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なぜ、それは「善い」のか。


キャスターが読み上げる。

「みんなでSDGs週間。今回取り上げるのは、街で廃棄される”あるモノ”を使って、エコグッズを作るお店。こちらのエコバッグ、素材に使われている”あるモノ”とは。取材しました。」

何気なく耳に入ってきたニュースに、興味をもった。

スーパーやコンビニでのビニール袋も有料化され、エコバッグの需要が高まる中、紹介されていたエコバッグには、ビニール傘の素材が再利用されていた。

東京の一等地に店舗を構える、いかにもオシャレなお店。その店内に飾られたエコバッグに、お客さんが「へぇ!言われないと気づかないです。ビニール傘の再利用なんですね。エコだし、オシャレだし、すごくいいと思います。」とコメントする。

お店を運営する会社は、街に捨てられ、忘れられた処分ゆきのビニール傘を回収する。分解して加工を施し、エコバッグや財布としてリメイクするその製品が、環境にも優しいことをアピールする。

そして、店長が最後に「本当の願いは、こうした製品を作れなくなる(過剰に廃棄される傘などが無くなる)世の中になることなんですけどね」と述べ、キャスターはニュースのコーナーを締めくくった。

僕は、一連のニュースを観て、なんだかヘンテコだなと感じた。それは、自分が古いものを生活に取り入れているからなのか、教育を学んでいる者だからなのか、わからなかった。ただ、自分はこのニュースをどう捉え、どう考えるのかを分解してゆきたい。

そもそもの「必要性」を問うこと

まず、廃棄される傘は、回収の手間やそれを消却する時のコストなど環境的負荷がとても大きい。この問題に対して、取り上げられていたお店や会社が行う活動は確かに「エコ」の文脈においてよいことをしているように思える。

東京の一等地で販売されていたそのエコグッズのお値段は一万数千円ほど。もちろん活動にかかる費用や「エコ」である文脈をブランドとして考えると、決して法外に高額だとは言えないだろう。しかし、そうして作られたエコグッズの数々が「ビニール傘そのものの必要性」を問うことは決してないのだ。

オシャレに見えるように加工され、そのブランド品を買うことで消費者は「エコ」運動に参加しているかのような気にさえなる。廃棄されるはずだったビニール傘も、受け取る側の捉え方次第で、創意工夫でこんなにも素敵なものに変わる。

ところが、リメイクしてつくられたエコバッグや財布、今度はそれが捨てられることはないのだろうか。商品価値は受け取る側の捉え方次第であるが故に、結局はエコグッズ自体も要らなくなって廃棄されることだってあり得る。"流行り"のエコ運動も、その流行を過ぎれば、エコグッズの生産自体が不要とされる日がくる。これでは、廃棄を前提とするものを再利用して、また廃棄しての繰り返しだ。

一見、あぁ再利用のサイクルは循環しているじゃないか。エコだなぁ、よいことだ。と見えるかもしれないが、結局、廃棄されることを前提としたものを作っていることに変わりはない。さらに、「ビニール傘は本当に必要なのか」という根本的なモノの必要性や社会の在り方を問うことはないのだ。

そもそも、ビニール傘なんて「忘れてもいいや」くらいで買った数百円程度のものなのであって、結局問題なのは、モノを消費者が買う時、生産者が作る時、そもそもそれを買う必要があるのか、そもそもそれを作る必要があるのか。しかし、そんなことは問題にされず、よく考えていないということだ。

ビニール傘を作る時、そして買う時、それが本当に自分にとって必要なものなのか。それが自分にとって善いことなのか。自分自身の判断として、そこまで考えていないことが問題なのではないか。

そもそも...?を問うための「視点」

僕がドイツに留学した時、雨が降っても現地の人は面白いくらいに傘をさしていなかった。小雨はもちろん、こんなに降っているのに?と思うほど雨が降っていてもささない。そして案の定、ビニール傘などはどこにも売っていないし、そもそもコンビニすら無い。しかし、現地の人はそれでも困らない。必要としておらず、それで生活が十分に成り立っているからだ。

対して、僕がドイツの友人を日本に招き、小雨が降る日に観光案内をした際、渋谷のスクランブル交差点を埋め尽くす"傘の大群"を見た友人は、その光景を「異様だ」と言わんばかりに驚き見ていた。小雨で皆が傘をさす。ドイツではまず見かけることのない光景なのだろう。

もちろん、気候風土的な背景を考慮して、傘をさす文化もあれば、ささない文化もあると考えることもできる。ただ、日本とドイツの傘文化を比較した僕は、ビニール傘の必要性を問う視点をもっている。比較して検討し、そもそもビニール傘がないと成り立たない生活になってはいないのかを問う。

