見出し画像

たらしめるもの

「"古物"って英訳すると、なんて言うんですか?」
と親友に訊かれた。

これは久しぶりに、よい問いと出逢ったぞ。
何気なく投げられた問題が、僕には香ばしかった。

古物。
僕の愛する生活の古道具たち。古い服たち。
英訳すると「Antique」になるだろうか。

ところが、なんだかしっくりこない。
検索する時や、誰かに説明する時には「Antique」を遣っているが、僕にとっての「古物」は単に"古いもの"でもなければ、"歴史的に価値のある"というような「Vintage」でもない。

いわゆる、カタカナの「アンティーク」や「ヴィンテージ」も、検索・説明の便宜上そう呼んでいる(あるいは"そう呼ばれている"からそう呼んでいる)わけであって、僕にとっての「古物」を表すには別の言葉が必要だ。

「古物」は僕を僕たらしめるもの

いま、僕は毎日を「古物」で生活している。
寝起きする布団は100年前のリネン。顔を洗って拭く布も、バスマットもバスタオルも古い布だ。パジャマも含め生活の服も古い服。お風呂場では洗剤・洗顔入れも古い水筒やゴブレットを活かす。

画像1

画像2

画像3

キッチンでは鍋から包丁からあらゆる食器も古いもの。そこから生まれた料理を古いお皿にのせ、リビングにある木製の古机に配膳し、古椅子に座っていただく。

画像4

画像5

画像6

部屋の照明も古い電灯や傘を活かし、棚から扇風機まで、鉄や木が古い空気を漂わせる。掛け時計も100年前のもので、持ち運ぶ懐中時計も同じく一世紀前のもの。ゴミ箱や掃除道具も古いもので、生活のあらゆる場面を「古物」で暮らしている。

画像7

画像8

画像9

画像10

つまり、今や「古物」は僕を僕たらしめるものなのだ。今の僕を語るうえで欠かせない「identity」のような存在。それが僕にとっての「古物」だ。

しかし、「identity」といえば
「古物」を用いて「僕」を説明したにすぎない。

では、
僕が古物を「古物」たらしめているもの。
それはなんなのだろうか。

僕が古物を「古物」たらしめているもの

僕と生活している「古物」たちには、共通している特徴がある。

それは「味」だ。
古物を扱う人の界隈では「木味」や「シャビー」と言われるような、味わいのある経年変化。その存在を、僕は「味」と呼んでいる。

僕の「洗濯物入れ」は、もともとこね鉢として使われていた明治期の古いもので、人によって使い込まれた「味」が木に染み込んでいる。

画像11

僕の「椅子」「机」「棚」「衣紋掛」「掛時計」にも、同じような「木と人の味」が存在している。

画像12

画像13

画像14

画像15

画像16

画像17

画像18

画像19

画像20

僕が好む木の「味」は、独特の"黒み"をもつ。べっこうのような艶があるが、照らない暗さは静けさをもつ。そんな黒みだ。この「色味」が大好きだ。

こうした「味」は、どうやら特定の木材に現れやすいらしく、杉などよりも、欅や栃などの木に多い。木の材質として密度が高く、硬くてずっしりと重い。そのため、叩くと奥行きのある深い音が鳴る。僕が学生時代、吹奏楽で打楽器をやっていたこともあってか、こうした「音味」も大好きだ。

画像21

金属の「古物」にも「味」がある。
僕の「フライパン」は、もともと料理店の厨房で使われていたもので、鉄ならではの風格から美味しい料理を育んでくれる。
僕の「鍋」「カップ」「蝋燭立て」「花壺」「扇風機」にも、同じような「金属と人の味」が存在している。

画像22

画像23

画像24

画像25

画像26

画像27

僕が好む金属の「味」は独特の"霞み"をもつ。夜月にかかる薄雲のような擦れがあり、頑丈な造りと機能性に錆や緑青が華をそえる。そんな"霞み"だ。この「鈍味」が大好きだ。

この「味」は、金属の材質によって異なる。アルミなどよりも、銅や鉄、真鍮などに表れることが多い。こちらも、叩くと鈍く深みのある音が鳴る。たまらなく好きな「音味」だ。

画像28

こうして、「古物」の特徴を探ることで、
その「古物」を"選んだという僕の感性"
が表れているのではないだろうか。
その"選美眼の輪郭"をなぞることで、
僕が古物を「古物」たらしめているもの、
「味」を求めた。

