょう。最近では部下を持ちたくない、管理職になりたくない、という人も増えているといいますが、実際「教える」というのは結構面倒くさいものです。特に自分が目を瞑ってでも出来てしまうことは言語化しづらいので、説明するにも頭を使います。
「教えることが、学習に最高の機会」みたいな言葉もありますが、実際
・出来ること と
・誰かを出来るようにすること は
似ているようでだいぶ違います。
仮に、部下に何らかの作業を「教える」ことがあり、でも部下は思うほど「上手く出来ない」ことがあると、
・なんてダメな部下なんだろう
と、部下を過小評価することで自分を正当化します。原因は自分の「教え方」にある可能性を除外してしまっているというか。簡単に言えば「出来ることの質と量の差」が「自分のほうが偉い」と勘違いしてしまう原因でしょう。
・自分が経験してきた(時代遅れの)「教育」を施す立場に昇格
もはや今の時代には無いと思いますが、自分自身が上の世代に受けてきた「理不尽な教育」を、つい自分が自分の部下にできるという、対象を変えた「仇討ち」みたいなことも、過去にはありました。だいたいこういう人が言うのは
・おれの時はもっとひどかった
ということで、問題は酷さのレベルではなく、「やっていいことと、やってはいけないことの区別」なのですが、自分が受けた教育(仕打ち)を繰り返してしまうものです。
一つには、「それ以外の教育を受けていない」ことが理由ですし、もう一つは「自分なりに工夫して更に良い教育方法を考案する手間をかけない」ことが理由でしょう。自分が学習したようにしか教育できないというのも、知性の限界を感じてしまう事象です。
・自分が出来ることは部下も同じように出来て当然という思い違い
これも当たり前の話ですが、部下が自分と同じことが出来るなら、部下という立場である必要はないですし、教育の必要もありません。でもなぜか、
・自分に出来ることは部下もできるはず
という根拠のない思い込みがあり、出来ないことに腹を立てることになります。それを出来るように教育するのが上司としての役割なのですが、そこをすっ飛ばしてしまうんですね。手取り足取り教えるというのも非常にコストが掛かりますし、理想を言えば部下になって数日したら
・これお願い
の一言だけで完璧にやってほしいところです。
経験上出来る上司だと感じた人は
・業務プロセスの中でどこに弱みが在るかを見抜き、
・その弱みの部分を重点的に修正し、
・それを繰り返すことで業務プロセス全体が見渡せるようになる
ような教育をしてくれたと思います。
逆に対応が難しかった上司は
・考えられるだけの不足部分を上げて
・その全てを同時に同レベルまで引き上げて
・ショートカットで業務レベルを向上するよう教育
していたなと思います。これのまずいのは、
・業務プロセス全体をまだ見渡せない状況で
・全ての不足部分を挙げられても
・どこから直していいかわからず
・全体を修正しようとするために
・結局なにも修正できない
ということが起こりました。どちらが良いかは人にもよると思うので、一概には言えませんが、自分にとっては前者のほうがステップで学習できるので向いていたように思います。
最後に、離職を好まない、多くの企業の傾向として
・上司から部下に望むものは、上司のコピーを作り出し、同じ業務を同じクオリティでこなすこと
を求めている気がします。
もっと乱暴に言うと
・人間性や性格などは無視して、業務をこなせるコピーロボットを量産すること
が教育であるような気がします。これが成立する大前提は
・今後数十年に渡り、会社の業務は変わらない
ということで、ビジネスも変わらなければ必要な業務も変わらないわけです。そうして量産されるのは
・スキル、経験において何らかの専門家に離れず、社内事情に関してはエキスパート
みたいな人材です。転職しようにもなかなか難しい人材です。
個人的には、部下が出来るようのは
・自分の業務を引き渡し
・自分は一つ上のレイヤーの業務に移行することで
・また一つ上のレイヤーにポジションを移す準備をする
ことだと思うので、コピーロボット量産や仇討ちみたいなことには興味がありません。それより部下にはもっと仕事ができるようになってもらい、早く昇進してもらいという気持ちのほうが強いです。
そもそも「偉い」という感覚自体があまり体感できていなくて、もちろんパワーバランスでの上下はありますが、それはあくまで「職位」と「業務内容」の違いであって
・人間として優れているわけではない
と思っているので、「偉い」と思うこと自体が、よくわからないのが事実なのですが。
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