そして、日本とドイツの文化を比べないとしても、僕は個人として、ビニール傘を持たない。なぜなら、自分が好きな紳士傘を選び買い大切に使っているからだ。

ちょうど、ミニマリズムを参考に自分自身の善さとはなにかを探っていたころ、一番初めに購入した品物が傘だった。James Bondの世界観が大好きで、紳士というものを揃えようとしていた僕は、新宿の伊勢丹に赴き、紳士傘を購入した。値は張ったが、その傘への思入れは、今まで使ってきた傘とは比にならないくらい熱いものがある。だからこそ、街で忘れてくるなんてことは無く、使った日にはキチンと水気を取り干すなどのケアをしている。どれだけ永くお付き合いできるかが楽しみなくらいだ。

ゆえに、僕にビニール傘は必要ないし、好きで買った紳士傘が必要な理由(僕にどんな価値を与えてくれるか、その理由)を、僕は僕に説明できる。つまり、僕は自分の選択でモノを買っている。それは、責任をもってモノと付き合うことでもある。だから捨ててもいい前提で買うことはないし、うっかり無くすなんてこともない。

なぜ、それは「善い」のか?

ニュースの話題に帰ろう。僕が感じたヘンテコさ、その違和感には、モノと付き合う人間の意志や責任が関わっているようだ。

僕が学んでいる教育学の観点から、モノの見方・考え方を探ってみることにしよう。

目の前にあるモノが"オシャレ"だから。"安価"だから。それを身につけていると"モテる"から。
これらの判断を教育学として観察した場合、それは現実主義的な見方・考え方によるものだ。つまり、いかにそのモノが果たす役割が現実的であるか。今日、今、現在の自分や社会に即効で役に立つか。どれだけ見える形での利益を生んでくれるか。こうした問いを基に判断することは現実主義の見方・考え方だ。

一方、そのモノが環境的にエコだから。社会的あるいは一般的に"善い"とされているから。
そのような判断は理想主義的な見方・考え方によるものだ。つまり、そのモノ自体や、それを買う活動そのものが、社会的あるいは倫理的に理想に適っているか。一般的に、そしてあらゆる人にとって善いとされるか。こうした問いを基に判断することは理想主義の見方・考え方だ。

だから、ビニール傘を再利用したエコグッズを、時には現実主義的な観点から「再利用したとは思えないほどオシャレ」だから"善い"のだと判断し、時には理想主義的な観点から「SDGs運動に適したエコ」だから"善い"のだと、生産者や消費者は判断しているのだ。

ところが、これらの見方・考え方を基にした判断にはそれぞれに弱点がある。

たとえば、現実主義的な見方・考え方時代や環境の変化によって、その"善さ"が簡単に変わってしまう特性をもつ。

ビニール傘の例では、リメイクの品々を"オシャレ"だと思って購入しても、時代の流行や価値基準が変われば、"オシャレ"ではなくなってしまう可能性もあるということ。そして、結局のところ廃棄することが前提である消耗品にすぎないことに変わりはない。したがって、現実主義的な見方・考え方による判断による運動や活動は長続きしないことが多い。現実的な目の前の"善さ"にかぶりつく傾向にあり、みかけや短期的な効果への期待と満足に過ぎない。

理想主義的な見方・考え方はその一方で、誰にとっても"善い"という理想的なことを「善さ」として定めるため、短期的な満足によらず、流行や時代の変化にも左右されにくいとされる。しかし、理想主義的な見方・考え方においては、ある種のガマンを強いられることも多い

ビニール傘の例では、エコの文脈で多く語られる「それがみんなのためになるから」という文句。少し値段は高めでも、毎日の努力が必要でも、自分ではなく後の世代のためになるから、それは役に立つ"善い"ことなんだ。このような言説で、現実にその善さを実感できるか否かはさておき、理想のためには多少の犠牲やガマンも仕方なしとされることが多い。そのため、社会的には善いことなんだろうけど...私は「ガマンしなくては」、地道に「コツコツと」など、活動の実践においては個人の意欲が制限されるなどの傾向にある。

また、理想主義的な見方・考え方は環境問題の議論でよく用いられるが、理想主義的な見方・考え方では、個人の内ではなく"外"に絶対的な「善さ」(ある種の絶対的な正解やゴール)があることを定めるため、利益を重視する現実主義的な見方・考え方を用いる人と対立することが多い。

要するに、現実主義的な見方・考え方を用いることは、善いと「されていること」が判断の基準となり、理想主義的な見方・考え方を用いることは、善いと「するべきこと」が判断の基準となる。

エコグッズの例にみたような、オシャレと「されている」ことや、環境に配慮「するべき」エコなことであるという判断基準が、購入・生産する時の説明理由になっているのである。

善さの在り処はどこに?

