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「100年前」という距離感

手が届きそうで、届かない。その絶妙な距離。
僕はこの"距離感"に惹かれる。

僕が生活で使っている古い服や古道具などの古物たちも、およそ100年前のものたちだ。
ものによって年代にばらつきはあれど、特に1870年〜1920年の時代を好んで纏っている。

でも、なぜ僕は「100年前」の世界観が好きなのだろう。「100年前」にこだわるのだろう。そんなことを考えた。

一生という距離感

「ひぃおじいちゃんの頃はどんな世界だったの?」
と、自分のおじいちゃんに訊ねて、やっと様子が知れる。
人生100年時代と聞くが、100年間を生きた人(100歳以上の人)に僕は出会ったことがない。その意味で僕にとって「100年前」は自分には体験できない未知の世界だ。届きそうで届かない絶妙な距離感に、僕は惹かれる。この手で、たしかめたくなる。

もちろん、命がつながって今があるわけで、「100年前」は空想の世界ではないのだが、僕がこの身でその世界を体感することはできない。したがって、どこか現実とファンタジーの境界にあるような気がすることも、「100年前」という世界に感じる魅力の一つかもしれない。

人の「一生」を100年で一単位とするならば、人が自分自身の生きた経験を新鮮に語り継げるのも、およそ80〜100年位だろう。そして、生活で使われていた道具たちも100年を節目に捨てられ、処分されることが多い。ゆえに、古い服や古道具を今探しても、世代を超えて受け継がれる100年超えのものに出会う機会は稀少だ。「一生」という距離感は、やはり手が届きそうで届かない。だから、興味が湧いてくる。
そんな古物たちを、僕はドイツのアンティークマーケットや日本の蚤の市を廻って買い集めている。

100年前の古物を眺めて、当時の生活ぶりを想像することはできる。今から100年前というと、日本では明治から大正にかけての時代だ。白黒写真を思い浮かべる人も多いだろう。日本では外国の新たな文化が流入して、それまでの様式と大きく異なる変化を遂げる時代。
世界ではちょうど第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての間。大動乱の真っ只中だ。

日本としても世界としても大きな転換期にあって、文化や生活様式の変化に伴って生活もガラリと変わり、その道具たちも変わっていった。

どろくさい距離感

なぜ、僕が「100年前」を好むのか。僕が注目したのは、ものづくりにおけるどろくさい距離感だ。
現代ほど情報技術が発達していない100年前の暮らしは、今よりも、知恵のある暮らしであったと僕は考えている。

現代では機器や技術などで解決できることでも、当時は自然にあるもので賄わなくてはならなかった。さらに、戦争や恐慌などの動乱にあっては、少なく限られた資源の中で、エネルギーの当て先を"よく考える"必要があったとも考えられる。だからこそ、人々は知恵を絞って生活と向き合ったのではないだろうか。
そのような生活の知恵や工夫の跡が、当時の服や道具から垣間見えることが多い。

たとえば、現代では当たり前のようにプラスチックで作られる一般的な生活用品も、木製で手づくりされていたり、修復しながら永く使われた跡が残るなど現代との違いに触れることがある。今では化繊が主の原料で大量生産されている衣服も、当時のものは綿や麻などの天然繊維で作られたものがほとんどで、手縫いによって仕上げられているなど、自分たちの手の届く範囲内で生活をまかなっている(機械式工業の発展前なのでそうせざるをえなかったという側面もある)ということも挙げられる。

「よく考えること」や「知恵を絞る」というのは、とても人間らしい営みだ。環境と自己との関係を鑑みて、最適だと考えられる""を選択するーその繰り返しによって、ものはつくられ、生活はよりよくなっていく。ものづくりとは、よりよく生きようとする解の導き方だ。
僕からすると、100年前の"解の導き方"は、とてもどろくさい。

例えて言うなら、現代での生活は「飛行機での移動」だとしよう。目的地まで、手足を汚すことなく最短距離で早く着く。科学や技術をふんだんに駆使して、ひとっ飛びで解を出す。デジタルの魔法のようだ。
対して、100年前の生活は「徒歩での移動」だ。飛行機なんていう乗り物はまだ存在しない。山あり谷あり、目的地まで手足は汚れ、途方もなく時間がかかる。とてもアナログで地道な解の出し方だ。

僕が「100年前」の古物と生活していると、現代科学技術の輝かしい発展に隠れがちな、ある眼差しを感じるようになってきた。

飛行機に乗っていては遭遇することのない雨や嵐の景色。徒歩でのみ体感できる大地の起伏。道中行く先々での人々との出逢い。最短距離ではなくとも、寄り道ができるということ。手足が泥だらけになってこそ、自らの存在している感覚を味わうことができるということ。ひとっ飛びでは決して体感できない、現在地から目的地が地続きだったという感覚。これらは、自ら踏破したことにより、"経験として"実感できるものだ。このどろくさい距離感をもつことが、とても自然で人間らしいことだと僕は思う。

100年前の人が地に足をつけて導いた"解"は
古物というカタチとなって、
この世界で心地よく生きるための
どろくさい距離感を僕に教えてくれている。

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