僕に迫ることは「古物」に迫ることであり、
「古物」に迫ることは僕に迫ることなのだ。

では、この「味」に迫ることで
もう少し、僕に迫ってみよう。

「経る」という存在

では、僕にとって「味」とはなにか。

それは、「経る」という存在だ。
僕にとって「味」は、単なる"経年変化"ではない。
変化した先の錆や緑青、木の色味は目に見えて美しいが、僕が感じる美しさは目に見えないものだからだ。

僕は、「味」を美しいと感じる。
「味」は、当時の自然環境と人の生活が、用途や使用頻度といった様々な条件を通して、モノに積み重なってきた「存在」だ。

つまり、「古物」の「味」という存在は
人を「経て」育まれる。
自然を「経て」育まれる。
時間を「経て」育まれる。

ここで、僕が「古物」を再解釈すると

「人が自然と生活する中で生まれ、
人と自然の間で関わり古くなったもの」

となる。
僕が美しいと感じる「味」は
人・自然・時間を「経て」いるからだ。

この解釈における「生活する」は
「古物」が自然を「経て」育つことを表している。

僕の言う「自然」には、
Natureという意味の「自然の理(ことわり)」と
Naturalという意味の「自然体」が含まれている。

その人に必要とされたから生まれたということ。その土地にあるものを使って作られたこと。というような自然の理に適った特性をもつ 「自然」。(これは必然性に近い)
そして、使う人や環境が自然体で永く付き合っていける利便性や機能性、あるいは、不便であっても不自然さのない愛着性があるというような「自然」。
それらの自然を「経て」育つ「古物」には「味」がある。

また、上の解釈における「間で関わり」は
「古物」が人を「経て」育つことを表している。

僕の言う「人」には、前記した「自然」が内在している。
人には環境としての「自然」があり、その理(ことわり)の中で生きている。それは、節理や道理と呼ばれるものでもある。
そして、同時にその"人"の中にも「自然」がある。これは自然体、つまり、その人が本質的に心地よいと感じ生きる状態だ。
人は環境としての自然と関わり、自分の中にある自然とも関わって、よりよく生きようとしている。その"自然と人の関わり"の間にモノが生まれる。

壊れたら新しいのを買う!のではなく、ここにあるものを修繕して継いでゆく。おばあちゃんの知恵のように工夫して、道具と付き合っていく。自然と付き合ってゆく。
モノは自然と人と折り合い、対話を重ねる。モノが「人に使われる」理由がそこにある。たとえ使われなくても、生まれたからには「自然に晒されて」朽ち果ててゆく。
だから、人(人と自然の間)を「経て」育つ「古物」には「味」がある。

そして、解釈の「古くなった」は
「古物」が時間を「経て」育つことを表している。

人と自然の間で、理に適っても適わずとも、そのモノが存在し続けたということ。結果「古く」なったという、その時間。

道端で拾ったサビサビの金具も。川原で拾ったバキバキの流木も。「どこで」「だれが」という履歴書なんて関係ない。そのものが生まれ、存在し続けたという証。
大切にされた有機的な時間も、ただ世界を傍観した無機的な時間も、彼には注がれる。
やっぱり、時間を「経て」育つ「古物」には「味」がある。

画像29

僕が「古い」ものを好むわけは、
現在に比べて、100年前の方が
人と自然の関係」が親密だったと感じるからだ。

原始時代へ!とまでは言わないけど
人が自然と付き合ってゆく中で
自然にきちんと向き合い、
自分にきちんと向き合い、
知恵をしぼり、心地よさを追求する姿勢。
僕は、その「人と自然の関係」を求めている。

困ったらすぐ答えを出す。なんでも人が作り出す。
そんな生き急いだ近道をすると、
自分にも環境にも不自然が生まれる。

遠回りしてもいい。
そんな余裕が自然を生み、
そんな自然が余裕を生む。

でも余裕だからといって
何もしなくていいわけじゃなくて、
自然と向き合うからこそ
自分と向き合うからこそ
その余裕が生まれるんだ。

向き合うということは
経る」ことだ。

答えのない善さを求めて
自然を「経て」、自分を「経て」、
命を生きる。
問いつづけること。示しつづけること。
そうして命を「経て」ゆく。

「古物」の英訳

僕が「古物」を英訳するなら
「experience」だろう。

僕の「古物」は、
人・自然・時間を「経る」ことで「味」をもつ。

そして僕は、
その「古物」と生活することで
僕を「経る」のだ。

「経る」という存在は美しい。
すべてが、僕の「味」になってゆくから。

画像30


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?