僕の教育観から、とりわけ人間主義の教育観からこの事例を眺めたとき、一番の問題は「善さ」の在り処にある。「善さ」の在り処とは、「善い」という判断のよりどころと言い換えてもよい。

これまでの現実主義的な見方・考え方、理想主義的な見方・考え方において、「善い」という判断のよりどころは、すべて自分の"外"にある。はたして、善いと「されている」ことは、誰が「善い」としたことなのか。善いと「するべき」だと決めたのは誰か。全ては自分ではなく、他者(自己が所属する社会を含む)が「善さ」を決定しているのである。

だからこそ、その他者や社会が変われば、現実的な「善さ」は変わりうるし、理想的な「善さ」の下には、自らが判断する善さなぞ問題にはされないのだ。

もちろん、自らが「善い」と判断するためには、現実の善さや理想的な善さに照らし合わせながら、それらを手がかりにすることも大切だ。しかし、あくまでも外的な「善さ」は、自らの内的な「善さ」を求めるための、つまり自分自身が「善い」と決めるための手がかりにすぎないことを自覚しておく必要がある。

だから、僕は自分の傘を購入する時に、自分の選択で購入する。なんとなくではなく、意志と責任をもってモノと付き合ってゆく。自己決定するとはそういうことなのだ。なるほど、その自分が例のニュースを観ると、なんだかヘンテコに感じたのも不思議ではない。なぜなら、モノを生産する者も消費する者も、自ら決定する「善さ」を問うという余地が、まだ残っているからだ。

なんとなく作るのでもなく、なんとなく買うのでもなく、自分が選択し、決定をする。意志と責任をもってモノと付き合う。なにが「善い」ことなのか。それを、自分に問い続けてゆく。小さなことかもしれない日常の、ビニール傘ひとつをとっても。

人間主義の教育者として

教育学の根本的な問いである、「人間とはなにか。」「教育とはなにか。」を問われた時、僕は
あらゆる人は、より善く生きようとしている。すなわち、自分にとっての「善さ」とは何かを常に問題にして生きている。という人間観を示す。

そして
教育とは、人間がより善く生きようとする(善さを常に問題にして生きるという)そのはたらきを、より活発にするためにどうすればよいのか問い、触発し、支援することである。という教育観を示す。

これらの人間観・教育観は、教育学の界隈では村井教育学(村井実氏による教育学説)、あるいは人間主義の教育学と言われる。その淵源を辿ると、古くはソクラテスまで行き着くことになるが、教育史の系譜を遡るのは、また別の機会にしようと思う。

たとえば、今日お昼何をたべるのか。A定食を食べるのかB定食を食べるのか。人間は常にどんな選択が自分にとって「善い」のかを問題にして生きている。その問いは、何を食べるかという日常の小さな瞬間から、自分はどう生きるのか。あの人とどう向き合えばよいのか。など、多岐にわたり、意識的にも無意識的にもやはり常に、何かしらの形で自らの「善さ」の判断を問題にしているのだ。

あなたは、この文章をどこまで読むのか。そろそろお風呂にでも入ろうか。僕は、この文章を書く時、どんな言葉を使うのか。使わないのか。どんな方法で伝えることが善いのか。

やはりこれも自分にとっての善さを常に問題にしている。表現したものが結果的に、後から振り返ってみると「善い」ものではなかったことも多々ある。反省の連続だ。あぁなんでこんな文章を書いたのだろう。なんでこんなことをしてしまったのだろう。

それでも、やはり「善さ」を問題にしてゆくことに変わりはない。そしてその問いは、死ぬ時まで生きている限り続くことになる。

なればこそ、人は常に失敗から学び、省察し、経験を再構成してゆく。より善く生きようとしてゆく。一瞬一瞬を積み重ねて、最期人生を終えるその時に、自分の足で、自己決定の選択で、自分は自分の人生を生きた、と己に説明できるのか。その問いを繰り返し生きてゆく。死に向かってゆく。

現実主義、理想主義、どんな見方・考え方が間違っているとか悪だとか主張したいのではなく、さまざまなモノの見方・考え方があって、自分とは異なる見方・考え方をする人がいる。その違いゆえに理解し合えないことや諍うこともある。しかし、自分と異なるからこそ、それぞれの「善さ」を照らして、学び合うことができる。お互いがお互いに、僕があなたに、あなたが僕に、より善く生きてほしいと願い、はたらきかけることができる。

教育とは、ひたすら
生きることに向き合うこと。
自分の善さと向き合うこと。
相手の善さと向き合うこと。
必ず迎える死と向き合うこと。

その長く、永い営みなのだ。

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