見出し画像

今故郷への想い

⚠️津波、地震の言葉を含みます
気になる方は読まないでください

27日が経った今感じる事を私の中だけ収めておくことができず記録として残します

石川能登は生まれてから20年間過ごした場所
今日本に住む人なら誰でも知っているはず

こんな田舎でずっと暮らすなんて絶対いや!!
家族にそう言って石川を出てもうそろそろ40年近く経とうとしている

人生を振り返りと重なり合わせて石川に想いを馳せることになるなんて予想もしていなかった令和6年の元日の地震

サッカーの中継が終わり選手のインタビューが聞こえていたと思ったら急遽地震の番組に切り替わった
石川に大きな地震!
津波警報が出ました
すぐに避難してください!
と繰り返しのアナウンスに私は立っていられなくなった
実家はすぐ近くに川があり海までは自転車で5分の距離
実家は大丈夫だろうか
そう思っていると私の住む兵庫でも揺れ始めた
マンションなので揺れが長く続いて船酔いのように気分が悪くなった
こちらの揺れは向こうでは2回目のもっと大きな地震の影響だと後で分かった
その後ハッとして頭の中が切り替わった

両親と兄はどこにいるんだろう携帯も家電も繋がらない
金沢近郊住まいの2番目の兄も連絡が取れない

夫は地元の高校の部活の先輩
当然義母が1人で住む夫の実家も気になる
そちらも電話がつながらない
30分くらい経ったかはっきりと覚えていないが夫とお兄さんとは携帯で話ができその地域はニュースになる様な被害は無さそうで車で義母を迎えに行き金沢市内の家に避難するとのこと
一方私の実家は1時間経っても誰とも連絡がつかない
これだけ不安な状態が続くと体が震え出し涙が出そうになるのを無意識に堪えていた

暗くなった6時過ぎ兄からやっと「3人は無事に高台にある薬局の駐車場に避難している」と電話が来て一安心したが私はバッテリーの消耗が気になって
「無事なら良かったまた何かあったらすぐに連絡して」と必要最低限の短い会話

2度目の電話は大津波警報の解除された8時過ぎ
「一旦家に戻る。同じ町内に住む叔母と帰省していた従兄弟夫婦合計6人で今夜は過ごす」
とだけ聞いてまた短い会話

まだ両親の声を聞いていないのがどうしても気になって12時前に家電にかけてみると繋がった。それだけで良かった!これでまた話せる!そう思いながら呼び出しコール3回くらいで従兄弟の声が聞こえた
私の気持ちを知ってかすぐに母に変わってくれて、いつもの声が聞こえてきた
何度も怖かった、怖かったと繰り返す母の声は多分泣いていた
私もこれまで堪えた涙が止まらなかった
戦争の時は幼過ぎて記憶にないけど今まで生きてきて1番怖い経験したという言葉しか覚えていない
電話を切った時はもう日付は変わっていた

31日からコロナ禍結婚した長男夫婦が初めて我が家に来てくれて晩御飯をゆっくり家族で過ごすはずだった元日はこうして終わった

翌二日
9時半頃新大阪発の新幹線で東京に帰る息子たちと駅まで車に乗せる夫を玄関で見送る
7時過ぎに私1人になるとテレビからの映像と昨日の連絡が取れなかった事を思い出すとまた体が震え出した
なんで私が?大地震を経験したわけでもないのに
そう考えてもとにかく恐怖の震えがおさまらない
高校の友達は地元に残った人ばかり嫁ぎ先それぞれの地域で被害の大きさもだいぶ違うことがわかったり、石川の冬の厳しさを知ってるから輪島や珠洲の方達のこれからの生活、受験生たちのメンタルケアやモチベーションの心配など身内でもない人のことまで気にしてしまう
想像してるだけなのに涙が止まらなくなった

6日には海外赴任の夫はまたヨーロッパへ出発
入れ違いで夕方大阪に住む次男が一泊して実家の様子を話しあった

7日から完全1人生活になり
テレビやYouTubeなど見るとどうしても能登地震の情報が目に入り鳥肌や寒気、涙してを繰り返す日々
スーパーでお惣菜を見て胸やけがしたり
ここはこんなにおいしいものが簡単に手を入るのに避難所にいる人のことを思うと泣きそうなる
あまり買い物に行きたくない

両親の顔を見に帰ろうかと思ってもまだJRが復旧していなかった
ボランティアで困った人のお手伝いも考えたりしたけど体力的なことを思うと逆に周りの人に迷惑になるだろう
頭もメンタルもスッキリしない
何一つ決めて行動していない自分に腹が立ったりそれをなだめる自分もいたりしょうもない葛藤で2週間ほど過ぎていった

関西ローカルテレビ局が1.17
阪神淡路大震災から29年
のニュースが流れ始めた頃
「ちょっと、あんた!!しっかりせーよー!」
と頭の中で聞こえ始めた。
仕事の依頼のメールもまとめて何件も来てスケジュール調整や返信に追われたり少しずつ日常が戻ってきている

今は見慣れた神戸の街もあの震災から徐々にこの景色になってまだこれからも三ノ宮駅周辺も再開発で変わろうとしている
人と街に頼もしさを感じる

能登もきっと神戸のようにできるはず!!
私は私ができることをやっていけばいいんだ

10歳の時初めてアフリカ系アメリカ人とお話して英単語を並べるだけの会話ができ楽しかったあの頃に漠然と夢みた外国の方々と関わる仕事に携わっている今に感謝して目の前の仕事を精一杯頑張ることで能登のみんなを応援できる
これからも色々な形でお手伝いや応援は必要になってくる
それがプツンと切れることなく継続できるように微力ながら支えていく
これが今の私の故郷への想い

1/27/2024

#令和6年
#石川
#能登
#地震
#大地震
#津波

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?